カイヨワ 遊びは無数にあり、その種類はさまざまである。
遊びは無数にあり、その種類はさまざまである。社交的遊び、戸外の遊び、(はめ絵のような)根気の遊び、(積み木のような)建設の遊び、等々・・・・・・。ほとんど無限といってよいこうした多様性にもかかわらず、著しく変わらないのは、遊びという言葉が常に、くつろぎ、リスク、巧妙といった観念をよびおこすことである。とりわけ、それはかならず、休息あるいは楽しみの雰囲気をともなう。それは、憩わせ、楽しませる。そ売れは、制約にとらわれない。ただし現実生活に対しては結実をもたらさない活動を想起させる。それは現実生活におけるまじめとは反対であり、したがって軽佻とみなされる。他方、それは労働とも反対であり、活用された時間ではなく無駄な時間とみなされる。じっさい、遊びは何ものをも生みださない。財産を生むことも、作品を生むこともない。それは本質的に不毛なのだ。遊びをやり始めるたびに・・・生涯やっても同じことだが・・・遊戯者はいつもゼロの地点に立っている。彼らは、スタートのときと同じ条件に立っている。賭け事にせよ、くじにせよ、お金にまつわる遊びもその例外をなさない。これらの遊びは富を生むのではない。ただ富を置きかえているだけである。
カイヨワ 「遊びと人間」