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人生はオセロゲーム

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『生きる大事死ぬ大事』(イースト・プレス)です。その中から「罪悪感のようなものがあるなら」という題でブログを書きました。

本書の中に「人生はオセロゲーム」という心に響く文章がありました。

オセロゲームというものをご存じだと思います。 囲碁のように、一方が白、一方が黒を持ち、お互いに1個ずつ盤面に載せて、タテでも ヨコでもナナメでも、白と白で両端をはさんだら、間に存在している黒は、全て裏返し (白)になってしまいます(ちなみに、それぞれのオセロは、表と裏が黒と白になっており、 「裏返す」ことで「白から黒」、あるいは「黒から白」になります)。
そして、最終的にどこもはさめない状態(裏返せない状態)になったら、終わり。 ルールは単純で、難しいゲームではありません。 ただし、たった今、目の前で「白を黒に」裏返して、「やったあ」と喜んでいると、それもすぐに「黒を白に」裏返されてしまうのです。「これでよし」と簡単に結論を出すことができません。
このオセロゲームは、まさに「生か死か、それが問題だ」と、『オセロ』の作者 (シェークスピア)が彼の作品の中で登場人物に言わしめたように、目前の状態が瞬時に変わるのです。「ひっくり返る」と言ってもいいでしょう。
「だから、人生はオセロのようなものだ。何が起きるか、わかりはしない。世は無常で、常に移り変わるものなのだ」という「オセロ的結論」を言いたいわけではありません。 私がオセロゲームというゲームについて思うのは、次のようなことです。
「私」が「幸せ」であったかどうか、自分の今までの人生全てを「幸せだった」と思えるかどうかは、「今日の私」が決めるということ。 もし仮に、今日、「ああ、私は幸せ」と思ったとします。そうすると、昨日までに体験した “イヤなこと” 例えば失恋とか、人とのけんかや争い、受験の失敗、病気や事故なども、全てが「今日の幸せ」に至るための「原因であった」、とわかるのです。
逆に、「ああ、私ほど不幸な人はいない」と、今日、思ったとしましょう。 そうすると、昨日までの全ての過去、全ての出来事がみな、「不幸」の「原因」になってしまうのです。不幸の原因となったそれまでの出来事は、みな“不幸”に思えてしまいます。
「あれがなかったら」「あんなことが起きなければ」と、一つ一つの出来事が恨みの、憎し みの対象になってしまうのです。
しかし、今日、「私は不幸だ」「私ほど不幸な人はいない」と思っていた人でも、日が変わり、翌日になって、宝くじが当たったり、憎いと思っていた人から優しい言葉をかけてもらったりすると、もう突然に、「私ほど幸せな人はいない」と思うはず。
その場合に、昨日まで起きたことは昨日の段階で全て「不幸」であったのに、今日「幸せ」になったがゆえに、昨日までの全ての「不幸」も、みな「幸せ」になってしまう......。 オセロゲームに、とてもよく似ています。
「幸」と「不幸」は、オセロゲームのように、 白と黒がすぐにひっくり返るのです。 つまり、「幸」も「不幸」も、絶対的なものではないということになります。 「私」の、気分、が、一つの現象を、「幸」にも「不幸」にもしてしまう。 今日「幸せ」と思えたら、その「幸せ」まで連れてきてくれた自分自身の過去に、感謝できるような気がします。
ですから、つらく悲しい思いをした過去の出来事を、一つ一つ過去に戻って乗り越えたり克服したりする必要はないようです。 「今日」を「幸せ」と思えれば、今まで“黒”が並んでいた盤面が、全て“白"にひっくり返ります。
逆に、「今日」を「不幸せ」と考えたら、それまで白"が並んでいたものが、 一挙に黒、にひっくり返ってしまいます。 「幸せ」とは、「幸せ」という現象があるわけではありません。そう、思う。心が存在する だけ。どんな現象も、その人がどう思うかによって色々がつく。色が決まるのです。

コップに水が半分入っていたとき、「ああ、半分も残っていてありがたい」と思う人と、「なんだ、半分しか残っていない」と文句をいう人がいます。現象は一つしかありませんが、見方や考え方は180度違います。

これは、人生を「肯定して生きる」か、「否定して生きる」のか、という違いでもあります。人生を否定的に見て生きる人は、目の前の現れた現象の否定的な面ばかりスポットライトをあてて、非難したり、怒ったり、愚痴や不平不満を言って暮らします。

反対に、目の前の現象の明るい面ばかり見ている人は、感謝や、おかげさま、楽しい、嬉しいと言って暮らします。

「今日が幸せなら、人生の全てが幸せ」という言葉を胸に刻みたいと思います。

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