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エレナ婦人の教え2 エリック優雅なる生活010 第四話 『浜辺にて』
娘が20歳になった。結婚はイヤ。子どもを持つなんてまっぴら。自分のことだけで精一杯なのに家族なんて――なんて思っていた。が、それは違った。大人になりたくない=自由だと勘違いしていたのだ。一家の主として家族を養い、子どもを持つ――それはとても意味あることだった。
だがその渦中にあるときは、わからないものだ。自分のやりたいように、生きたいように生きるのがなぜ悪いか、そう思ったのだ。したくない結婚をしたらしがらみにとらわれ、自由を奪われる、そう思っていたのだ。
だが違った。それは錯覚だった。やってみたら違った。自分の想像していたこととは違って自由になれた。船が舵を得たように安定した。精神的にも落ち着き大人になった。もちろん子どもを持ち、いろいろと試行錯誤はしたけれど、独り身だった時と比べると雲泥の差となった。
ただ結婚がゼッタイではない。事実婚やずっとステディな関係というのもある。そういうことも含めて一緒に人生を共有するというのはとてもいい。自由で楽しんで、満喫する。大変なこともあるけれど、それも含めて一緒に乗り越えていく。その向こう側にもうひとつ上の幸せがあるような気がする。
試行錯誤しながらも前へ進むヒロ。さてこれからどうなって行くのだろう? 続きはお楽しみ。さぁはじめよう。
◆前回の話の内容はこちら↓
第24章 電話
エリックさんは続けた。オーストリアの街並みや年間イベント、過去の歴史からオーストリア人の気質について。ただ肝心な中身にはあまり関心が持てなかった。自分とは関係ないや、そう思ったのだ。だからずっと僕の耳を素通りしていた。つぎのことばを聴くまでは――
「いちばん怖いのはなにかしたいと思って何年も過ぎた後。やっておけばよかったと悔やむんだ。過ぎた時間は取り戻せないからね」
レストラン『ヴァリエッタ』でエリックさんのことばが僕の脳裏に焼き付いた。
たしかにそうだ。あたらしいことにチャレンジするとき、失敗したらどうしようと怖くなる。それって言ってみれば好きな人に近づこうとするときに似ているな。おじけづいてしまってコメントするのも精一杯。当たり障りのないことばかり言ってその場を取り繕うとする。
恋愛もあたらしいことやるのもある意味似ている。やったことがないから相手の反応が怖い。だからいまの場所にじっといようとするんだよな。
レイラと逢ってから2週間が過ぎた。
“コール・ミー(電話してね。)”もらっていたメモに書かれた番号にずっと電話できなかった。何度、受話器をにぎっただろう……タイミングを逸してしまえば、だんだん連絡しづらくなる。
エリックさんは多くの人に逢わせてくれた。革職人、時計職人、著名デザイナー、トップモデル、建築家、何代も続くワイン造りひと筋の職人……その業界の第一人者をはじめ成功している事業家に逢わせてもらい、百聞は一見にしかずのことばどおりにひと通り仕事場を見せてもらった。
ビジネスがどうやってかたちづくられ、でき上がっていくのか――商品やサービスの成り立ちからその仕事に携わる喜びや愛着、経営に対する心構えから従業員に対する愛情まで肌で知った。おかげでずいぶんと賢くなったような気がする。目で見、肌で感じる……。やはり実体験に勝るものはない。
その間もずっとレイラのことは気にはなっていた。
どうしているだろう……。
そう想ったところで向こうからコールがあるわけではない。自分からするのは負けだ、そう思ってしまうのは彼女の勝気な性格のせいだ。弱音やスキを見せない彼女に苛立たしささえ覚えた。
かといってこちらからかけるのも正直怖い。2週間も空いて“いまさら何?”なんて言われたらどうしよう……。情けない男だ。自分という人間は!
