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随想 「T氏の『自転車専用アルバム』 と 気変わり」

本日8月30日は廣瀬さんのご命日。久しぶりに文章をアップします。

当初は、今年のご命日までに、連載シリーズ、「『オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。』というお話」の最終回で記したように、このnote全体の「あとがき」的な文章を書こうと予定していたのですが、気変わりしたので、それは、少々先延ばしにさせて頂こうかと思っています。

どう気変わりしたかはさておき、まずはそのきっかけとなったお話から。


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先月、創業当初の廣瀬さんを良く知る人物、T氏とお会いする機会を頂きました。
これまで、私は、そのお名前すら存じ上げていなかった古い古いヒロセのお客さんです。

T氏は先月(2024年の7月)70歳になったばかり。
今年の春頃、私のYouTubeチャンネル、「廣瀬秀敬自転車資料館」を発見。その中に、77年の走行会で走るご自身の姿を見つけられ、ビックリされたそうです。

下の二つの動画がT氏が登場する動画です(動画中のどなたがT氏かは、後述するT氏の愛車から想像してみて下さい)。

1977 02 02 Velo.Club.HIROSE.KODAIRA (Road racer time trial)


1977 03 20 Velo.Club.HIROSE.KODAIRA (Touring bicycle time trial)


以降、T氏は、私が作った全ての動画を、日々、何度も何度も、繰り返しご覧下さっていたのだとか。
そして、ついには、T氏にとって操作が不慣れなSNSを通じ、全く面識の無い私に「会いませんか?」とお声がけ下さったのです。
具体的には、お子さんの「X」アカウント経由で連絡を頂きました。

T氏から「会いたい。」との提案を受け、私は「私のつたないHP作りにお叱りを頂くんでは無かろうか…」とビビり、躊躇したのですが、「年寄りの我儘だと思って是非!」とまで仰られるので、恐る恐るの思いで出かけることに。

T氏とはファミレスでお会いしました。
T氏はつい最近購入したと言うクロスバイクで来店。とても70歳には見えない出で立ちとたたずまい。「飾らず、爽やかな気をまとった方」という第一印象でした。

先に到着して店内にいた私が立ち上がって挨拶をするやいなや、T氏は背負っていた大きめのデイパックを下ろし、中から写真アルバムを三冊引きずり出すと、テーブルの上に置きます。
「これね、僕の『自転車専用アルバム』なんですよ。」
「重かっただろうに。」と恐縮しつつ呆れる私を尻目に、T氏の口からはヒロセさんとの昔話が次から次へと溢れ出してきました。


***


都立高校でバレー部だったT氏。神田にあった大学ではサイクリング部に入り、毎週末、輪行で山梨に出かけては、ひたすら仲間たちと走りまわっていたそうです。
アルバムの最初の一枚は、そのサイクリング部の集合写真でした。

下も同じ催しのワンカット。

まだまだモノクロ写真の多い時代。アルバムの半分近くが白黒でした。

T氏は大学の部活だけでは飽き足らず、当時、廣瀬さんが盟友の有吉氏と行っていたヒロセの走行会にも参加することに。

なんでも、その頃都内にあった全てのサイクルショップを巡った挙句「一つ質問をすると十の合理的答えが返ってくる(T氏談)」廣瀬さんの知識、見識に心酔し、入り浸るようになったのだとか。

下はヒロセの走行会でのT氏の勇姿を記録したカット。

アルバムに記されたV.C.H.Kとは「ベロ・クラブ・ヒロセ・小平」の略で、ヒロセの走行会クラブ名のようなもの。
走行会のことを、ヒロセでは、レースでは無く、T.T.(タイム・トライアル)と呼んでいました。

その理由や活動内容については下記の字幕付き動画でどうぞ。

ヒロセの走行会「V.C.H.K」前編


ヒロセの走行会「V.C.H.K」後編


この走行会は、廣瀬さんがオーダーメイド専門の自転車ビルダーになる為のデータ収集活動として行なっていたものでした。
当時、廣瀬さんはまだフレームのビルダーでは無く、廣瀬さんがロウ付けして作ったヒロセ車は、まだ、一台も存在していませんでした。

参加者は自らが他店で調達した自転車。もしくはヒロセで、廣瀬さんが取り寄せたコルナゴやチネリやTOEIなどのフレームと、これまた廣瀬さんが取り寄せた厳選パーツで組んだ車体で参加されていました。

ツーリング車のキャリアだけは、廣瀬さんがロウ付けしたヒロセ製のものが創業直後からありました。
当時のお店の経営状況やキャリア制作に関する字幕付きインタビュー動画がありますので、よろしければご覧下さい。

