吉本隆明 自分が脳死した場合、どうするかということからはじめると
・・・・・・1997年10月16日、日本で臓器移植法が施行されました。この法律が議員立法として成立したのは、約4か月前の1997年6月17日ですが、脳死を一律に人の死を認めるべきか否かが国会でも大きな焦点となりました。
最終的には、「臓器移植をしてもよい」と生前に文書で意思表示をした人が脳死し、家族も臓器移植を拒まない場合に限り、脳死を人の死とみなさないというダブルスタンダード[二重基準]ができたわけです。
拙速に成立した感が否めない臓器移植法には、賛成論と反対論があります。臓器移植の是非について、どのようにお考えですか?
吉本 自分が脳死した場合、どうするかということからはじめると、一番実感のこもった答えになりそうですね。「お前、脳死したら臓器移植してもいいと認めるか?」と聞かれたら、今の僕なら、「そりゃあ、お断りだ」と答えます?それは、とても明瞭です。
「人間や人間性とはなんなのか?」といった問い、科学的・医学的な地検、近親者の死を見てきたとかいった経験……そうした僕なりの考えや経験のすべてが、その答えに入っていますが、「俺は今のところ、そういう気はないぜ」というのが実感です。
なぜ、僕が「臓器移植はお断りだ」というかといえば、自分の死というのは体験したことがないし、わからないからです。自分の死というのは、自分では絶対にわからないですよ。
僕らが知っているのは他人の死だけです。他人の死を見て、「呼吸が止まった」とか、「顔が蒼くなった」とか言って、死を分かったつもりになっているだけです。それで、つい心情的に「俺、脳死したら、心臓を提供をしてもいいよ」とかいっちゃうわけですが、自分が本当に死に瀕し、臓器が摘出される段になったら、「よせばよかった」と思うかもしれません。
つまり、自分の死については、本人の意見というのはアテにならないんですよ。
・・・・・・・脳死は人の死か否かといったこともそうですが、死の定義や臓器移植といったことを法律で決めることは、おかしいということになりますか?
吉本 そうです。国会で脳死は人の死か否かといったことを決議したり、厚生省が脳死の判定基準を作ったりするなんてことは、もってのほかです。
この種の議論というのは、いつもそうなんですが、議論の仕方がすべて、前提抜きに微細に微細にというふうになっていくんです。倫理的な議論であれ、医学的な議論であれ、また厚生省の脳死判定基準であれ、それは皆、同じです。「いや、そうじゃない」とかいって、相手の揚げ足を取ったりして、どんどん議論が細かくなっていくんです。
でも、こういう議論の仕方をしている限り、根本的なことは何も解けてこないし、いくら議論を精密に詰めて行ってもだめだと思います。脳死や臓器移植をめぐっての国会やマスコミ、専門家たちの議論の仕方は、根本的にすべてあいまいで、中途半端だと思います。
「脳死は死と判定する」とか、「いや、それは倫理に反する」とかいった議論は、すべて中途半端です。中途半端なんだということを前提にしない限り、とんでもない話になっちゃいます。
・・・・・・では、何をもって人間の死とみなすべきなのですか?
吉本 “疑問の余地のない死”について、ハッキリと言及したのは、1984年に亡くなったフランスの哲学者兼医学者のミシェル・フーコーです。フーコーがいう“疑問の余地のない死”とは、全細胞が死滅した状態です。心臓死でもなければ、脳死でもない。「全細胞が死滅した時が死だ」とフーコーはいったんです。
これは誰もが承認できる“疑問の余地のない死”です。氏は点として表せない、徐々に進行するプロセスであり、領域なんだ、ということが重要です。
フーコーは、死がどういう順序で進んでいくかということについても言及しています。死に一番侵されやすい弱いところは、粘膜質の部分で、そこから死がはじまると述べています。
・・・・・・フーコーの見解に従えば、心臓死も、専門家が勝手に決めた恣意的な死に過ぎない、ということになりますね?
