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それでよかったね
今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『人生の「お荷物」を捨てる方法』(青春出版社)です。その中から「人生、今が花時」という題でブログを書きました。
本書の中に「それでよかったね」という心に響く文章がありました。
何事も「解釈しだい」だと思うんですよ。 知り合いで、不渡りを出して、会社倒産の危機になってしまった社長がいたんです。それで、「何とかしなきゃ! 倒産だけは食い止めなきゃ!」と、融資に駆けずり回って、もうへとへとになっちゃったんですよ。 身も心もぼろぼろで、血尿まで出たって言うんです。
「どうしよう」「会社の倒産を防ぐにはどうしたらいいんだろう」と、それだけを考えて必死で走り続けたわけですが、血尿を見たときに、その人は気がついたそうです。「自分は血尿が出るまでこんなにやった。もうしょうがないじゃないか。倒産するなら、すればいいじゃないか」と開き直ったんですね。
開き直った後は何もしなくなって、やがて会社は本当に倒産してしまいました。でも、いざ倒産してしまうと、「ああ、なんだ、倒産ってこんなものか」とあっけらかんとなったそうです。
倒産してしまうかもしれないという時は、怖くてびくびくして、「倒産するくらい なら死んだ方がましだ」と思いつめていたんでしょうが、「潰れるんだったら潰れりゃいい」という気持ちになれたんですね。
そうしたら、ゆったりと生きられるように なったそうです。彼は「あれで助かった」って言うんです。「あのまま行ってりゃ、 自殺でもしてたんだろうなと思う」って。 倒産でも何でも「なんだ、こんなもんなんだ」って思えるかどうかですね。
考え方、 解釈一つで、自殺の瀬戸際まで追い詰められていてもスーッと楽になることもあるし、後から思えば「あれがかえって良かったんだな」ということもきっとあるんじゃないでしょうか。
仏教というのは、「BA型の論理」という考え方なんですよ。「BA型」って聞きなれない言葉かもしれませんが、BはビフォアーのB、AはアフターのAです。
たとえば刑務所に入る前には、「刑務所に入るようなことはするな」と言うべきで すが、もし、刑務所に入ってしまったら、「刑務所に入ってよかったね」と言ってあ げるべきなんです。なんだかんだ言っても、もう入っちゃってるわけですから。
ところが、刑務所に入った後まで、「お前、刑務所になんて入るべきじゃない」ってまくし立てるやつがいるんですね。それはおかしいんじゃないかと思うんです。入っちゃった人に対して、「入るな」と責めてもしょうがないですよね。
作家の安部譲二さんが刑務所に入っている時、お母さんが面会に来たそうです。そのときお母さんは、こう言ったそうです。 「あなたが刑務所に入ってくれたお陰で、お母さん、映画やテレビでしか見られない 刑務所の中まで見ることができた。看守さんに会うこともできて、うん、よかったよ」
その時、まず最初に笑ったのは看守だったそうです。安部さんは「面白かった。でもその言葉でわたし、立ち直ることができた」っておっしゃっていましたね。 たとえ刑務所でも「入ったら入ったでよかったね」と、BA型で考えるべきなんです。同じように「倒産したら倒産したでよかったね」と言えばいいと思います。
仕事がなくなったら「なくなってよかった」と思ってりゃいいんです。クビになったらクビになったでいいし、女房に離婚されたら「別れてよかったね」でいいんです。
どんなことも、起きてしまったら、それはそれで仕方がない。「覆水(ふくすい)盆に返らず」の言葉通り、一度起きたことは元に戻すことができないからだ。つまり、「それでよかったね」と肯定するしかない、ということ。
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