天皇と開戦

対米戦争は無謀な戦争であったというのが敗戦後のわが国の通念になっている。

この戦争は、たしかにあらゆる角度から見て、勝目のない戦争であった。そのことは戦う前からわかっていた。

勝目がないといえば、日露戦争も無謀な戦争ということになる。緒戦一年間くらいに、いくつかの戦闘に勝利を積み重ね、国力、武器弾薬を消耗し尽くして、第三国アメリカの仲介によって和議を結んだ。そういう第三国が存在していることがこの戦争を辛うじて無謀から救っていた。それに日英同盟という背景もあった。

しかしこの戦争は和議の仲介国がいない。武力闘争による戦争の終結が不可欠なことは誰の目にもあきらかであり、同盟国ドイツのヨーロッパとロシア戦線での今後の帰趨に、一縷の望みがつなげないこともないという程度である。しかし、ヒトラーのアリアン種族優先論からすれば、かりにイギリスとソ連を屈服させたとしても、そのときになってドイツ人が“劣等人種”である日本に手を差し伸べるかどうかは疑問である。

戦争は避けるべきであった、というのは、これも戦後の通念である。勝目のない戦争は避けるべきだ、という常識論で、誰の耳にも入りやすい。しかし、いつ、どんな条件のもとで戦争を避けるかという、具体的な論議は管見の知らないところである。

「臥薪嘗胆」という言葉で、非戦方針が選択肢の一つとして、最高指導相の間に11月の初めまで、論議されつづけていた。9月6日の御前会議で、日本の要求が拒絶されたときは10月下上旬に「開戦を決意す」という国策が決定されたのにもかかわらず、非戦方針が何度もむしかえされた。

第三次近衛内閣は、この問題をめぐって、首相近衛文麿と陸相東条英機が対立し、この絵は10月中旬に内閣を投げ出した。

9月6日の御前会議の席上で、昭和天皇は、開戦決意の決定に対して、異例の発言をされた。

「私は、毎日、明治天皇御製の
四方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
を拝読している。どうか。」(『杉山メモ』)

帝国憲法の運用慣例にしたがうなら、御前会議において、閣議決定を誘導したり、ひっくりかえしたりする発言を、天皇がしてはならないことになっている。そうでないと立憲君主制は君主独裁制に転化するからである。そのことを無論、天皇は承知していた。

しかし日米開戦への不安はたいへん強く、御前会議の前日、近衛首相の立ち合いのもとに、杉山、長野陸海統帥部長と会って、次のような問答を交わしている。

御上 予定通り出来ると思うか。お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云うたが、未だやれぬではないか。

参謀総長 更めて此の機会に私の考えて居りますことを申上げます、と前提し、日本の国力の漸減することを述べ、弾発力のあるうちに国運を興隆せしむる必要のあることに又困難を排除しつつ国運を打開する必要のあることを奏上す。

御上 絶対に勝てるか。(大声にて)

総長 絶対とは申し兼ねます。而し勝てる算のあることだけは申し上げられます、必ず勝つとは申上げ兼ねます。
尚、日本として半年や一年の平和を得ても続いて国難が来るのではいけないのであります。二十年五十年の平和を求むべきであると考えます。

御上 あゝ分った。(大声にて)

総長 決して私共は好んで戦争をする気ではありません。平和的に力を尽くして愈々の時は戦争をやる考えであります。
(『杉山メモ』)

天皇の「大声にて」のだめ押しには、私的人格のあらゆる表現を封ぜられている存在者の憂悶が感ぜられる。統帥部にたいする疑問や懸念を、これ以上言葉にすると、由々しき大事になることを知っていたであろう。かつて昭和の初頭、田中義一首相を詰問して、内閣を崩壊せしめた、にがい、後味のわるい記憶が頭にあった。

明治天皇音声の朗詠という行為は、右の経過から推測するに、和歌という文学的詠嘆が会議の発言として一定の意味をもちえないゆえに、許容される唯一の発言と考えられたのであろう。

天皇は、そんな文学的詠嘆にかこつけるべきでなく、はっきりと戦争に反対である、と発言すべきであったという意見があるが、それはやはり非現実的な空論というべきであろう。

明治天皇音声の朗詠は、閣議決定をくつがえすことはできなかったが、最後まで外交交渉を主軸として、海戦決意を能うかぎり留保しなければならぬという心理的影響をもたらしたことは否定できない。


桶谷秀昭 「昭和精神史」

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