吉本 そうです。全細胞が死滅するには、それなりの時間を要するはずですが、専門家が今、死といっているのは、そこまで至らない手前の段階です。生命を維持する機能が回復不能である。不可逆である、と判定した時点を死だというわけです。
いくら素人が「これは死ではない」「死んだとは思えない」といっても、専門家は「そう思うのはお前が素人だからで、突き詰めていけば、俺の方が正しいんだよ」というわけです。
以前は、心臓死が死でした。今では、もっと手前の段階で脳死も死とみなしてよいということになりました。でも、もっと医学が発達したら、脳死よりもさらに手前の段階で「それは死だ」というようになるでしょう。「目の色を見ただけで、死ぬかどうかわかるぞ」とかね。
ですから、専門家が「これは死だ」と断定したり、法律で「これは死だ」と定めたりしても、それは、死の本当の判定にはなりえないんですよ。医者にしたって、神様でもなければ、自分以外の人の体についての権威でもないですからね。病院に行けば、医者がいかにいい加減か、すぐにわかります。
僕がこれは、まあまあ死の判定として認められるかなと思うのは、人工呼吸器を付けて、かろうじて生きている人がいたとして、その人に心身ともに一番長く連れ添い、愛情を持っている細君と肉親とかが、「精一杯、手は尽くした。もういいです」といって、医者に人工呼吸器を外してもらうような場合です。
全細胞が死滅する“疑問の余地のない死”以外の死の判定法としては、それしかないと思いますね。これは、脳死や心臓死の場合でも同じです。それが、現在、一番妥当な方法だと思います。
死にゆく人にとって最も親しい近親者が、そういう形で死を認め、「臓器移植が必要な人がいるなら、この人の臓器を差し上げてください」というならば、そのときは、臓器移植をしてもいいんじゃないかと思います。
・・・・・・脳死議論では、ジャーナリストの立花隆が一石を投じました。現在、脳死の判定は厚生省基準に基づいています。その基準は、「深い昏睡」「自発呼吸の停止」「平坦脳波」など、六つの項目にわたっています。脳幹を含む全脳髄が、回復不能な機能喪失の状態に陥った時も、脳死と判定するわけです。
しかし、半身不随になった人の場合など考えれば変わりますが、手足の機能が失われたからといって手足が死んでいるわけではありません。それでは立花隆は、脳死と判定するには、細胞が壊死を起こしているかどうか、細胞の器質的変化を調べる必要がある。そのために脳の血流検査を行うべきだ、と主張したわけです。血流が止まれば、細胞は確実に死にますから。
吉本 立花隆は、比較的多くの医学者らの意見を聴き、それらを総合して主張を展開していると思います。そのレベルでは、割合、妥当なことを言っていると思います。
でも僕がまず言いたいのは、「そういう議論をやるな」「ムダだ」ってことです。脳死をめぐる議論は、現在の医学のレベルに応じた中途半端な議論にすぎません。微細に分け入って、いくら議論してもムダですし、そんな議論をやったらいけないと思います。
・・・・・・立花隆は、脳死を死と認めることには賛成しています。また、脳死者から臓器移植をすることに反対しているわけでもありません。要は、脳死の判定基準に異議を唱えているわけです。
吉本 議論を際限なく細かくしていくと、本質的なところが全部飛んじゃうんです。そこは立花隆もおかしいんですよ。脳死を死と判定する際、機能死は認められないというのは立花隆の遁辞であってね。つまり。逃げ口上です。「ヒューマニズムを知らない!」「アンチヒューマニズムだ!」っていわれるのがイヤだから、そういってるんじゃないかと思うんです。
それから、僕が「そういう議論はやるな」というのには、もう一つの理由があります。それは、先の「インターネットを撃つ!」のところでも、医学者の三木成夫の知見に依拠しつつ述べたことですが、「胸が痛む」とか、「かわいそうだ」とかいった心の感じ方は、基本的には「内臓感覚」というか、「臓器感覚」に基づくということなんです。
基本的には、内臓の変化が心の変化なんですよ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった、いわゆる五感を第一義的に司るのは臓器なんです。
実をいうと、僕は三木成夫の本を読んで、「あっ!」と思ったというか、自分なりの言語論を展開するうえでも、大いに示唆を受けたんです。
僕の言語論には、僕がつくった「指示表出」という言葉と、「自己表出」という言葉とがあります。「指示表出」と「自己表出」は、いずれも、言葉が持つ機能です。僕なりの言語論でいえば、言葉には、この二つの側面があるわけです。
「指示表出」の典型は名詞で、「木」といえば、「木」をイメージする。そこには、指示性があります。イメージするというのは、脳があるからです。脳の機能によって、イメージしているわけです。つまり、「指示表出」は、明らかに脳が司る感覚的な認識によるものだということです。
一方、「自己表出」というのは心の表現です。「あっ!」といった感嘆詞などが、その典型です。そこには、別に指示性はありません。「自己表出」は、“自動表出”といっていいくらい、内臓からくる「臓器感覚」なんです。三木成夫によれば、心は内臓の動きに結びついた表出である、とみなすことができますからね。それは、「指示表出」のように、脳の機能によってイメージされるものとは違うんですよ。
三木成夫の本を読んで、そういうことを示唆され、「俺のいっていることに医学的根拠ができた」「俺のいっていることは、やはり正しかったぜ」って思ったことがあります。
・・・・・・そうすると、他人の臓器を自分の体に移植したら、臓器感覚のアイデンティティが失われる、その臓器感覚は自分のものでなくなってしまう、という恐れもありますね?
