古井由吉「槿」 お互いに濁らない

時間が一刻ずつ、いわば粒立って、緩慢に傾いてこぼれていくのを、永遠に過ぎ去らぬ苦のごとくうっとりと受け止めている、そんなことがあったな、とその翌日の仕事の最中に、手はやすめずに杉尾は思った。まだお話にならぬほど若かった頃だ。つぎの時には許すと約束した恋人に、いよいよ逢いに行くその前日の暮れ方か、その当日の正午を過ぎる頃か、そんな時刻だ。唇をもどかしく触れあって、相手にはっきりとうなずかせておきながら、温かい女の身体がいまこの腕の内にあるのに、わざわざ十日後だとか、二十日後だとか、思いきって遠くへその日を定める。あれが、いまから思えば、豪勢なものだった。十日、二十日という時間を、人と思う心で一色に染める了見でいた。日一日と思いが濃くなり、草が伸びて木の葉が暗くなり、雨が降って女の身体の中でも思いが熟れていき、しかもお互いに濁らない。ますます醇化した力を集めていくと感じていた。逢う前日の暮れ方に、ここまで来て時間がもう半歩も先へ進まなくなった。そんな静かさが降りてきて、雲が紫色に焼けはじめる。それすらお互いの思いの色の飽和と眺めることができた。


古井由吉 「槿」

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