宗教の事件 14 「オウムと近代国家」より 三島浩司
・・・・・・唐突な問いですけど、オウムのなかにはなにか独自の物語の根というのはあるんですか。
三島 それはまだわかりませんね。ただ、われわれ戦後の人間が自分たち独自の何かを生み出すためには物語をつくり出さなければいけないわけでしょう。しかし哀しいかな、たかだか何十年かの時間のなかで生きる人間がその物語がどういうかたちであり得るかを思考できるわけがないとも思うしね。オウムの連中は大げさに何億の次元とか口はばったいことを言うとるけれど、自分らの思考能力はその程度の有限な頼りないものでしょう、実は。そうすると、億単位の物語につながるための、少なくとも多少手触りのあるひっかかりをつくらなければならない。功利的にというわけではなくて、物語の説得性としてね。麻原が南朝のことに興味を持っていることに私が興味を持っているのは、そこなんですよ。
・・・・・・そう言われると少しわかったような気もしますが、でも、果たしてそれで癒せますかね。
三島 癒せないでしょう。癒せないですよ。癒せないことをわかる成熟というのはあると思うな。喪失というものの寂寥を噛みしめるところから成熟は始まるんだから。
・・・・・・ある種の不能感であり、不可能の自覚ですよね。できないものは徹底的にできない。たとえば、スポーツやってたらあるやないですか、ノッケからモノが違う。こらどうやってもかなわん、いうのが。野球でもなんでもそうやと思うけど、打てん球はどうやっても打てんのですよ。上には上があって、レベルが違う、という現実がある。で、そういう現実に直面することで、おのれのがどの程度の器かをいい意味で自覚させられてしまうこともある。
その点、偏差値というのはいかんと思いますよね。同じ一本の序列の上にみんなおるという幻想の上に成り立っていて、偏差値40の奴でもがんばったらだれしも70になれるという前提でできてる。偏差値40と70は全くレベルの違うものやったらどうするんか、という発想はそこからあらかじめ排除されてゆく。実際、勉強の話だけに限れば、偏差値40と70とは何も個人の努力の差などでなく、初手から単なるモノの違いだったりもするんですよ。偏差値教育を一律にいけないという立場を取りませんが、いけない部分としては、そういう価値判断のものさしを一本の連続的な線のイメージにしてしまったのが何よりいけないと思いますね。
三島 大阪なんかもともと極端やからね。「そんなもん勉強なんかせんでええ。はよ金もうけんかい」となる。この発想は、いまでも一部にまだ残っとる。健康なもんやと思うけどな。
・・・・・・不肖大月、その発想を尊重いたします。その健康さが一方にないと、文字読んで勉強する側も頑張れないんですよ。それと戦いもってやっていかんのやから。
三島 あの東大闘争の時も、大いに疑問に思ったことがひとつあった。当時の東大の物理学かなんかの先生で、太平洋戦争のさなかにも研究に没頭するあまりに戦争が終わったのも知らなかったという奇妙なご仁がいた。そのご仁を東大全共闘が批判したんです。しかし、私から言わせたら「最高やないか。それが学者やないか。どこが悪い」となる。
・・・・・・みんながみんな商売人やったら世の中苦しいてしゃあない、と。そういう「学者さんなんやから、そんな商売のことなんか考えんと、先生は百年後に役に立つことをやってくれたらよろし。世間のことはわしらが引き受けまっさ」という発想が世間が世間の側にある限りにおいては、学者のような世間離れした余計者もまた世間の役に立つものになり得た。ところが、いまはその良い意味での世間の足場がないでしょ。そんな状況で「文化」もヘチマもあるかい、と。こういう状況での知識人というのは、やっぱりかなり自己経営に自覚的にならないと、あっという間に大衆社会の現実に飲み込まれると痛切に思いますね。
(つづく)
「オウムと近代国家」(南風社)
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