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私の躁うつ日記6〜向かない仕事

母が倒れて泣き叫んでも落ち込んでいても出産日は来る。母が来てくれるつもりで日本の病院を予定していたが、それもなくなったので予算の面からベースの病院にした。ベースの病院はリーズナブルだが、産後3日で退院である。私は満身創痍で小さな小さな娘を抱き、冬の風に吹かれていた。寒さより不安に震えていたと思う。前が何も見えなかった。

それから1年間はほぼワンオペ(元旦那は空母勤務だったため大半はいない)で、たまに訪れてくれる友達だけが頼りだった。母の様子を見に病院や実家に行くこともあったが、父と姉に会うのが嫌だった。相手のいない隙に、私に互いの悪口を言ってくる。ずっと昔からそんなではあったが、私にどうすることもできないし、どちらの味方もできない。父に至っては酒がはいっていると体をさわってきたりする。その手のハラスメントは子供の時から受けていて、不愉快ではあったがはっきり拒絶できなかった。セクハラを受けてきたこどもは、他所でもセクハラを受けやすいという。「ふつうはそんことはしないのだ」ということを知らないからだ。黙って耐えてきた無力感も被害を訴える勇気を削ぐ。母に申し訳ないと思いつつも、実家から足が遠のいた。母がいたからこそ保たれていたバランスは完全に壊れたのだ。

その頃はもともとやっていた広告関係の仕事を家でやっていた。が、以前に比べて頭がまとまらないというか、能率が悪くなった。赤ん坊がいるというのもあるが、それよりも精神的な不安感やだるさがきつかった。たいした量でもないのに仕事が遅れてしまったり小さなミスが続き、仕事に自信が持てなくなった。それでも収入は必要だ。
可愛い盛りの娘っ子を保育園に預けるのは泣くほど嫌(実際泣いた)だが、外で働く方が安定収入になる。

新しく見つけた仕事は保険の外交員だった。短時間で高時給だったので応募したのが、おそろしく私に向いていない仕事だった。現場に出されるとみるみる弱り始め、ふさぎこむ日々が続いた。翌日のことが心配で眠りはいつも浅い。やる気がでなくてしにそうなのに、毎朝目標を叫び、社歌を歌わされる。辛い。

そんな私の様子に班長が「大丈夫?」と心配してくれた。一緒に営業に行く時、駅のホームで「こうやって電車待ってるとフラフラっと飛び込みたくなったりする?」と聞かれ「まさにその通りです」と答えた。毎朝毎朝その通りだった。私をこの世に繋ぎ止めるものは娘っ子だけで、あとはもうどうでも良かった。

室長がそんなことを聞いたのは、彼女もそうだったからだ。仕事のストレスに加え、家では嫁姑問題で悩んでいた。家にいるのは嫌なので仕事は辞められない。だから精神安定剤を飲みながら働いている。人には色々な事情があるものだなぁと思った。

#双極性障害
#マタニティブルー
#ワンオペ

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