現代アート小説 絵絣 EGASURI 「蝶々編」
美しすぎる少女が、少年の目の前に立っていた。
この山のふもとの女の子たちは、生まれたときからみんな知っている。だから、目の前の少女は、どこか遠くからやって来たはずだった。
突然現れたから、美しすぎるって感じたのかもしれない。
少女は、どこからも風が吹いていないのに、長い髪を山に向かって、さらさらとなびかせていた。身体がスラリと伸びて、小さな顔は、ぼんやりとしていて、よく見えない。
「どこから来たの?」、少年は聞いた。
「ときどきね」、少女は言った、
変わったしゃべり方をするな、と少年は思った。
「誰かを訪ねて来たの?」
つむじ風が巻き上がって、少女が、ふわりと浮かんだ。
「暖かくなると、ここに来てるね」、少女は言った。「あなたにも何度も会ってる」
「それはないよ」、少年は言った。「ぼくは、会った人のことは、よく覚えているんだ。これは、ぼくの特技と言ってもいい。目の下にほくろがついているとか、そういうところまで」
「ほくろって何? 模様のこと?」
「別にいつでも、ほくろってわけじゃないだ。つまり、その人が、その人であるようなことが、別れたあとに、自然に頭に残っているっていうようなことだよ」
少女は首をかしげて、髪の毛を羽ばたかせるようにして、ふわりと浮かんだ。
「その人が、その人であるっていうのは、形があって見えるものじゃないとだめなの?」
「形と一緒に覚えているんだ。目とほくろ、その奥にひそんでいる寂しさとか」
「だったら、わたしのことは、どんなふうに覚えているの?」
「だから、会ったことがないよ」
「じゃあ、もう一回、別れてみればいいね」
少女はそう言うと、蝶々に変わって飛んで行った。
*
青年は、都会の坂道をのぼっていた。この町は、人々も多いけれど、坂道も多い。毎日、坂道をのぼって、さらにビルをのぼって、もっと空の上にのぼるようにして働いている。
坂道の脇に、一本の木が立っていた。もしかしたら昨日も、それどころか、ずっと前から、ここに立っていたのかもしれない。
アンズじゃないか、と青年は驚いた。木にくっついている花は、桜でも桃でもない。ぼくが生まれた里で、咲きほこっていたアンズだ。
どうして今まで、気がつかなかったんだろう? 花が咲かなくたって、わかるはずなのに。
蝶々が飛んで来て、久しぶりね、と語りかけた。
青年は考え込んでいて、蝶々に気づかない。
仕方ないね、蝶々は少女の姿に変わった。
「あなたに気づいてもらいたいから、アンズは一斉に花を咲かせて、わたしは少女の姿になったのよ」、蝶々は青年に言った。
青年は、振り返らずに歩いて行った。
また、都会に紛れてしまったね、蝶々はあきらめて飛んで行った。
*
今日、青年がのぼろうとしている坂道は、ふたつに分かれていた。
どっちに行けばいいんだろう? 青年は迷ったふりをしたけれど、心はもう、歩き出していた。
この別れ道は、青年が行き先を決めていたから、新たに出来上がった道なのかもしれない。
青年の頭の中に、一枚の染織りの絵が広がっている。
どこまでも繊細で、ほんのわずかに、かすれている。人の手で、これほどまでに手間をかけて、染めあげて織りあげるもの。
ここにあるものは何? 心の形? 異空間? 美しさ?
心がつかまれることなんて、そんなにあることじゃない。青年は、心を引っ張られたまま、どこまでも続く染織りの道を、ゆっくりと、のぼって行った。
*
青年は、生まれた里の坂道を歩いていた。
「ここでいいかな」
「あなたがいいなら、きっといいのよ」
青年は、坂道の途中のその場所に決めて、それから毎日、彼女と、アンズと一緒に織りつづけた。
青年がひと休みしていると、目の前を蝶々が通り過ぎた。青年は、どこかで会ったことがあるような気がした。
あの羽の模様、ふらりふらりとした飛び方。
蝶々を見ていると、頭の中にどうしても、美しすぎる少女の姿が浮かんで来る。
青年の身体が、浮き上がった。蝶々の命とつながって、一体になったように感じる。
「また、見えるようになったね」
「前にも言ったよね。会った人のことは忘れないんだ」
蝶々は、ほっとして、染織り物に向かって飛び込んだ。
蝶々は、染織り物の中で、永遠の命を持つ少女に変わった。
@「apricot season'24」 2024.3.16 ~ 4.7
art cocoon みらい
https://www.artcocoon.com/