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裸にて生まれて来たに何不足

今日のおすすめの一冊は、渡部昇一氏の『人生を創る言葉』(致知出版社)です。その中から「カーネギーの心がけ」という心に響く文章がありました。

本書の中に「裸にて生まれて来たに何不足」という心に響く文章がありました。

守田治兵衛は「寶丹(宝丹)」というコレラなどの予防薬を最初に作った人である。

この人が事業に失敗して全く無一文になり、死に場所を探しに旅に出かけたことがあった。希望のない暗い心を抱いて、甲州街道を下って甲府の安宿に泊まったときに、疲れた体を横たえて寝ようとして、ふと枕屏風(隙間風を防ぐために枕元に立てた小さな屏風)を見ると、そこにこう書いてあった。

「裸にて生まれて来たに何不足」

俳句とも川柳ともつかない句である。それも、金釘流の粗末な字で書いてあった。だが、そのときの守田氏にはピンと来るものがあった。そこでこの句を心の中で繰り返して読んでみると、翻然(ほんぜん)として悟ることがあった。

「そうだ、俺はもともと裸で生まれてきたのだ。それが今、裸一貫になったからといって、不平を起こしたり、狭い了見を起こしているのはとんでもない間違いだ」

すると急にすがすがしい気持になって、また東京に戻り、奮闘に次ぐ奮闘を続けて、ついに製薬会社で一旗挙げることに成功したのである。

人生には、ひょんなきっかけから気持を切り換えて、うまくいくことがある。時をとらえて決断できるかどうか、成功はこの一点にかかっているといってもいいのかもしれない。

◆禅に、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉がある。生まれた時は本来、もともと、何もなかった。もともとが「無」なのだから、怨(うら)んだり、妬(ねた)んだり、執着することもない、ということだ。

しかし、「無一物中、無尽蔵(むじんぞう)」という言葉もあるように、もともと何もないと思っているが、手もあれば、足もあるし、息もできる。まさに、有り難い宝物を我々は、無尽蔵に持っている。

文句を言ってはバチが当たる。「裸にて生まれて来たに何不足」人生、開き直れば、なんでもできる。

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