吉本 そうなんです。僕は、それはありうると思います。心臓移植や肝臓移植をした人たちが、移植前と移植後とで、人格的、精神的に、あるいは心情的にどう変わったかということは、まだ調べられていません。
・・・・・・臨死体験車の話を聞くと、心臓の動きが停止し、瞳孔が開き、傍目には死んだようにしか見えないのに、ちゃんと意識はあったということがありますね。「ご臨終です」という医者の言葉がはっきり聞こえていたり、上の方に自分の意識が昇って、周囲の人たちの様子が見えていたとか。医者の頭がハゲているなんてことも、ちゃんと見えていたといった類の体験話を聞いたことがあります。
吉本 臨死体験の際、人間の五感のうち、最後まで残るのは聴覚だといわれています。聴覚が残れば、視覚的イメージが形成されるということはあります。聴覚が視覚に転じるんです。人間の五感のうち、視覚は比較的新しい感覚で、五感は原始時代には未分化だったと考えられますから。
古代の遺跡で、地上にいてはわからないけど、上空から見ると、意味のある模様になっている遺跡がありますね。どうしてそんな模様をつくることができたのかといえば、古代人が未分化な感覚を持っていたからじゃないかと思います。
・・・・・・そう考えると、ユリ・ゲラーのような超能力のような霊能力も、ある程度は説明がつくような気がしますね?
吉本 そうです。素質的にそうした未分化な感覚を持っている人がいる、と考えればね。また、修練すれば、そうした能力を持てるようになるということもありえます。それを、ウソだと決めつけてしまうような科学は古いんですよ。
・・・・・・脳死と判定されても、意識は残っていて「俺の内臓を切り出しているな」という自覚があったら、地獄の責め苦ですね?
吉本 その可能性はあります。そこまでいくと、おっかないですね。立花隆は、臨死体験の際の視覚的イメージは脳内幻覚によるものだといっていますが、僕はそれは違うと思います。
・・・・・・三木成夫が著した『胎児の世界』という本の中には、母親の子宮の羊水は、原始の海の組成とほぼ同じで、胎児は30数億年の生命の歴史を十月十日で繰り返している、ということが書かれています。それを読んで、ハッとする思いがしました。驚くべきことですが、言われてみれば、理にかなっているというか、「なるほど」という気もします。
吉本 そうですね。胎児は、羊水の中でエラ呼吸をしている。それが、生まれ出ると、急に肺呼吸になるんです。「オギャーッ!」という産声は。肺呼吸になったということの証なんです。
出産の際、医者は赤ん坊の足を持ち、逆さにして、お尻をパンパンひっぱたいたりします。それは。エラ呼吸でつっかえている水を出してやるためなんです。その衝撃が、肺呼吸になるのを促進するんです。
ちなみにフロイトは、出産の際、胎児は衝撃を受け、その衝撃によって無意識の領域にキズがつく、それが、人間にとって一番大きなキズだといっています。
・・・・・・医学博士で作家の加賀乙彦は、「わたしは脳死を人の死だと思っている」としつつも、臓器移植法に疑問を呈しています。「審議過程も、移植医が殺人罪で告発されないための論議が中心で、情報公開など肝心の部分が論議されなかった」とか、「透明性や公平性を確保するためにも、移植情報はだれでもアクセスできるようにするべきなのに、この移植法では厚生省のみに報告がなされるだけで、国民に開示されていない」とか。
吉本 加賀乙彦の主張もどうしようもないって思いますね。脳死は人の死だというのは、本当は認められないんだけど、今の段階では、それを認めざるを得ないとか、臓器移植にしても、臓器を提供する側の近親者が納得するならば、それは認められるとか……そういうことを言うなら正統ですけどね。
加賀乙彦をはじめとする“進歩的な医学専門家たち”の議論はいつもそうなんですが、相対的に過ぎないことを、あたかも絶対的であるかのごとく議論するんです。そして、その議論の相対性、インチキ性を補うために、「国民に開かれた公開の場で議論せよ」っていうんです。
でも自分は身内の人の死を、「国民に開かれた公開の場でやれ」という家族がいたら、お目にかかりたいものです。そんな家族はいませんよ。こういうのは、一見、いい意見のように見えるけど、一番悪いウソです。本質的なところが抜けちゃって、逆に、すべてフタをする側にまわっちゃうんです。
連合赤軍が「あさま山荘」に立てこもった事件がありましたね。彼らはリンチ殺人事件を起こしましたが、加賀乙彦は「あれは精神的に異常な集団がやった事件だ」と述べていました。僕はそのとき、そういう考え方を批判しましたけどね。
人間というのは、追い詰められたら、リンチだってなんだって、やりかねない者なんです。進歩主義者たちは、そういう人間について無知で、きれいごとというか、一見、いい意見をはくんです。そして、それで、けっこう世間に通用しちゃっているところがありますから、困ったものです。
加賀乙彦は小説を書いていますが、初期の頃は、デカダンスもあり、性的にムチャクチャなところもありました。ところが、だんだん薄っぺらなヒューマニズムを描くようになっちゃったんです。そうなると、もう、あの人の小説なんか読んでいられないんですよ。これは、大江健三郎についても同じです。
・・・・・・臓器移植について、「他人の死を期待する医療はまちがっている」と批判する市民団体や臨床医らのグループもありますが?