創業当初の走行会。それはそれはキツイものでした。
廣瀬さんが人間と自転車との相性を心ゆくまで理解するための催しです。長く厳しいコースを必死になって走ってもらわないと、本当にその漕ぎ手と自転車との組み合わせが相応しいかどうかがわからない…。
だからロードのコース設定では、軽井沢-東京間の距離207kmというものまでありました。
また、上の走行記録動画でもお分かり頂けると思うのですが、旅行車用のコース設定には、わざと砂利道や泥道のルートが混ぜてありました。
「中にはとても走れたもんじゃ無い箇所もあったよ。笑(T氏談)」

当時のコースを記録した資料(廣瀬さんのご遺族から筆者が譲り受けたもの)

廣瀬さん、当時の走行会の記録を大切に保存されており、それを見ると、T氏は、ロード、旅行車、両コースに参加され、いずれも上位のタイムで完走されていました。

当時の個人データを記録した資料(廣瀬さんのご遺族から筆者が譲り受けたもの)


T氏の「自転車専用アルバム」には、V.C.H.Kの仲間たちの姿も記録されています。

そして、廣瀬さんも。

アルバムには、走った風景、仲間たちの姿とともに、歴代の愛車たちが整理されていました。

ご購入された年代順にご紹介したいと思います。


ブリヂストン製 赤い旅行車


ケルビム製 白い旅行車


TOEI製 緑色の旅行車

T氏、「フレームにデカールを貼らなかったり、あえてクイックを使っていないところなんかに、当時のこだわりがあったんだよ。」と仰っていました。


チネリ製 水色のロードレーサー

上に動画を載せた2月2日のロード走行会でT氏が乗られていたのが、このチネリです。

この一台はヒロセで購入されたそうです。
ある時ヒロセに行くと、憧れのチネリが飾ってあり、あろうことか廣瀬さんがT氏にこう言ってきたのだとか。
「このチネリ、あなたのためにと思って、わざわざ取って来たんだよ。」と。
値段は当時36万也。今にすると2、3倍の感覚でしょうか? いずれにしても学生には大金です。
T氏、三ヶ月間、必死に新聞配達をしてゲットしたそうです。もっとも毎月12万円ずつ収め、二ヶ月目の計24万円を支払った時点で、車体を手元に引き取らせてもらえたそうですが。

T氏から私の体験していない時代のヒロセの空気をうかがえたことで、ネットで記した創業当初のヒロセの様子や活動内容が、大筋において間違っていなかったことを確認でき、安堵いたしました。

例えば、T氏、廣瀬さんと有吉さんが行なってた東洋医学(整体)を使った身体メンテナンスの試みも実際に体験されたそう。
練習走行の後、ヒロセの2階にあがり、そこで行われていた整体の教室に参加されていたそうです。

このnoteや動画の字幕において、私は、廣瀬さんから直接伺った話を、廣瀬さんが生前の間は廣瀬さんに記述内容を確認のもと、書いて来たのですが、実際に体験をしたお客さんの証言がとれていない部分もあったので、若干の不安もあったんですよね。だって廣瀬さんの思い違いや勘違い。さらには私の聞き取り間違いもありえますから。
記してきたことの裏が取れてホッとしました。

T氏がチネリを駆り、走行会のタイムで一番をとった1977年という年は、ヒロセさんがフレーム製作を始めるほんの一年前にあたります。

しかし、T氏がヒロセ車に乗ることはありませんでした。

T氏、ある日突然、実家の事情により、自転車はおろか、大学卒業までも諦め、働かなくてはならない羽目になってしまったのです。
以降は自転車に乗る体力も残らないほど、働き詰めの毎日だったそう。
次第に自転車仲間たちとは疎遠になってしまい、やがてはアルバムに記録されている自転車たちも、全て、手放してしまったそうです。

何度かヒロセのお店の前を通ることもあったそうですが、どうにも敷居が高く感じられ、気軽には立ち寄れなかったそう。
廣瀬さんが亡くなったことも、私の動画で知ったそうです。

下はT氏の自転車専用アルバム最後のページ。
果てしなく続く道の脇に、箸を置くように立てかけられた愛車の姿が印象的です。

休みなく働き続けたT氏が建設業を退職し、再びスポーツ自転車に乗る余裕が出来たのは、ようやく今年3月になってからのことでした。

T氏とは、アルバムの内容以外でも話に花が咲きました。
「廣瀬さんのお名前のうち『秀』は廣瀬さんのお父様の『秀雄』から一字もらったんだろうけど、『敬』の字はきっと伊能忠敬からつけたんだよね。そうに決まっているよね。」などと盛り上がり、気がつくとあっという間に数時間が経っていました。

