下座行とは
今日のおすすめの一冊は、渡辺和子氏の『人は死ぬとき何を思うのか』(PHP研究所)です。その中から「ほんとうの強さとは」という題でブログを書きました。
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渡辺和子さんは、「本当の強さ」とは、何かに敢然と立ち向かうというような勇気ではなく、受け入れがたいものを受け入れる勇気だといいます。受け入れがたいものとは、誰かに嫌なことを言われたり、悪口を言われたりしたとき、怒ったり言い返したり、反撃したりしないでグッと自分を抑える勇気だといいます。もっというなら、言われても、ニコッっと笑顔で返すくらいの勇気です。
つまり、田中真澄氏の『おれがおれがの「我」をおさえ、おかげおかげの「下」で生きよ』の言葉の通りだと思います。これを「下座行」といいます。
森信三先生は「下座行」についてこう語っています。
人間を鍛えていく土台は、一体どういうものかというに、私はそれは「下座行」というものではないかと思うのです。 たとえその人が、いかに才知才能に優れた人であっても、またどれほど人物の立派な人であっても、下座を行じた経験を持たない人ですと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです。
ではここで「下座行」というのは、一体どういうことかと申しますと、自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。 言い換えれば、その人の真の値打ちよりも、二、三段下がった位置に身を置いて、しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。 そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。
すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。 そこで、たとえば世間にしばしばあるように、自分よりつまらない人間の下につかえて、なんら不安の色を見せないということなども、一種の下座行と言ってよいわけです。
たじろがない信念というものは、かつては自分と同級生であり、否、うっかりすると自分より下級生であった人の前に、頭を下げねばならぬような位置に身をおきながら、しかも従容(しょうよう)として心を動揺せしめないこの下座行の修練によってのみ得られるものだと思います。
また、下級生が、自分の上司となったりした場合、十分にその人に礼を尽くして、昔の関係などはおくびにも出すべきではないのです。 そして相手の現在の身分を立てて、相手に傷のつかないように遇するのです。 こういう心遣いというものは、単にその人の才知才覚などによってできることではありません。
否、なまじい才知は、かような場合かえって変な態度となって、醜(みにく)いものとなりやすいのです。 そこでかような態度は、どうしてもその人が、その人生コースのどこかにおいて、一度は下座の行に服して、人間が真に鍛えられられているんでなければ、とうていできがたいことと言ってよいでしょう。 (修身教授録/致知出版社)より
人は、他人から認めてもらいたいし、褒めてもらいたくて仕方のない生き物です。そして、つい、「私はあんな有名な人を知っている」「あの店では常連で、顔なんだ」というようなことも言ってしまいます。自分の実力ではないのに、他人に威張ってしまう「虎の威を借りる狐」状態です。あるいは、一歳でも年下なら運動部のように、後輩の名前を呼び捨てする、しかも卒業して何十年とたっているのに…というような人もいます。
傲慢(ごうまん)、驕慢(きょうまん)、尊大、高慢、大柄(おおへい)、厚顔、偉そう、恩着せがましい…日ごろ世俗にまみれて生活すると、色々な垢(あか)が溜まってきます。その元にあるのが「我」です。『おれがおれがの「我」をおさえ、おかげおかげの「下」で生きよ』という言葉、毎日が修行です。
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