障がい者にとって住みやすい街づくりを考える
前回の記事「世のため人のため、寄付を続けていきたいと思うこの頃」では、難民への支援や動物や家畜の福祉について、ちょっと触れてみた。今回は、障がい者の福祉について自分なりに述べてみたい。
わたしは以前看護師として2年余り働いていたが、そのなかで神経内科の病棟で神経難病の患者の看護にかかわっていたことがある。
患者はそれこそ、藁にもすがる思いで医療に頼っているわけだけれども、何種類もの薬を飲んで、それでどうにかADLを維持できるかどうか。それも、ジスキネジアなどいろいろな副作用にも悩まされていた。
こうした医療のあり方には疑問と不信を感じていたが、このことはそれから看護師として働くことを辞める理由の一つになっていった。病棟の先輩からは「パーキンソン病になるような人には、真面目な人が多い」と聞いていたが、真面目に生きてきてどうしてこんな苦労をしなきゃならないのか? と思ったものだ。
病棟から外の世界に一歩出たら、この人たちは自力で生活していかなきゃならない。それは想像以上にたいへんなことだろう。車椅子で移動するには、わずかな段差や上り坂でさえ、大きな移動の妨げになる。
一昨年は、東京オリンピック・パラリンピックが開幕されて、障がいを持っていても、そのことを感じさせないくらいに選手たちはアグレッシヴにプレーしていて驚かされた。しかし、そんな人たちでさえ、日常生活では健常者には想像もつかないほどかなりの苦労をしてきたのではないか。
もしかりに、自分が今後なんらかの障がいを負ったら、とても生きていける自信はない。たとえば視覚障害で全盲になってしまうとか、人生でもっとも恐ろしいことのように思える。ヘレン・ケラーのように、目も見えない耳も聞こえない人生の苦労など、想像すらできない。
それでは、そうした障がいを持っている人々が、この日本の社会で安心して充実して生活できるかというと、大いに疑問がある。
たとえば、駅のホームで車椅子の人はその都度、駅員の助けを必要とするし、もし電車のなかにそういう人がいたら、窮屈な中で周囲は健常者ばかりなわけで、本人はなおさら居心地が悪いにちがいない。
障がいを持っている人々が、もっと自然に、街に溶け込んで、自由に生活することはできないものだろうか。そのためにわたしが提案したいのは、日本全国各地に“障がい者特区”のような地域を指定して、街全体を作りなおせないものか。そこでは街全体を集中的にバリアフリー化し、障がい者の雇用も積極的に生み出し、そういう企業を誘致するのである。
そこで暮らすのはなんらかの障がいを抱えた人が中心になり、それが当たり前という環境である。障がいを抱えた人々が、必ずしもそこに住む必要はないし居住移転の自由はもちろんあるわけだが、そこで住むことによって税金やその他で優遇を受けられるようにするのである。障がい者と、それを支える社会の双方にとって、メリットは大きいように思う。
いまの日本の現状だと、“全国各地をバリアフリー化しようとして、結局どこも中途半端”になってしまっているように見える。それならば、特定の街に集中して、そこだけ充実して障がい者のために特化した街づくりをやったほうがはるかにいいと思う。
以上に挙げたものは、わたしがここ数年の間に感じていた考えを大まかにまとめたものだが、こうしたものが「健常者による押しつけ」にならないように注意する必要もある。まず、障がいを抱えてる人々が、日々をどのように感じて暮らし、なにを思いながら生活しているのか…それを自身の口から語って人に伝えてもらうことが、なによりも大切であると思う。
本稿では、「障がい者」という書き方に統一しているが、文章で変換すると自動的に「障害者」になってしまい、いちいち書き直しながら編集をしている。彼らは社会に“害”を与えているわけではないのだから、“障害”という当て字はどこかおかしいと思う。
あまり詳しくは知らないが、オランダには「認知症の村」があるのだという。同様に、日本にも「障がい者の街」があってもいいのではないかと考えている。