卒業論文から修士論文へのステップアップ(上)
佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。
卒業論文と修士論文は何が違うのか。
現時点での考えを書きます。ぼくは文学部を卒業し、文学研究科の修士2年の大学院生なので、文系の話に偏りますがご容赦ください。
・卒業論文は、アリバイづくりの事務作業
・修士論文は、自己の関心の表明・能力の証明
これが結論です。順に説明させて下さい。
この記事の有用性
この記事は大学生の皆さんにとって、「学部4年間で勉強を終えず、修士課程に進学するか否か」の判断材料になるでしょう。
さらにこの記事はむかし大学を卒業した大人にとって、大学院に入ってみる(アカデミズムに一時的にせよ戻る)判断材料にもなると思います。
ぼく自身が、大学を卒業した後、15年以上の会社員を経て大学院に通い始めたので、実体験に基づいております。
卒業論文はアリバイづくり
特定の論文を悪く言うつもりはないんですけど、先行研究を並べてから、「この題材について先行研究がないため、私がこれを研究する」というスタイルで始まる論文をよく見ます。ザ・卒業論文。
もはや人類のだれにも読み切れないほど多くの論文が発表され、多くの研究者が歴代輩出されてきたはずなのに、「先行研究がない」というのは不思議なことですね。
先行研究がないことには、大きく2つの理由があって、
・研究材料が揃わない(やりようがない)
・研究をしても意味がない(つまらない)
です。
いじわるなことを言えば、「やりようがない」題材を選ぶと、周辺を扱った先行研究を引用しまくって、自分の選んだ題材との関連性を遠巻きに並べ立てて終わり。「つまらない」題材を選ぶと、言っている内容は合っているかも知れないが、「で?」「だから?」という感想で終了。
ではこのような卒業論文がダメか。より具体的には、卒業させてもらえないか?と言えば、そんなことはありません。ちゃんと卒業し、会社員なり公務員なりになれるだろう。なぜならば、(大学の教育理念や目標などうであれ)卒業論文とは、
・先行研究を2本~3本、一応は目を通した
・コピペにせよ、2万字ほど自分で入力した
というアリバイが成立すれば十分だからです。一応、「やった、やった」ということになれば、それで大学は卒業です。
研究者としてマジメに評価するならば、先行研究の参照が足りない、正しく読めていない、ということが多いだろう。書いている途中で、論理も文脈もこじれている。しかし、とりあえず書いた(入力した)には違いない。それでよい。
ぼくは大学教育のレベルが落ちている!とか叫びたいんじゃないです。ぼく自身も、大した卒業論文を書いていません。
新卒学生を受け入れる社会の事情
新卒の学生を受け入れる企業側の立場からすれば(ぼくは中堅のサラリーマンでもある)、仕事において関連情報にちらっと目を通せるなら、社会人としては上々。内容はほぼパクリでも、関連しそうな内容をアウトプットできれば、社会人としては上々です。
奇妙な「需給の一致」が起きている。
完全コピーではなく、既存の情報と違いそうなこと提案できれば、なおよい。やりようがない・つまらない提案でも、何らかの言語を発せられたら社会人としては上々です。「やった」「やってる」感のアリバイ成立です。
大学生は判で押したように、「先行研究でやられていないから、やってみた」タイプの卒業論文を量産します。自分自身や研究という行為そのものについて深く洞察せずとも、半自動的な事務作業で書けるのがこのタイプの論文。アリバイとしては、大いに結構なのです。※皮肉じゃないです
そのような学生が社会に出ると、「この部署(あるいはわが社)では、このビジネスや業務の改善がやられていない。だから提案してみた」とアウトプットする。
おおいいね!すごいね!!となる。今年の新人は優秀ダナア。
大学生は、やることが多いです。バイト・サークル、友達づきあいや恋愛、家族との関係性の調整、就職活動など。卒業論文は最低限で十分。要領よくアリバイ工作の事務作業を済ませる訓練ができれば申し分ない。それよりも社交性、コミュニケーションの実地訓練を鍛えてきてほしい。
大人たちは、このように考えています(おそらく)。
では修士論文はどうなのか。記事を改めて書こうと思います。