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「孤独な独身男性」を無視しなければテロが減る。と思う。


今回は雨のせいと、日本の未来の行事のために、真面目です。

ここ二十年ぐらい日本で起こったテロ(無差別殺人)について思い返すと、犯人は独身男性ばかりだったと記憶しています。

ソースは僕の頭のなかだけど、新幹線の事件も、街中の事件も、秋葉原の事件も、小学校の事件も、京都の事件も、すべて犯人は独身男性だった。

「男性」と定義するとジェンダー論がうんぬんとなるけれど、ここは小学校時代の「男子ー女子ー」ぐらいの意味での「男性」で、書き抜けたい。(性の多様性についてはたくさんの方が論じており、今回の主題ではないので割愛します)


さて、テロの犯人は独身男性だった。それも、孤独な。

「孤独」という意味は、友達が少なく(または皆無)、家族もおらず(両親と音信不通)、地域社会とのつながりもなく(サークル活動や、オフ会等の他者との交流もなく)、恋人もいない、ということです。


忙しい方のために、この文章の着地点を最初に申し上げると、

『「孤独な独身男性」を気持ち悪いといって無視/排除すると、テロリストになる危険性があるから、みんなあんまり冷たくしないでね。近くにいたら、ちょっと挨拶したり、話しかけたり、あわよくば友達になったりして、関係性をもってくれると嬉しい。この世界に住むみんなで、「孤独な独身男性」を無視しない世の中にすれば、悲劇的なテロを減らすことができる。テロを減らせるのは警察ではなくて(どんなに警官を配備してもテロは発生する)、この世界に住む私達です。』

ということです。真面目だ。

もうこれで終わってもいい気がするけれど、ツイッターではないので、もう少し話します。


今回のテロうんぬんの話は、日本でテロが起こるたびにうっすらと思っていたことで、映画の『ジョーカー』を見てあらためて考えたことです。

(ちなみに『ジョーカー』は孤独な独身男性がテロリストになる話で、貧困とか病気とかが主題ではなくて、あくまで「孤独」(社会から除外されている)というのが重要なポイントだと思いました。孤独の象徴のピエロ。)

『ジョーカー』の主人公を、犯罪者になる前の主人公を、「気持ち悪い」「不気味だ」といって無視する、いじめる、「孤独なのは自己責任だろ」という社会側の冷たい反応が変わらない限り、テロは起こり続けると推測します。


テロは減らしたい。安心して街を歩きたいし、電車に乗りたい。

でも、未婚男性が増える現代では、テロリストが増えていく危険性もあるわけで、なんとかならないものでしょうか? 僕にできることはまだあるかい? という話です。

そうして重要なことは、私も未婚男性で、どちらかといえば一歩間違えればテロリスト側の孤独な思考もわからなくもない、という立場にいるということです。


女性は包丁を持って無差別に人を襲う、というようなことはない気がします。すると、男性と女性の思考回路の違い(感情表現の上手下手とか)、という難しそうな問題があるのでしょう。

原因はわからないけれど、とにかくテロリストは男性がほとんどで、しかも「孤独」が重要ワードで(家族持ちの子煩悩なパパがある日突然包丁で人を襲いまくる、というのは聞いたことがない)、「孤独」が原因であれば、僕らにできることはなるべく彼らを「孤独にしない」ということだ。

路上の変質者も男性が多いし(ある意味ではテロリストみたいなものですね…)、このまま放っておいたら、1年に1回ぐらいは悲惨なテロが発生し続けるし、そのたびに犯人を死刑にしてもたぶん変わらないし、死刑は抑止力にはならないし、であれば発生要因をできるだけ減らしませんか、いっしょに。


江戸時代は僕は住んだことがないので本当のところは知らないけれど、今よりテロは少なかったような印象です。独身男性は今よりも多かったそうだけど、ゆるくみんなが繋がっていて、なんかうまくまわっていたのかもしれない。落語とか聞くと、そんな感じたする。「おまえ、そうは言ってもよお、まあ一緒に酒でも飲もうぜ、まあまあ、そんなに考えたって、なんにも始まんねえぜ、だんな」みたいな。

男性は孤独に放っておいたら、思考が狭量化して、先鋭化して、「私がこうなったのは自分以外が悪い、こらしめねば」となりがちなのかもしれない。

日本の孤独なテロリストの本棚が映し出されることがあって、ドラえもんとかあればいいけれど、彼らの本棚には海外の文学作品が並んでいたりして、なんだかとても胸が苦しくなった。きっと孤独に何かを悩んでいて、その救いをドストエフスキーとかに求めていたのではと、勝手に憶測する。


男性も女性も寂しいのは同じだけれど、なぜか男性のほうが孤立しやすく、孤独が攻撃性に転化しやすく、だからみんなで寂しそうな男性にはちょっと挨拶してみようよ、という結論なのです。

強者の放つ「自己責任論」はもっともだけれど、テロは言語道断だろうけれど、社会の側に寛容さや優しさがあったほうがいいのでは、と令和の象徴の日に思いました。



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