宗教の事件 36 西尾幹二「自由の恐怖」

●宗教はがんらい危険なパワーである

オウム真理教の出現によって、宗教法人法のあり方が問われはじめ、近年、日本の政教関係の特異さにあらためて目が注がれるようになった。「信教の自由」は明治憲法においてすでに明記され、戦後憲法において確認されたが、源泉をヨーロッパに仰いだ近代理念の一つと理解されてたし、今もその理解はつづいているはずである。ところが日本人が抱いている「信教の自由」の自由観念・・・・・・現行の宗教法人法にそれが反映している・・・・・・を、いまざっと見てきた欧米の自由観念と比べると、あまりの相違に唖然とせざるを得ない。
欧米においては宗教は政治的な、ときには軍事的な「力(パワー)」である。個人の信仰の力というような神秘的な次元ではなく、信仰の力を翕合(きゅうごう)させた集団的で組織的な現実の力であり、非合理的で、奇っ怪で、まがまがしい危険なものの力である。もちろんそこには権力に特有の冷静な自己統御の装置も仕組まれている。すぐに爆発するような弱い力ではない。しかし本当のところ何をしでかすか分らない闇を蔵している。どんな成熟宗教であっても、宗教は非日常と非理性とを起点としているのであるから、日常性と理性をどこまでも第一義とする市民社会の秩序とは、必然的に、正反対の位置に置かれている。宗教と社会との間では一般に不整合は避けられない。近代市民性に必ずしも調和し得ないものを市民社会に無理やりに貼り合わせているからにほかならない。政治危機が生じると、不整合は流血の惨事となる。ボスニア・ヘルツェゴビナでセルビア人とイスラム教徒の間で繰り広げられているのは宗教戦争であって、それ以外のなにものでもない。

オウム真理教はボスニアの状況、冷戦終結後の秩序の崩壊がアジアの涯のこの長閑な島国にも、否応なしに押し寄せている最初の、目立った徴候かもしれない。オウム真理教が出現するまで、わが国では宗教から国家を守る必要が意識されなかったという点に、なによりも「信教の自由」における日本人の自由観念の迂闊さ、あるいは歴史的特徴が表れている。欧米では反国家的武力集団の宗教から近代市民国家の政治を守るのが「政教分離」の基本であった。国により、文化により、有効性から非有効性までのグレードに差のあることは見てきたとおりだが、人はそこでは宗教を恐れ、警戒し、ときに宗教と戦った、神は無力で善良な道徳の代弁者ではない。怒りの神、荒ぶる神、血を好む神すらもなしとしない。

日本では最初から宗教は善と道徳を代表している。人は政治を恐れるが、宗教を恐れない。政治優位の東北アジア儒教文化に関係があるかもしれないが……後でもう一度触れる……、力の空白をもって自由であるとみなす戦後憲法的な感覚がさらにこの状況に拍車をかけた。欧米の歴史のおいては、宗教の力と国家の力とが対立相剋し、先に見てきた通り、一方が排除された後の空白は直ちに他方の力で埋められるので、永続的な力の真空状態は存在しない。「信教の自由」はきわどい力の均衡状態の上に成り立つ。空白は自由ではない。今でも教会のまき返しがあって、いつ市民的自由は教会に脅かされないとも限られない、とジル・ドゥルーズは警戒心も露に語っている。非宗教性の教育政策はキリスト教徒イスラム教の共同でそのうち取り消される可能性さえまだ今日残っている。(『リベラシオン』1989・10・26)と。革命時代からの緊迫した力の突っ張り合いはまだこうして消えていないのだ。それが欧米における自由の姿である。

しかし日本では国家と宗教の間の力の引き合いなど考えられない。だからなにもない状態が自由なのである。抽象的で、無内容で、空っぽの状態が満足すべき事由である。殊に戦後、反国家をもって自由であるとし、国家を排除した後の真空状態を自由の名において放置してきた。憲法学者はフランスの「政教分離」に理想のモデルを見て、日本の自由はまだ足りないなどと言い立てる。真空状態をさらに真空にしようとするような話である。彼らはフランスの理想的な「政教分離」の背後にある力の葛藤の現実を見ない。ことに進歩的な憲法学者の頭のなかはそうである。彼らは歴史の現実を見ないし、考えない。単なる結果としての、形式としての理想化された「自由」のモデルをフランスに見て、特殊なこの国の歴史を普遍と見立て、それによって日本人である自分を否定し、いまでもまだ、革命国家フランスに「自由」の完成品が存在するかのような幻覚にとらわれているのである。

しかし欧米では宗教の力を制するには政治の力をもってし、戦後日本のように力の空白をもって自由とみなす抽象的自由の観念に遊んだことはない。日本のように力いつまでも空白であれば、別の小さな力が代わりにその穴を埋め、これを占領し、利用しようという誘惑にかられるのも当然であろう。オウム真理教が「国家内国家」を作って現行の国家に取って替ろうとした原因は、力の空白を作った国家の側にある。


(つづく)


西尾幹二「自由の恐怖」(文藝春秋)

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