吉本 その主張もお話にならないと思います。期待するとか、期待しないとかといったって、そんなことは医者一人一人によって違うでしょうしね。近親者にしても、看病にホトホト疲れた、お金もなくなった、もう生き返る望みもないことが明らかなら、「先生、人工呼吸器を外してください」「早く死なせてください」ということがあるでしょ。肉体的にも経済的にも参った、ということがあるわけです。
そういう時、「お前、自分の近親者が死ぬことを期待しているんだろう」といえるかといったら、いえないでしょう。「心のどこかで期待しているんじゃないか」といわれても、そんなことはわかりゃしないし、第一、期待したから悪いかってこともありますからね。
つまり、「他人の死を期待する医療はまちがっている」という言い方自体が、ウソなんだってことです。それは、市民主義者がよくやる典型的なごまかしです。
・・・・・・国内の宗教法人の約9割が加盟する日本宗教連盟は『駆け足審議での臓器移植法成立は大変遺憾。「人の生と死」をどうとらえるかという宗教的な問題こそ、参院で審議をつくすべきだった』とコメントしています。国会での審議のやり方には異議を唱えるけど、国会で審議すること自体には異議を唱えていないわけです。
吉本 国会で審議しろなんて、おかしいですよ。そんなことをいうのは、宗教家として落第です。宗教家なら、自分の言葉で人間の生と死について語るべきです。
それを一番ハッキリ語ったのは、僕が最も好きな親鸞です。親鸞は宗教家であり、かつ思想家でもありました。親鸞は、宗教運動をほとんど思想運動にしちゃった仏教の解体者なんです。親鸞は「お寺なんかいらねえ」といって、お経を読むのもやめちゃうし、肉も食っちゃうし、妻帯もしちゃう。当時でいえば、まさに“破戒坊主”です。
親鸞は「死は不定だ」といっています。つまり、人間はいつ、どんなふうに死ぬかわからないということです。人間は、あらかじめ予想を立てて死ぬことはできませんからね。
人間はいつ、どんなふうに死ぬのかわからないのだから、臨終のときの念仏にことさら重きを置くとか、念仏を唱えながら死ねば浄土に行けるとか、そんなことをいうのは間違いだと親鸞はいい出したんです。念仏をしょっちゅう唱えて、心信が深ければ、浄土へ行きやすくなるというのはウソだし、いいことをすれば浄土へ行けるというのもウソだ。念仏は一生のうち一回、真心を込めて唱えればいいことだ。そしてまた、修行なんか一切するな、というわけです。
親鸞は「死とは、常識がいうところの生と死の中間にある『正定の位置』のことだ」といっています。それは、浄土そのものではないけれど、浄土に直通の場所なんだ、というのです。親鸞はまた、こうもいっています。「死とは、そこから見ると、物事が全面的に見える場所だ」と。通常、現実の出来事というものは、それが起きて、その出来事に出合うところからしか見えないわけですけどね。
僕は信仰者じゃないですから、親鸞ほど全身的にそうだとはいえませんが、親鸞がいう死……それは、ほとんど思想的に捉えられたといってよい死であり、いって戻ってこられる自在な精神的な場所のことです。
その場所から眺めると、現実の出来事が全面的に眺められる。還相(げんそう)ですね。向こうから眺める。そうすると、物事が全面的に見えるわけです。僕は宗教家じゃありませんから、「視線」という言葉を使って、そういうことをいっています。その場所は、僕にとっても思想の原点となる場所です。
・・・・・・今の日本社会では、鎌倉時代や平安時代のように、死体が道端にごろごろ転がっているということはありません、多くの人たちが病院で亡くなり、死は特殊なものとして、隔離されるような形で処理されています。
一般的にいって、文明が高度化するにつれ、死は、日常生活から排除される傾向にあるように見受けられます。そして、その結果、死がリアリティをもって、なかなか実感できなくなったということがあるような気がします。今回の臓器移植法にしても、死をどこか即物的、点的に扱ってすませているようなところがありますが、そこには、死のリアリティの欠如という時代の潮流が反映しているようにも思われます。
