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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(10)

第1章 運命の寓意

プラハ ファウストの家

 プラハ新市街にあるカレル広場は昨今急増している観光客の姿も少なく、いまや数少ない市民の憩いの場となっている。その南の端に面してルネサンス様式の人目を惹かない建物が建っている。最近まで一階にはカレル大学医学部の薬局が入っていたが、今では正面につけられた緑の十字サインだけがそのことを物語っている。真昼でも人通りのまばらなその通りを暗くなってから歩くと、つい昔の言い伝えが頭をもたげてくる。かつてこの家には、あのファウストが住んでいたという。悪魔に魂を売って望みをかなえようとし、最後には契約通りに悪魔に連れ去られた伝説の人物だ。そればかりか、ルドルフ二世の宮廷錬金術師もまた、投獄されるまでこの家に住んでいた。さらに18世紀には実験好きの貴族が怪しげな化学実験を繰り返して近隣住民を不安に陥れ、19世紀には骸骨と葬儀に取り憑かれた牧師が住みついていた。この家には悪魔が出入りしている、幽霊が出る等の噂が絶えず、多くの怪談話が作られてきたのも無理はない。第二次世界大戦では連合軍の爆撃で焼夷弾の直撃を受けたが、奇妙なことに建物は無事だったという。日没の早いこの時期、細い月が対岸の丘に沈む頃、すでに暗くなった通りからは、誰も住んでいないはずのこの建物の四階の窓にかすかな明かりが見えた。
「昨夜、妙な音を聞かなかったか」
 黒いスーツを一部の隙もなく着こなした男は、年代物の重いカーテンの陰から暗い公園を見下ろしながら、部屋の奥にいる大男に声をかけた。糊のきいたシャツに磨きこまれた靴。これからパーティにでも出かけるような出で立ちだ。
「やめてください」
 髭面の大男が唯一点いているランプの影から歩み出て、彼に封筒を手渡した。こちらも示し合わせたように黒いスーツ姿だが、窓辺の男と比べるとだいぶくたびれた印象だ。
「怖いのか、レオシュ」
 彼はそれには答えず、再びランプの影に引っ込んでしまった。ひんやりとした部屋の中は湿っぽくカビ臭い。修理したものの、ラジエーターの効きもよくなかった。封筒を受け取ったウリエルはランプのそばの擦り切れたソファに腰を下ろし、中の書類に目を通し始める。レオシュはどこからかガンブリヌスの瓶を二本取り出して栓を開け、一本をランプのそばに置いた。
「…ボス?」
 レオシュは囁くように尋ねた。
「ああ、期待通りだよ」
 ウリエルは書類をテーブルに置き、瓶ビールを取り上げて、レオシュに向かって乾杯するように差し上げた。
「これから忙しくなるぞ。いろいろ用意するものがある。まずは新しいシャツだな。おまえの分も用意しておけ。少し臭うぞ」
「…はい」
 ウリエルは笑みを浮かべたままスマホを手に取った。
「ロベルト、私だ。チューリッヒのレストランの予約を頼む。オペラハウスの近くにしてくれ。日にちを間違えるな。え?心配するな、コヴァルスキの出番はもうないよ。そうだ大丈夫だ。え、子どもたちか?期待以上の大活躍だったな。私もまさか館長室に乱入するとは思ってなかったよ。あれは君が仕組んだんだろう?え、君じゃないなら偶然なのか。私は絶対君の仕業だと思ったんだがな、ロベルト。まあいい、それより、杖が一本必要だ。老人用の杖だ。ああ、そうしてくれ。頼むぞ」
 電話を終えるとウリエルはうまそうにビールを飲みほした。
「私はついてる。レオシュ、来週はチューリッヒに行くぞ」
「ボス……なぜわざわざご自分で行くんです。動ける者は他にもいるのに」
「私は必要だと思ったらそうするんだ。知ってるよな、レオシュ」
「…はい」。
「私自身が彼女に会うことが重要なんだよ。いずれおまえにもわかるだろう。それにしても」ウリエルは小さく笑った。「ワルシャワでは危なかったな。もう少しで保険屋のあの女と鉢合わせするところだった」
 ウリエルは陽気に言ったのだが、レオシュの方は何一つ感情を表すまいと決心したように押し黙ったままだ。確かにこの建物にいる限り、数百年の間に降り積もった陰鬱な時間の澱が全身にからみついて、逃れることなどできそうになかった。こんな所で大声を出したり大げさな身振りをしようものなら、たちどころに奴らが勘づいて襲いかかってくる、とこの大男は信じ込んでいるのかもしれない。
「確かにやりすぎたかもしれないが、あのイギリスの老人には会ってみたかったしな。まあ、いずれにしても済んだことだ。ワルシャワも被害届は出せないよ。なにしろ実害はなかったんだし、別人が自分の所のトップになりすましてましたが誰も気がつきませんでした、なんて外部に言えるはずないだろう。そんなことしたら信用はガタ落ちになって、あそこのセキュリティは穴だらけだと宣伝するようなもんだ。今後の寄附金にも悪影響を及ぼしかね…」
 ウリエルは不意に後ろを振り返ると、部屋を圧迫する深い闇に目を凝らした。レオシュはそれを見て声にならない悲鳴をあげた。
「ふん。気のせいだ」
 ウリエルは乱暴にソファから立ち上がった。この、合理的理性を重んじ、非科学的なものを軽蔑してやまない男もまた、この場に堆積する重苦しい沈黙を恐れていたのだろうか。
「知ってるか、レオシュ。昔ここに住んでいた錬金術師の話を」
「…いえ」
「そいつはイギリスからプラハに流れ着いたんだが、鉛から黄金を作り出せると豪語して皇帝から地位と財産を得ていたんだ。ある日皇帝が自分の目の前で黄金を作ってみせろと言ってきた。まあスポンサーとすれば当然だな。慌てたそのペテン師はその錬金術の実験でイカサマをやったんだが、それを皇帝の臣下に目撃されてしまった。これで奴は一巻の終わり。この家も他の財産もすべて没収され貴族の称号も剥奪されて、塔の地下牢に幽閉されてしまった。そこで脚を切断されたんだが、当時は麻酔なんかなかったからな。それは凄まじい声が城中に響き渡っただろうよ」
「ウリエル!……」
「ふん、怖いのか。400年以上も前の話だ」
 窓の外の闇には街灯に照らされた公園の木々が浮かび上がっている。彼はゆっくりレオシュに近づき、彼の曲がったネクタイを直しながら囁いた。
「ウクライナの英雄が他愛もない怪談に震えてるなんて、他の者が知ったらびっくりするぞ。こいつはトップシークレットだな」
 大男は何も言わずにウリエルを見つめていたが、急に思いついたようにそばのテーブルにある、もう一つのランプのスイッチを入れた。明りに照らし出された髭面の顔は蒼白だった。
「今日はもういい。明日話す」
「……はい」
 レオシュは無表情のまま、音もなく部屋から出ていった。それを横目で見ていたウリエルは低くつぶやく。
「迷信深い兵士とはね。やはりプラハには魔女でもいるのか」
 ウリエルはポケットからUSBメモリを取り出して微笑んだ。『フォルトゥナ』の下にあったスケッチの照合から一つだけどこにも記録のないペンダントが見つかった。様々な手を使ってかき集めた資料を検討してわかったことは、それの大もとの出処がプラハ城らしいということだ。時代は18世紀後半。ウリエルがたどり着いた結論は、それがルドルフ二世が作らせたもの、というものだった。そもそも『フォルトゥナ』の作者はルドルフお抱えの画家だ。可能性は高い。現在、行方はわかっていないが、手がかりを知っているかもしれない人物がチューリッヒにいることまではつきとめた。ここまでくればあと一歩だ。彼はソファに深々と身を沈め、ひとりうなづいた。
「順調だ、悪くない。いや、奇跡と言ってもいい」
 歌うようにつぶやいた彼は、もう一度日記を読み直そうと、しまってあるキャビネットを開けた。

