覚える勉強と考える勉強
今日のおすすめの一冊は、植松努氏の『不安な時代に踏み出すための「だったらこうしてみたら?」』(PHP)です。その中から「比べる自信」という題でブログを書きました。
本書の中に「覚える勉強と考える勉強」についてこう書いてありました。
「学ぶ」の話をすると、みんな学校の勉強だと思ってしまうのがすごく残念だと、僕はいつも思っています。学校の勉強は、「教えられたことを覚える」というやり方です。漢字、言葉、年号、数式など、「覚えなさい」と言われたことを丸ごと覚えて、知っているという状態にするのが学校の勉強です。つまり、「学ぶ」ではなく「覚える」なんです。
Eテレでやっていた、中世の学校を舞台にした海外の子供向けアニメーションを見たことがあります。普通の人はまだ貧しかった時代だから、教科書を持っているのは先生だけ。生徒には石板しかありません。
先生は教科書の内容をそのまま黒板に書き写し、生徒はそれをそのまま石板に書き写します。教科書が貴重品で、コピーもなく、ノートもない時代だから、そうするしかなかったんでしょうね。でも、こんな数百年前と同じことが、いまだに行われています。
生徒全員が教科書を持っているのに、先生が教科書をもとに黒板に書いたことを、生徒はそっくりそのまま書き写している。石板がノートや液晶タブレットに変わっても、同じことをえんえんとやっている…すごく不思議だし、非効率的です。
中学や高校のとき、僕はものすごく学校の成績がよくありませんでした。なんたって、「教えられたことを、意味もわからず暗記させられる」というのが嫌ですから、勉強が好きになれませんでした。でも僕は、自分で勝手に、飛行機やロケットの勉強をしていました。それは好きなことだからいくらでも頑張れるのです。
スペースシャトルの勉強のためには、英語の本も買いました。辞書を引きながら読みました。でも、そこで覚えた英単語は、1つもテストに出ませんでした。だから、「無駄なことをするな!」「そんなことをしてるヒマがあったら勉強しろ!」と怒られました。それでも僕は大学で飛行機の勉強をしたいと思いました。
先生は「絶対に受からないからやめろ」と言いました。でも受験したら受かってしまいました。そして、大学に入ってからびっくりです。大学の勉強はすべて、学校の先生が「くだらないからやめろ」ということだったからです。
そして、大学のテストは感動的でした。テストなのに、資料をいくら持ち込んでもいいのです。そのかわりにテストの問題はものすごく難しいのです。僕はその方法を聞いたとき、踊り出しそうになりました。だって、それこそが、僕の求めていたテストだったからです。資料を用意する段階から、テストが始まっているんです。
どの資料を用意すればいいのかを、自分で考えるのです。そしてそれは、社会の仕事のやり方そのものでした。社会では、暗記に頼ってする仕事なんてありませんでした。かならず資料を使って確認するのです。
いまや、オンラインでいくらでも世界の情報が手に入ります。スマホで検索すれば出てくるんですから、苦労して覚える必要はますますなくなっていくでしょう。それなのに、「覚える勉強」が続いているのはどうしてでしょう?
「知らないこと、わからないこと」があると恥ずかしいのは、なぜでしょう?僕の推理では、みんな小学生のままでストップしちゃっているからだと思います。
本当は、「覚える」の次の段階に「考える」があります。小学校のときの「算数」が、中学校になると「数学」になるのはそのためです。数学とは、論理的な考え方を身につけるための学問です。
いまは中世ではありません。新しい出来事、新しい考え方、新しいやり方、新しい情報がどんどん発見され、どんどん生まれています。「知らないことを知る」「わからないことがわかる」というのは、ものすごい喜びなんです。その瞬間、脳は思いっきり成長するんです。
かつて、日本が戦後から高度成長期にあるときは「覚える勉強」が最適で必要とされていました。正解をいかに早く覚え、それを再現することが、大量生産方式の時代には必要だったからです。効率を重視し、改善を繰り返していくということです。しかし、これからの正解のない時代は、そうはいきません。
誰もが自分の頭で考え、想像力や創造力を発揮し行動しなくてはいけなくなったからです。前例踏襲では変化することはできません。覚える勉強から、考える勉強へ、そしてそれを実践することが今もっとも必要とされています。
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