そういう状況下で、死が手軽に処理されているという感がどうしても否めません。そして、それは、オウム真理教をはじめとする新興宗教にも共通するところです。新興宗教につきまとう“いかがわしさ”は、そこにひとつの要因があると思いますが、理解に苦しむのは、新興宗教が語る与太話的な“死後の世界”を、なぜ、そうバカでもない若者たちがやすやすと信じてしまうのかということです。
吉本 そうですね。死を手軽に処理しちゃっているというのは、新興宗教に限らず、社会全般の風潮ですね。新興宗教が語る与太話的な“死後の世界”を、なぜ、若者がやすやすと信じてしまうのかということについては、僕にもよくわかりません。僕は“死ねば死に切り”だと思っていますから。
でもオウム真理教の浅原彰晃の『生死を超える』や、幸福の科学の『太陽の法』といった本を読むと、文体がとてもほんわかとしていて、実感的で、一種の幸福というか、そういうものに包まれる雰囲気はあります。僕らにはこうは書けません。「こんなこと書きやがって」という引っかかりや、違和感がありますからね。
でも、若い人たちは、やっぱり感知するんじゃないかと思います。死が日常生活から遠のいたからといって、死に対する不安がなくなったわけじゃない。新興宗教はそれをよく捉えていて、無意識に入ってくるそうした不安をどうすればなくせるか、ということに力を入れていますね。
現在の日本社会は、人間関係も含め、いろいろな面で複雑化しています。一見、平穏に見えますが、複雑化した今の社会で暮らす人々が無意識の底の方で感じる不安は増大してます。自動車事故にあう危険とか、オウム真理教のサリンばらまき事件とか、社会のメカニズムからもたらされる無意識における不安は、僕らの若いときより、今の方がずっと増えていると思います。
ですから、不安を感じていないつもりでも、無意識では不安な人たちがたくさんいて、その不安の量が多い人ほど、新興宗教に入りやすいといえますね。
僕なんかが、そういう新興宗教に入らないのは、一つには、死という者は自分では絶対に経験できない、結局、自分が抱く死の観念は、すべて他人の死から受け取る印象にすぎない、ということを突き詰めて考えてみたりしたからです。
また、近親者が死ねば、悲しいですけど、何度も反芻するうちに、悲しさというのは一つの点ではなく、ある広がりを持ったものなんだ、ということがわかってきたりして、死に対する僕なりの考え方を持つようになったからです。
・・・・・・理想的な死に方とは、どんな死に方でしょうか?
吉本 自然死的な死に方がいいですね。マルクスの死に方は伝説になっています。椅子に座って話をしている最中、急に話をしなくなって、眠っているのかと思ったら死んでいたというのです。そんな死に方がいいですね。スーッといなくなっちゃうような死に方が一番理想的です。割腹自殺した三島由紀夫のような死に方は「やれ」っていわれても、僕には絶対にできないですね。
それから、「自分が死んだら、こんな葬式をしてほしい」と家族に遺言しておくというのは、僕には一切ありません。「あっさりした葬式にしてくれ」なんて遺言を残す文学者などもいますが、いざそうなると、ちっともあっさりしていなくて、大勢、弔い客が来たりして、遺言なんか全然役に立たないということもあります。
僕にいわせれば、だいたい、遺言を残すなんて、もってのほかですよ。自分が死んだあとまで、「ああせい、こうせい」というのは、どだい、ムリな話です。先程もいいましたが、僕は“死ねば死に切り”だと思っていますから。
その点、一番ひどい文学者は本居宣長ですね。「自分が死んだら墓の寸法はこうしろ」とか、「墓場に桜の木を植えろ」とか、こと細かく遺言しています。僕は、そんなことをいうやつは気持ちが悪いですね。どうかしていますよ。神経がおかしいんじゃないかという気がします。「冗談じゃねえよ」って思います。
自分が死んだあと、どうするかは、あとに残された人たちの勝手で、ご当人の問題じゃないですよ。
吉本隆明 「超20世紀論」