――6月14日 晴 最近Hは押し黙ってため息ばかりついている。あのバイエルンから来たゴム職人のせいだ。いくら社交界でちやほやされても所詮は身分違い。不釣り合いな恋だというのに、うぶなHが舞い上がってるだけ。見ちゃいられない。

――8月5日 曇 戦争が始まった。ザンクト・ガレンでも国境警備軍が招集されるらしい。家の空気もピリピリしている。Hだけが相変わらず無邪気なままだ。さっきももったいぶって、秘密めかして箱の中身をあたしに見せた。代々伝わる貴重なペンダントだという。確かに大きなルビーやエメラルドの周りを四角いダイヤモンドが囲んでいて非常に高価なものらしかったが、あたしに言わせれば古くさくて悪趣味だ。こんなものが名家の証なのか。

――11月21日 曇 アッペンツェルから戻ってからHの様子がおかしい。みんなは赤ん坊ができたんじゃないかと噂してるが、本当だろうか。もしそうだとしたら、相手はやっぱりあのドイツ人か。

――11月22日 雪 Hの妊娠は本当だった。彼女の両親は半狂乱だ。戦争などそっちのけで財産の心配だ、バカバカしい。あたしはちゃんと自分の人生を生きてやる。決してHのようにはならない。

――11月30日 雪 Hの両親はLと何か相談している。Lはもうお屋敷をやめて結婚してるはずなのに何をやってるんだろう。Hは一日中ベッドから降りてこない。

――3月17日 晴 Hは男の子を産んだ。あのドイツ人の子供だ。

 彼は表紙の取れた100年前の日記を閉じ、背もたれに体をあずけて目を閉じた。祖父の唯一の形見は彼にとって長年の謎だった。祖父は人づき合いが悪くいつも酒臭かったが、なぜか孫の彼だけは気に入っていたようで、亡くなる前に彼に手渡して言った、これがおまえをこのろくでもない生活から救ってくれると。日記は宝の地図でも恐喝のネタでもなかったが、それでも彼は捨てる気になれず手元に置いていた。いま改めて読んでみると、この日記に書かれたことと祖父の言葉から一つの物語が浮かんでくる。祖父の出生の秘密に関わる物語だ。彼は満足そうに微笑んだ。月のない夜はあくまで暗く、人気の失せた公園から木陰越しに見える窓の明かりが、周囲の闇を一層濃くしていた。

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