そうだった。今日はパーティーに呼ばれていたっけ。「少しはオシャレしてくるように」とエリックさんに言われていた。そこで一着だけ日本から持ってきていた紺のスーツ、その袖にさっと身を通し、そそくさとパーティー会場へと向かうことにした。少し気分転換というか気晴らしになればいいやと思って。呼ばれた目的は考えずに。
第25章 マダム揚(ヨウ)
その場所はオーストリアの中心街にあった。名前は「華饗(カキョウ)」。外国に住む中国人を華僑というが、華ある宴(うたげ)を意味しているのか、韻を踏んでいるのだろう。華人による宴会を意味するその店は、中華料理をヨーロッパ風に味付けて出すという。
店は円卓を囲むように6つイスが並べてある。中華料理ではあるが、単に中国だけをイメージするものではない。どことなくエキゾチックだ。経済発展を遂げたシンガポールや上海、北京にある垢ぬけた中華料理店、そんなイメージだった。ヨーロッパの伝統家具を使っているせいか、ヨーロッパ風アジアンテイストという感じか。
円卓に近づくとテーブルに等間隔で並べられた食器が目に飛び込んできた。日本のものより3割は長い漆塗りの箸、唐草模様で描かれたスープ皿、まばゆいほど磨かれた銅製の茶器が置かれていた。
ふと奥の円卓を見ると目を奪われた。エリックさんから話を聴かされていたマダム揚その人が奥の円卓に座っていたからだ。紫に黄色のししゅうをあしらえたチャイナドレスに身をまとっていた。
アップした髪はピンできれいに束ねてありうなじは長く伸びている。テーブル脇からはドレスのスリットが観え、なまめかしく光る黒ストッキングの脚が覗いた。7センチはあるだろうか、ヒールの高い黒のパンプスがまた妙に似合っている。
まだエリックさんは来ていない。そこでさきに軽く会釈をし、2つ空けて椅子に座った。
「ハイ、あなたがヒロさん」
「はい。マダム楊さんですね。こんにちは」
マダム楊は流ちょうな日本語を使って気さくに話しかけてきた。年令は僕のひと回りちょっと上、37か38くらい。彼女も日本語を話せるらしい。
企業をいくつも経営するふた回り上のご主人と結婚、幸せな生活を送っていた。そんな生活もつかの間、日頃の無理がたたり心筋梗塞でご主人は急逝したという。それは結婚して12年が過ぎたとき。マダム楊もようやく社交界との交流も慣れちょうど脂が乗ってきたときだった。
「なにか飲む? オーストリアビール? それともせっかくだから青島(チンタオ)ビールにしたら?」
「青島(チンタオ)ビールでお願いします」
旅に慣れてきたせいか、エリックさん以外知った人がいないせいか、ここでは少しばかり大胆になる。
オーストリアやドイツビールと違って中国のビールは薄く感じる。泡立ちも少なく水っぽい。悪く言えば雑。だがその雑な感じが逆にここではホッとする。格式ばったヨーロッパに雑然としたアジア、そのふたつが混じり合えば妙な親近感を覚える。
ノドが乾いていたせいか、7分目くらいまで一気に飲み干した。薄い炭酸飲料を飲んでいる感じがして飲みやすい。
「はじめてなのね、オーストリアは」
「はい、3週間目に入ってようやく慣れたところです」
「このお店いいでしょう? オーストリアの感じがしなくて……」
「えぇまぁ。でもなんか不思議な感じがしますね。ヨーロッパなのにアジアそれも中国にいる感じで」
「ずっとヨーロッパに住んでいると、生まれ故郷が恋しくなるの。私が生まれたのは中国の広東(カントン)。小学生のとき父の仕事の都合で上海に移り、そこで台湾の企業にスカウトされ転職してね。中学生は台湾で過ごし大学生のときに留学でオーストリアに来てそのまま貿易会社に勤めることになったの。そこで夫と出逢ったのが運のツキ。そのときからずっとここに住んでいるわ」
「じゃあかれこれ20年以上住んでいることになりますね」
「そういうことになるわね。だけど私には生まれ故郷の中国の血が流れている気がしていたの。ただそれがどこから来ているのかわからなかった。でもこの店にはじめて来てときわかったの。中国の様式美に包まれた瞬間、私は中国人だってことがね」
マダム楊の話はわかるようでわからない話だった。そりゃあ僕だって外国で日本料理の店を見つけ、そこで日本人が外国語をしゃべりながら日本料理を創っていたらそれだけで純粋にうれしい。
だがマダム楊の話には素直にYESとは賛成できない。どこかことばにトゲがあったからだ。はたしてそれが何なのか? ストレートに聴くわけにもいかず困惑した。彼女にはなにか、かなり思い入れがあると感じたからだ。そこでやんわりと尋ねてみた。
