中島敦「狼疾記」 身を持ち崩す男があるように
「全然解決のない問題を頭から相手にしないという一般の習慣は頗る都合の良いものだ。この習慣の恩恵に浴している人たちは仕合せである。全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑を感じはしない。それならば斯うしたことを常に感ずるような人間は不具なのかもしれぬ。跛者が跛足を隠すように俺も亦この精神的異常を隠すべきだろうか?所で、一体、その正常とか異常とか真実とかいう奴は、何だ?畢竟、統計上の問題に過ぎんじゃないか。いや、そんな事はどうでもいい。何より大事なことは、俺の性情にとって幾ら他人(ひと)に嗤われようと、斯うした一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。こればかりは、どうにも仕方がない。この点に就いて釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人間界の現象は制限付きの意味しか有たないのだから。所で、これに就いて古来提出された幾多の解答は、結局この解疑が不可能だということを余りにも明らかに証明している。して見れば、俺の魂の安静の為の唯一の必要事は、『形状上学的迷妄の放棄』だということになる。それは俺も知り過ぎる程知っている。それでも、どうにもならないのだ。俺が斯うした莫迦げた事柄への貪婪を以て(しかも哲学者的な冷徹な思索を欠いて)生れて来ているということこそ、唯一のかけがえの無い所与なのだ。結局各人は各様にその素質を展開するより外に手はない。幼稚だといって嗤われることを気にしたり、自分に向って自己弁護をしたりすることの方が余程おかしいのだ。女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的貪欲のために身を滅ぼす男もあろうではないか。女に迷って一生を棒にふる男に比べて数の上では比較になるまいが、認識論の入口で躓いて動きが取れなくなってしまう男も、確かにあるのだ。前者は欣(よろこ)んで文学の素材とされるのになぜ後者は文学に取上げられないのか。異常だからだろうか。しかし、異常者のカサノヴァはあれ程に読者を有っているではないか。」
中島敦 「狼疾記」