宗教の事件 38 西尾幹二「自由の恐怖」

●憲法のモデルをフランスに置く弊害

善かれ悪しかれ日本は西欧化されていて、国基本を決める憲法は中国産ではなく、西欧産、というより西欧のなにかの観念の模造品である。法学部の学生たちは東北アジア流の法意識を学ぶのではなく、西欧の法学を理想として学んだ教授に学んで、頭のなかをフランス語や英語やドイツ語でいっぱいにしつつ、日本人の生き方の西欧に照らしての不足や欠陥をいまでもしきりに教えこまれている。千年一日のごとく、西欧人に比べて日本人の「個」はまだ不十分で、「イエ」にとらわれ立ち遅れている、といった30年前に死滅したはずの進歩派の童話を繰り返し、繰り返しリフレインのように耳に注ぎこまれているのである。
なるほど加地氏が言うように、宗教の逸話や反乱を許さない東北アジアの政治支配の意識がやがていっさいを制し、オウムを無力化せしめ、その裁判を左右する結果となり、宗教法人法の改正に対しても後顧の憂いのない東北アジア的解決がなされるのかもしれない。しかし私が先行きを楽観していないのは、日本を否定する西欧風憲法学者の、モデルをたとえばフランスに置く弊害の大きさである。フランスという例外ないし特殊を最初から無条件に「普遍」と見立てて、その眼鏡で日本を裁く観念論は、眼鏡のなかの錯覚を現実としてしまうヴァーチャル・リアリティだが、例えば憲法学者樋口陽一氏にみられるそうした偏向レンズが「信教の自由」の憲法解釈や宗教法人法を審議する審議会運営などに影響を及ぼすことなしとしないと予想し、私は憂慮するのである。

樋口氏の文章は難解で読みにくく、同志や仲間にはたぶんぱっと通じる符丁や隠語を散りばめた閉鎖的世界で、いくつかの未証明の独断のうえに成り立っている。それも私は「自由と国家」「憲法」「近代国民国家の憲法構造」など、氏の著作を理解しようと努力を重ね、著作の前提となっているいくつかの独断の存在に気がついた。「日本はまだ市民革命が済んでいない」がその一つである。氏によると、日本では「個人」がまだ十分に析出されていない。「個人」がまず析出され、各個人の相互の自立に基づく国家を構築し、近代立憲主義を確立していくうえで、日本は「個人」の成立を阻むイエとか小家族とかいったいろいろな団体や共同体があって、今日でもまだ立ち遅れの著しい第一段階にある。それにたいし、フランス大革命が切り開いたジャコバン主義的観念は「個人」の成立を妨げるあらゆる中間団体・共同体を否定して、個人と国家の二極のみからなる「ルソー=ジャコバン型」国家を生み出す基礎となった。近代立憲主義の前提にはこのような徹底した個人主義があり、それが革命によって示されたという点に近代史における「フランスの典型性」がある、というようなことが大筋において述べられているのであるが、もとよりこれも未証明の独断である。というよりマルクス主義の退潮以後すっかり信憑性を失った革命観の一つだと思う。

まだ200年前の流血の記憶も消えない保守感情の強いフランス本国で、「ルソー=ジャコバン型」国家なる概念をどれくらいのフランス人が理想視しているか、私にははなはだ疑わしい。ジャコバン党は決して敬愛されていない。ロベスピエールの子孫が一族の名を隠して生きたという国だ。最近ではロべスピエールはスターリンの先駆だとする歴史学説もあると聞く。それに、市民革命を経ていない国では「個人」は析出されないのだとしたら、地球上ですでに経た二つか三つの国以外に、永遠に「個人」が析出される国の出てくる可能性はないであろう。なぜなら、今後、樋口氏の期待するような革命は二度と起こらないからである。市民革命を夢見る時代は終わったのだ。もしも、フランス型「個人」をモデルにして、革命を知らない日本にそれが欠如しているとフランス人に指摘されたら、お節介もいい加減にしろ、と応じれば済むだけの話ではないか。

樋口陽一氏の立論はもとより社会科学用語を多用し、憲法学の概念を駆使したむずかしい内容構成になっているが、私は専門的に氏の学説につき合うつもりはない。しかしどんな専門的文章にも素人が読んで直観的に分ることがある。氏の立場は打ち割れば今述べた2、3の独断のうえに成り立っていて、その前提への信頼が失われ、それを取り払ってしまったら、立論全体が総崩れになるような性格のものなのである。

氏を支えているのは学問ではなく、フランス革命に対する単なる信仰である。

シュミット(引用者註・カール・シュミットのこと)は、市民革命の欠如の故に集権的国家の十全な展開がなかったドイツの立場から、フランスの典型性に執着した。ひるがえって、1889年(引用者註・明治憲法制定のこと)という日付に象徴される日本の近代にあっては、市民革命の欠如にもかかわらず集権国家を実現してしまった……これを、市民革命の欠如ゆえの集権国家、という風に俗流的に定式化してはならない……ことこそが、問題であった。彼方では、個人の析出が十全でなかったがために主権の展開が十全でなかったとしたならば、此方では、個人なき主権の強調が実現してしまったのである。主権と人権の密接な関連と緊張、という論点についてはさきにとりあげたが、彼方では、密接な連関ゆえに両者とも十全な展開を見なかったといえるならば、此方では、密接な連関そのものが成立しなかった。

1889年体制下の日本では、最も重要な中間団体=「イエ」が、国家権力に対する身分制的自由の楯としての役目を果たすよりは、国家権力の支配を伝達する下請け機構として機能した(『忠孝一本)」。1946年憲法によって、個人の解放がはじめて公にうたわれ(13条前段、24条)、「個人主義の弊害」をもたらしたことが憲法非難の一つの焦点とされる、という状況も生まれてきている。しかし、「日本は自然の共同体として生まれた国であり、決して、契約にも基づいてつくられた国ではない……」と強調してやまない政治家が、首相在任中とびぬけて高い支持率を維持しつづけることができたのが、世論のありようである(中曽根康弘)。そうであるとすれば、1889年の日本社会にとっては、今日なお、中間団体の敵視の上にいわば力ずくで「個人」を析出させたルソー=ジャコバン型モデルも、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が重要なのではないだろうか。(『近代国民国家の憲法構造』67-68ページ)

まずフランスを上位に据えて、ドイツ、日本の順に上から秩序づける図式的思考の典型例が認められる。革命をなし得なかった後進国ドイツと日本の劣等感にあたかも根拠があるかのように信じられていた革命待望の時代にだけ有効であった立論である。農業国でありつづけるその後のフランスの停滞と老化は、革命の終結と破壊がこの国の近代化にもたらした後遺症であり、傷跡であるという考え方も成り立つ。革命は歴史を一つの段階に釘づけにし、時間をせき止め、社会の進歩に逆行するという実例は、やがてロシア史や中国史においても繰り返されたのである。


(つづく)


西尾幹二「自由の恐怖」(文藝春秋)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?