「でも楊さん、どうしてそんなふうに思ったんですか。僕も日本人だけど外国で紹介される日本にはどこかピントがずれている感じがします。なんというのかな、サムライとか寺、江戸、京都とかと古風なものが紹介されたかと思ったら今度はアニメとかシブヤファッションとかオタク文化。伝統ある昔のものかいま都会で流行のもの。親近感は湧かないことはないけどそれって日本の一部分。決してそれが日本の本流じゃない。それにそもそも外国にきてまで日本文化に触れたいとまでは正直思えません」
そう言うとマダム楊はやさしく諭すように答えた。
「なるほどね。あなたが言わんとすることはわかるわ。私もそうだったから。オーストリアの企業で働き、ヨーロッパ相手に仕事をしたとき、はじめは感じなかったわ、私が中国人だということを。
ただね、白人とアジア人の間には明確な線引きがあると感じたの。表向き差別はないとは言っていても裏ではやっぱり待遇に差があったわ。明らかに私のほうが成績は上なのに後輩の白人の娘のほうが出世は早かった。そういういろんな“差別”と感じる待遇を受けていくうちに自分がアジア人だからだわと悟ったの。そんなときに現れたのが夫だったの」
「そうだったんですね」
僕はそれ以上口をはさまなかった。こちらから観れば、彼女の言う“差別”はそれほどひどいものじゃないと思えたからだ。待遇の差なんてどこにでもある。人種に関係なくどの国でもよくある話だからだ。しかし楊さんが体験したことは彼女にとっての真実だ。だから彼女の想いをくみ取ることがいまは大事だと思った。
しばらく談笑しているとエリックさんがやってきた。
「話は弾んだかい?」
「えぇ、そうですね」
気をつかって話していた分、正直いまひとつ楽しめなかった。気疲れしたのだ。ただそれを言うわけにもいかず、YESともNOとも取れないような言い方で言葉を濁した。
「マダム、食事は存分に堪能しましたか」
「いえまだ……。話に熱中してしまって……。ヒロさんと談笑していたとこなの。ユニークな子ね、ヒロさんは」
エリックさんの質問に楊さんは僕のことをそうコメントした。ほめてもらっているのか軽くあしらわれているのだろうか。
「じゃ、まとめて頼もう。フカヒレスープにペキンダック、酢豚にかに玉、麻婆豆腐、エビチリ、チンジャオロース……」
「そ、そのくらいにしてください。聴くだけでお腹一杯になりそうです」
「ハハハ。ぜんぶたいらげなくてもいいんだよ、中華料理は。みんなで分け合うから食べられる分だけ少しずつ愉しめばいい」
「それを聴いて安心しました」
「何でもそうだが人は形式にこだわり過ぎる。マナーを重視し過ぎるか軽視するんだ。中華料理にもマナーはある。だが一番大事なのはそのマナーがどこからきているか理解していることだ。形だけ覚えても意味が無いとまでは言わないが、食を楽しむ余裕が無くなってしまう」
「そう言われればたしかにそうですね。洋食でもテーブルマナー、フォークとナイフの使い方に決まりはあるけど、そこにばかりこだわり過ぎたら楽しめない」
「ただ知識として知っておくことは必要よ。いついかなる相手と食事をするかわからないからね」
「はい」
エリックさんの意見に同意していると今度はマダム楊が途中から口をはさんできた。あっちの意見に同意すれば今度はこっちの意見が気になってしまう。どちらか一方を立てるともう一方は否定するような気がしてしまう。これじゃ自分が無い気もする。なんて自分は優柔不断なんだ。
しばし談笑していて時計の針を観た。21時だ。ここにきて2時間は過ぎている。酔いが回り感覚が鈍ってきた。敬語で話しているつもりだが、ちゃんとしゃべれているか自信は無い。自分では話しているつもりだが……。時計の針が少し揺れて観える。いつの間にかうとうとと眠りこけていた。
僕が眠りこけていた間、ふたりは英語を中心に話していたようだ。時折り中国語を混ぜながら。夢心地のなかで響いてくる音がそう聴こえていた。
「そろそろ帰ろうか」
「は、はい」
唐突にことばをかけられたため深く考えず生返事をした。ほんとうはもっと長くいたかった。だが時計の針は22時を回った。そろそろ帰る時間だ。
「あら? まだいいじゃない。もうちょっといたって」
こちらの気持ちを察するかのように、楊さんは引き留めてくれた。それだけではない。驚くようなことを言ってのけた。
「なんなら私の所で飲み直してもいいわ。ちょうどいいワインが入ったところなの。せっかくだから寄ってらっしゃい」
「どうするかね? ヒロくん」
さっきまで眠気まなこだった僕の、心臓の鼓動は波打ってきた。どうしよう……まだ帰りたくはない。けれどあからさまに言うのもどこか気が引ける。初対面であつかましい気がしたからだ。
だがここは異国の地だ。少しくらい恥ずかしい想いをしても一時のことだ。そこで思い切って言ってみた。
「そうですね。もうちょっと楊さんとお話ししたい気がします」
「わかった。じゃあ僕は先に帰っておくよ」
話は決まった。楊さんのご自宅に寄ることになった。