帰り際、駐車場でT氏の現在の愛車を間近に拝見させて頂きました。
何十年ぶりに手に入れられた、まだピカピカのスポーツ車。それは、ブリヂストンのアルミ製廉価クロスバイクでした。
現在、シニア向けのパート仕事への通勤で活躍してくれているそうです。

ご自身では手にすることが叶わなかったヒロセ車に乗っている私を前に、言葉では自虐的に愛車を紹介するものの、微塵も卑屈さの無いT氏の笑顔が印象的でした。
どんなに辛いことがあろうとも簡単にはヘコタレナイぞ、という強い気持ちを内に秘め、長い時間をかけて厳しい悪路を走破して来られた人にしか出来ない、そんな笑い顔。

梅雨の曇り空の下、軽やかに走り去るT氏の姿勢とペダリングはとても綺麗でした。


***


どこで、どんな方が、どうなふうに私のコンテンツご覧下さっているかわからないものだよね、というのがT氏との会合直後の私の率直な感想でした。
作った動画や、記述が、受け手個人にとってどのような意味を持つか、作り手には計り知れないものだね、と。至極当たり前のことですが…。

T氏は私の作ったソフト、コンテンツに、とても感激、感動して下さっていました。「今後の生きる糧になる」というようなことまで仰って下さった。
そして、お礼の言葉だけで無く、どうしても受け取って欲しいと、高価で貴重なビンテージパーツをお持ち下さいました。
過大な評価を頂戴し、私はひたすら恐縮していました(パーツに関しては猫に小判、豚に真珠だと申し上げ、一回はお断りしたのですが、どうしても、と仰られるので)。

はからずも誰かのお役に立てていた、と言うのはなんとも嬉しいものです。そして、この会合からしばらくするうちに、私は、一度断念した自転車製作教室的な内容の文章をネット上に残したいかも、と思うようになりました。
たとえ、もうヒロセの工房やジグが損失してしまい、不完全なものにならざるをえなくても。

これが冒頭記した、私の気変わりです。
ヒロセさんの技術を伝える試みを止めることを止めようでは無いか、と。
教室的文章用に撮影した、未だ未発表の写真たちも、それなりの数、ありますし。

ということで、新たなテーマ、「廣瀬さんの自転車製作技法」に関する連載をやろうと思い立ちはしたのですが、どんなフォーマット、書き方、段取りでするかはまだまだ未定。これから考えることになります。

私は、実に怠惰でずぼらな人間です。
20歳代で鬱病をこじらせ、30歳代でサラリーマンを辞めるに至るわけですが、鬱病前と後とでは思考力が激減してしまいました。

西洋医学的にはとっくに治癒し、長い間、西洋医学の薬は飲んでいないのですが、ずっと脳に霞がかかったままで、発症前の何分の一しか頭が回転してくれない感じ。あらゆる事柄に対し、即座に反応、決断ができない。
生命力自体も衰え、行動もスローに。身近な方ほど、なんとも優柔不断で、イライラする人間に映るんだろうな、と思います。

内心忸怩たる思いがあり、焦りもするのですが、どうしようもありません。「悪い事ばかりじゃないさ。鬱病前のように先走って暴走したりはしにくくなってくれてるかもしれないし、幸か不幸かは心の持ちよう次第…。」と自らを慰めています。

廣瀬さんのHPや動画を作り始めたころのコンテンツが、タイトルと僅かばかりの説明以外、ほとんどが画像と映像だけで、文字、言葉による詳細情報が無かったのはこの自覚ゆえです。
思うように頭が働かないので、全体の構成を考えたり、論理的な文章を書くのがなんとも億劫でストレスなんですよね。自分の文章の良し悪しもわからない。
周りに促され、おそるおそる書くようにはなりましたが、苦手意識は未だ払拭できていません。

なので、新たな連載をいつから始めるかという宣言、今はできません。
前回の連載直後の今年4月から新たに始めた学習(自転車とは全く関係の無いもの)の手応えをある程度得られてから、新たな試みを始めたいという気もあります。

ですから、新連載の公開は早くても来年。一年以上先かもしれません。
もしくは、追っ付け来る老後の楽しみとするのも、人生設計的にありかも…。

いずれにしても方針が決まり次第、「X(旧ツイッター)」「YouTubeの投稿」にてお知らせ致します。
また、新連載開始前でも、今回のように随想というタイトルで、思いつきの雑記を載せることがあるかもしれませんが、その時は、また、どうぞよろしくお願い致します。


2024年8月30日

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廣瀬秀敬自転車資料館
YouTube動画も含めた私のヒロセへの取材とアウトプットに対し、ご評価を頂ければとても有り難いです。どうぞ、よろしくお願い致します。(廣瀬秀敬自転車資料館 制作者)