浅羽通明「右翼と左翼」 戦後日本の「右」「左」

当時の日本人は、国内冷戦とでもいうべき、国論の大分裂をみたのでした。今日にまで到る戦後日本の「右」「左」イメージの起源はここにあったのです。

「右」、吉田茂率いる与党自由党は、占領軍は命じる逆コースの指令を忠実に実行し、日本を西側陣営の一員、アメリカへ軍事的に従属する国としてゆく途を選びます(吉田ドクトリン)。

ただし、再軍備はすすめるものの最低限にとどめ、アメリカ軍基地として国土を提供して、その軍事力の傘の下で、資本主義的な経済復興へ先進してゆくかたちで、憲法の前文や第九条にあり、国民的にも支持が多かった非武装や平和国家の理想も幾分か取り込んでいました。

「左」、社会党や共産党、また知識人、マスコミの多くは、何ごとも占領軍のいうままに従い、アメリカの植民地のごとく従属し、西側諸国の一員となるのは、すなわち東側諸国を敵とするわけだから、戦争の際、ソ連や中華人民共和国からは、アメリカの軍事基地を国土内に持つ西側諸国の一員、すなわち敵とされ、核を含む攻撃を加えられるだろう。ゆえに絶対的な非武装中立を保ち続けなければならないと説きました。

「右」が、冷戦激化後の情勢を見すえて現実的な対処を考えたのに対して、「左」は、日本国憲法前文と第九条が制定された当時のままの理想を、その前提が失われてもなお、堅持しようとしたわけです。

この「右」から見れば「左」は、国際情勢の変化という現実を直視せずに、国連成立時の状況を絶対視し、観念的な理想像をふりまわす世間知らずと映ったでしょう。逆に「左」から見た「右」は、戦前戦中からようやく大きく前進して実現した日本国憲法体制を、「逆コース」でまた戦前へと戻そうとしている巨大な反動的勢力と映ったでしょう。

後者、つまり「左」から見た場合、この対立は、旧い日本と新しい日本とが全面対決している図と映ったはずです。もう、棲んでいる世界=文化からして違う。価値体系が異なる旧新日本人。「旧日本人」とは、当時まだ人口の過半を占めた農村、今日からは想像もつかない、水道でなく井戸、ガスでなく竈と囲炉裏、炭と薪。衣食住はまずすべて自給自足。牛馬と人力で営まれ肥料は汲み取った人糞で、星が残る早朝から日々始まる重労働。鍵がかかる部屋も戸締まりもありえない「個」のないイエ、ムラ共同体。家長と跡継ぎ息子のみが自由な大家族。家畜なみに低い女性の地位。

年であっても、裸電球がひとつぶら下がるほかは農村同様、ガス、水道もなく、トイレは汲み取り。一階建て一間住まいが井戸端を共有するプライバシーなき長屋生活が普通でした。子沢山の家庭は隣組、町内会へ組織され、人口の八割が、小学校を終えれば、百姓として、あるいは丁稚女中方向から働き始め、男は兵役を終えて女性は子どもを産んで一人前。

こうした絶対的な貧しさを大前提として、ごく少数の地主、財閥、学歴エリート(大卒は数%にも届かず、中等教育すら二、三割でした)らが君臨し、軍人と警官、役人と先生が畏敬され、天皇を幻想の家長とする大家族、村としてのアジアの共同体国家日本が成立していました。例の大正期以降の立憲国家、政党政治の成長も、この「ごく少数の超セレブ内での「密教」であって、大多数の国民は、愛国と天皇絶対主義という「顕教」、忍従と倹約の農村的な道徳意識の中で呼吸していたのです。

戦後、こうした「旧日本」的なものはすべて、「封建的」と括って呼ばれ、殊に知識人や「意識の高い」青年らにとって「全否定」の対象となりました。本当は、イエ制度にしろ絶対天皇制にしろ軍国主義にしろ、旧日本の特徴は、「封建時代」=幕藩体制下にはまず存在せず、明治以降のものなのですが。全否定される「封建的」の反対にあって、全肯定された新日本のスローガンは、「民主的」でした。それは新しい日本へ向うから「進歩的」「革新的」であり、旧日本的な臭いを残すすべては、「保守反動的」と唾棄されたのです。

そして・・・・・・、

占領下、流入したアメリカ文化と新憲法とがもたらしらもの、たとえば男女同権。私的消費の欲望の明朗な肯定。恋愛の自由。権威によらぬ話し合いによる決定。学歴と教養、文化人への尊敬。社会問題への意識の高さ。純粋さ、潔癖さ、ひたむきさ、苦悩、歌声と踊りなど「若さ」「青春」の全面的な賛美。都会のビルディングへ通勤する学歴あるホワイトカラー。トラクターと化学肥料が導入された農村。

こうしたものを肯定し、憧れ夢みる「新日本」的な価値観の大きな中心に、何よりも「平和」がありました。「封建的」「反動的」の最たるものとされた天皇陛下、軍人、警官、教師などの権威などはすべて、あの「戦時中」の記憶と結びついたかたちで、嫌悪されたのでした。

それゆえ、始まった「逆コース」が、警察予備隊を手始めに再軍備へ取りかかり、日本が冷戦体制へ組み込まれる方向へ進んだとき、軍隊、戦争と結びついてイメージされた旧日本のすべてが復活しかねない恐怖と焦りが、「民主的」「進歩的」な人々をとらえたのです。

政治学者綿貫譲治、大獄秀夫らによれば、旧日本、戦前的な価値体系を抱いた、当時の低学歴で高年齢な農業、小商店など自営業らは、「再軍備」を支持し、新日本、戦後的価値体系を抱く、当時の高学歴、若年、ホワイトカラー層は、平和主義を支持するという対立図式が、昭和二十年代後半(1970年代)まで、意識調査にはっきり顕われたそうです。

この「旧日本」派は、アメリカ化した「近頃の若者」は「軍隊へ行かないから」軟弱でなっちょランと嘆くお百姓や下町の店主や職人のおっさんおばさん層を含み、昭和四十年代くらいまではかなりの厚みがあったのです。ゆえに自由党、民主党ら保守勢力は、(吉田茂、芦田均、鳩山一郎らそのリーダー自身は、欧米風近代派だったにもかかわらず)こうした層の票が相当見込めると考えられた昭和40年代前半くらいまでは、教育勅語的な天皇敬愛、愛国心、勤勉と孝行といった旧道徳復活、歴史教育の戦前化、若者を鍛えるための徴兵など選挙公約に掲げたのでした。

ある意味これは、フランス革命で権限を奪われたブルボン王朝の復活をもくろんだ「王党派」右翼の日本版でした。占領軍による戦後革命で覆された天皇が神であった時代を再興しようというのですから。

こうした「右」に対して、最も反発した「左」が、進歩的知識人の影響を受けた教育界でした。「教え子を再び戦場へ送るな」とスローガンとした教員の労働組合「日教組」は、「新日本」派の旗頭となり、「旧日本」は政府の意向を受けた文部省が、教科書検定は勤務評価の制度で教育を再管理しようとすると、いわば「新日本」派の前衛部隊のごとく、徹底対決したのです。


浅羽通明 「右翼と左翼」

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