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野鴨の教え

今日のおすすめの一冊は、『1日1話読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』(致知出版社)です。その中から、行徳哲男師の「野鴨の哲学」という題でブログを書きました。

本書の中に「野鴨の教え」という心に響く文章がありました。

一八五五年の一一月一一日。デンマークの首都コペンハーゲンに大雪が降りました。街の人が雪かきをしていると、雪の中から一人の男が掘り起こされました。それはデンマークで一番の嫌われ者だった哲学者キェルケゴールでした。

彼はなぜ嫌われたのか。一つにはスキャンダルがあったからですが、もう一つは、毎週日曜日に教会の前に立ってバラまいた「瞬間」というビラのせいでした。デンマークは宗教国家ですから国が教会を建て、牧師は公務員扱いされます。彼はその国教を「瞬間」というビラで攻撃したのです。


「あなたたちは月曜から土曜までぼんやり生きてこなかったか。なんとなく起きて、なんとなく仕事へ行って、なんとなく家へ帰り、なんとなく語らい、なんとなく食事をとって、なんとなく床へ入る。なんとなく生きることは犯罪ではない。しかし明らかなる罪だ

「日曜日になったら教会へ来て礼拝する。アーメンを唱え、十字を切る。牧師の話を聴き、だ らだら生きる罪を赦してもらえたと錯覚して、また月曜からぼんやり生きる。曖昧に生きた ことの罪を赦してもらわんがための教会の礼拝などやめてしまいなさい」と。

そんな痛烈な批判をしたため、道を歩いていると石を投げつけられたこともあったし、 打たれたこともありました。しかし、打たれれば打たれるほど、「私は間違いなく生きている」という生の証を得て、四十二歳で雪に埋もれて野垂れ死にするのです。このキェル ケゴールの生きざまが、いまの私が生きる強烈なバックボーンになりました。

私は哲学とおよそ無縁の人生を歩んできました。しかし、職場でマルキシズムとの戦いに明け暮れ、苦悶している時、自分を生き切るというキェルケゴールの「力の哲学」と出くわしました。それにより共産党と対決する勇気が与えられたのです。

キェルケゴールは裕福な家の育ちですが、父親が家政婦を手込めにして産ませた子供でした。さらに、生まれながら脊椎の病気を煩い、屈折した青春時代を送りました。心配した父親は、彼をデンマーク郊外のジーランドという湖の畔に転地させました。

そこには野性の鴨が飛んでくるのですが、鴨たちはおいしい餌に飼い慣らされて次第に飛ぶ力を失ってしまうのです。それを見たキェルケゴールは「安住安楽こそがすべての悪の根源だ」と言いました。 ゲーテの言った「安住安楽は悪魔の褥」というのと同じです。

戦後の日本人も経済の豊かさと平和に酔い痴れて安住安楽を貪ってきましたが、キェルケゴールはそういう生き方を厳しく攻撃し、飼い馴らされた太ったアヒルになるなと警告したのです。

いま人類は最大の危機を迎えています。それは資源の枯渇でも人種の対立でもない。自分を壊して生きるアイデンティティ・クライシスです。その危機を乗り越えるために、キェルケゴールの存在の哲学は勇気と希望を与えてくれます。哲学は学ぶべきものにあらず、哲学することを学ぶべし。 

実践実証しなければ哲学ではない。それを私に教えてくれたのがキェルケゴールの「野鴨の哲学」なのです。

◆デンマーク郊外のジーランドという湖に一人の善良な老人が住んでいました。老人は毎年遠くから飛んでくる野鴨(のがも)たちにおいしい餌を与えて餌付けをしました。するとだんだん鴨たちは考え始めるのです。

こんなに景色がいい湖で、こんなにおいしい餌がたくさんあるのに、何も苦労してまで次の湖に飛び立つことはないじゃないか。いっそのこと、この湖に住みついてしまえば毎日が楽しく、健康に恵まれているじゃないか、と。それで鴨たちはジーランドの湖に住みつくようになって、飛ぶことを忘れてしまうわけです。

しばらくはそれでもよかったんです。確かに毎日が楽しくておいしい餌にも恵まれていましたからね。ところがある日、出来事が起きます。毎日餌を用意してくれていた老人が老衰で死んでしまったのです。明日からは食べるものがない。

そこで野鴨たちは餌を求めて次の湖に飛び立とうとします。しかし、数千キロも飛べるはずの羽ばたきの力がまったくなくなってしまって、飛ぶどころか駆けることもできない。やがて近くにあった高い山から雪解けの激流が湖に流れ込んできました

他の鳥たちは丘の上に駆けあがったり飛び立ったりして激流を避けましたが、醜く太ってしまった野鴨たちはなすすべもなく激流に押し流されてしまうのです。これが「野鴨の哲学」と呼ばれるものです。これはトーマス・ワトソンがIBMをつくるきっかけとなった哲学でもあります。(いまこそ、感性は力/致知出版社)より

「流れない水は腐る」という言葉がある。とうとうと流れる水でさえ、堰き止められ、新たな水が流れ込んでこないと、その水は腐る。淀(よど)んでしまっては水でさえ腐るということ。


餌をとる努力や緊張感があるから鴨は鴨でいられる。我々も、ぬくぬくとした生活に慣れきってしまい、野生を失ったら、あっというまに濁流に飲み込まれ死に絶える。様々な試練や困難もあるからこそ、緊張感を失わず生きていくことができる。

飛ぶことを忘れた鴨になってはいけないという「野鴨の教え」を胸に刻みたい。

《野鴨の哲学/キェルケゴールからの警告》 (行徳哲男・日本BE研究所所長)

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