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「奥ゆかしい」という魅力

今日のおすすめの一冊は、斎藤一人さんの『安岡正篤先生に学ぶ 人間の品格』(PHP)  本書の中から「魅力の根源、それは陽転の発想」という題でブログを書きました。

本書の中に『「奥ゆかしい」という魅力』という心に響く文章がありました。

石舟斎は徳川家康の剣術指南役となった柳生但馬守宗矩の父で柳生新陰流の開祖だが、その教えの根幹は「兵法は平法なり」ということに尽きる。兵法は特別のものではない。日常が大切であり、ポイントである。平法とはそのような意味である。

またさまざまな格言を残しているが、たとえば…「稽古鍛錬常にして色には出さで隠し慎め」稽古鍛錬は毎日しなければならない、と石舟斎は言うのである。「色には出さで隠し慎め」常に精進して能力を蓄えておく。だが、能力があることは気配にも匂わせない。能力を隠し、みだりに外に出すことを慎む。

能力をフルに発揮するのはいざという時だけである。そういう生き方が大切だ、と石舟斎は説く。つまり自己主張を戒めているのである。諺でいえば、「能ある鷹は爪を隠す」である。確かにこういう処世や態度に魅力を感じる感性が私たちにはある。

織田信長はうつけ者といわれ、箸にも棒にもかからない奴、と見られていた。それがいざ天下取りを目指すと、天才的ともいえる手腕を発揮して覇権を確立していく。持てる能力をまるで表に出さなかったうつけ者の時代、そして天下取りでフルに能力を発揮する姿、その鮮やかな格差が信長の一つの魅力になっている。

信長とスケールは違うが、『忠臣蔵』の大石内蔵助もその前半生は持てる能力を「色には出さで隠し慎み」、自己主張しない態度に徹している。彼は昼行灯と呼ばれ、ぼんやりしているだけで何を考えているのやらわからない、毒にも薬にもならない家老に過ぎなかったのだ。それがいざ主家浅野家の大事となると一変し、ついには仇討を遂行するのである。

そういえば、会社などでも「おれが」「おれが」と名乗りをあげる人は嫌われる傾向が強い。何かといえば自分を主張し、目立たせる人は、何か任務を与えられ、それをきちんとやってのけても、あまり評価されない。

もし多少でも齟齬(そご)があったりすると、ケチョンケチョンに批判されて出世からも見放される羽目になる。

逆に、控えめな人は評判がいい。与えられた任務を黙々とこなすと、それがとくに見事というわけではなくとも、よくやったと評価される。それが出世の糸口になったりする。普段はあまり目立たない。だが、一度任務を与えられると能力を発揮して成果をあげる。出世していくのは、だいたいこのパターンである。

自己主張するのははしたない。蓄えた能力がありながら、それを表面には出さず控え目にしている人は奥床しい。そういう感性が確かに私たちにはある。もっとも、能力を蓄えていなければ、いくら控え目にしたところではじまらない。そういう人は自己主張しようにもそれだけの中身がない、というだけの話なのだから。

能力を蓄え、それを表に出さず包み隠すのが魅力、とする文化は東洋のものである。西欧の文化はまったく異なる感性で構築されている。自己をどこまでも主張し、貫徹するのが、ヨーロッパやアメリカでは魅力ある態度であり、生き方なのである。

日本人の感性として、最も好まれるもののひとつが、「水戸黄門」のような展開だ。普段は、好々爺として威張らず、飄々としているただの老人。しかし、いったん許しがたい大事件に出くわすと、印籠をかざし、水戸光圀であること明かす。

「威張る」、「ひけらかす」、「自慢する」という自己主張する人は、日本人の感性としては受け入れられない。本物は、威張ったり、ひけらかす必要がないからだ。

「色には出さで隠し慎め」

能力がありながら、控え目である、という生き方を目指したい。それが、『「奥ゆかしい」という魅力』。

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