コロナとディストピア
今日のおすすめの一冊は、落合陽一氏の『半歩先を読む 思考法』(新潮社)です。その中から「まずは自助努力から始める」という題でブログを書きました。
本書の中に「ウイルスとディストピア」という興味深い一節がありました。
【ウイルスの訪れと共に 優しいディストピアの足音が聞こえる】 優しいディストピアが近づいているのを空気から感じる。きっとそれはウイルスがもたらす社会変化の一つだと思う。 ウィズコロナについて考え始めてしばらくたった。今回は、そのシステム的な面を考えている中での話だ。
以前深圳の知り合いと街を歩いているときに、「世界の監視カメラの半数は中国にあるって言うけど、それってどうなの」って聞くと、「監視されているかもしれないけれど、小役人に賄賂渡すよりはるかにマシ」という答えが返って来た。なるほど、それは確かに緩やかに管理されたある程度のディストピアを目指すモチベーションにはなるかもしれない。
「ウイルス感染者がどこにいるかわかるマップがあったら使いたいか?」 と聞かれたら、使いたいという人も多いかもしれない。そのかわりに自分の位置情報と健康状態を常に晒せと言われれば、そのトレードオフをどう考えるか。では、匿名性を維持したままでウイルスマップを政府がぼんやりと提供すると言ったらどうだろうか? どこまで個人の自由を束縛し、どこまでシステムによる保全を考えるだろうか。
ではこういう質問ではどうだ。 「さまざまなことに自粛要請をして自己責任として補填をしない政府と、禁止命令を出して補償をする政府のどちらを取るか」 要請なんだから自己責任で行動しても問題ない、と胸を張れる人も少ないはずだ。い っそのこと禁止命令を出して補償をしてもらう方に振れるのかもしれない。
そのために 全員の労働や社会的な接触を監視するシステムの導入についてはどうだろうか? 自粛 と給付の関係とはなんだろうか? それは社会システムに依存するものではないだろう か? それを選択したのは誰か? 他ならぬ民衆である。
そうやって考えた末にやってくるのは、ウイルスがもたらした行動変容と技術環境によって成り立つ、やんわりとしたディストピアへの指針だ。良い悪いではなく、どうや ってその道筋に入っていくのかが気になっている。
アメリカの失業保険申請数が300万件になったという。その状況下の保険とは? システムとは? じゃあ民衆が求めるものはなんだろうか? そういえばトランプ相場が一気に崩れた後に選ばれるものは? 結局、誰も知らない。でも空気の変容を感じる日々が続く。閉ざされた家の中で社会か らの距離を保ち、システムとの接続と、生活の保障を目指した「習慣」は何を変えるんだろう。
前提が異なっている世界を見つめる中で、考え込んでしまう日が多い。体験価値もインターフェースも価値基準も全部変わってしまうかもしれない。そんなことを今日は考 えている。 耳触りが優しいディストピアを緩やかに求めている声が聞こえる。
全体主義的なディストピアと言ったときに何を想像するだろうか。『1984』の世界か、それとも『華氏451』か『ブレードランナー』か『ハーモニー』か。青春のSFよりもリアルなディストピアがそこに近づいて来ていることをみんなどう思っているんだろうか。僕は少なくとも数年のビジョンを書き換える程度には重大な変化だと思っている。
ライブによる付加価値、今ここにしかいない会いに行けるアイドル、握手もできる、 さて、この濃厚接触をどうやって避けるべきか考えてしまう。街中で行われるリアルイベントも、お洒落なバーの上質なひとときも全てがクラスター予備軍だ。 空中インターフェースのフィードバックのなさを論ずるときに、コントローラーや接触面の大切さを語ることがあったかもしれない。
でも今は、同じゴーグルをみんなで使う濃厚接触と接触面があることに対する消毒の大切さを説くようになってしまった。3 Dプリンターで出力される未来ガジェットの価値よりマスクの原価を気にする世界で、 何が未来だと言いたくもなる。少なくともそっちの未来ではなくなってしまったのがこの現在地点だ。
音声インターフェースは飛沫感染を引き起こす厄介な存在で、指はウイルスを媒介する感染源で、同じ空気を共有することは他ならぬ信頼の証になりつつある。この環境の 変化から、システムと自由という観点でも精神性の変化を感じている。少なくとも日本では補償を求める声が根強く、LINEのようなプラットフォーマーが個人情報を回収 した上で情報を提供することを望む声が強い。
ここに対する違和感を発する余裕はなく、「ウイルスとの戦い」という言葉が先に来る。耳触りのいい優しいディストピアが近づ いている。「僕はシステムによる新しい自然を探しているから、そういうディストピアが新たな自 然を形作るならば、元来ある自然環境のウイルスは、情報世界にも十分に効果を持つのだなぁ、と思うくらいである。
「ペストの大流行も多くのレガシーを残したけれど、例えば検疫とか公衆衛生とか公立病院とか、そういうものが中央集権型社会の中に形成されるようになった。例えばフランスの18世紀の大流行は10万人の死者をもたらしたけれど、その後、迅速な回復が見られている。 ペストに限らないが、疾病は常に新しい文化を連れてくる。
今起こりつつある優しいディストピアとは何か。善意による管理社会・社会保障とデ ータ追跡の訪れだ。データを追跡することで感染リスクの少ない人のみが来られるようにすれば我々は今までの生活を維持することができる。換気の悪い居酒屋に入れる人は 潜在的な感染リスクの少ない人だけだ。ライブに行けるのも、美術館に入れるのも、ク ラシックのコンサートに行けるのも、スポーツバーで騒げるのも、トラッキングできて いる人だけだ。
「我々は今までの生活を続けたいのだろうか? 恐らくは続けたいのだろう。娯楽を提供する方も享受する方もそうなんだろう。 両者にとって意味がある。深刻な影響の出ているイベントや外食産業の担い手からすれば、そういった保全ツールは必要不可欠だし、体験に飢えた消費者からすれば自らの登録によってスポーツ観戦やライブ音楽に参加することができるならばそれは参加したいことだろう。
優しいディストピアは文化芸術と衣食住の顔をして近づいてくるのだ。我々は、コンピュータによって管理された情報社会によって、ウイルスという物質的な情報による外乱を防ごうとしている。スマホに接続された管理系、日本で言うならマイナンバーにあ らゆる情報を紐づけることによって、健康維持を行おうとする姿勢は、ある正義のもとでは正しく、ある正義のもとでは全く正しくないように見える。
あらゆる事象にとって、異なる正義の上で異なる価値判断になるのは当然のことだけれど、本人たちは無自覚のままでディストピアに向かっていく社会を生暖かい目で見ている。 生きるか死ぬかを目の前にし、しかもそれが世界で共通の敵と戦っている現状におい て、我々の社会システムは極めて全体主義的なテクノロジーを産もうとしている。
これ は良い悪いではない、が、我々の選択の一つである。戦争とは違う結論の一つで、異星人が攻めてくるSFとは異なる結論に向かいつつある。我々の敵は昨日の同胞で、数年飲み明かした友人がウイルスを持ってやってくることなのかもしれない。 ウイルスは人を共通の敵に向き合わせる。世界中の人を一つにする。人が行動できるようにシステムを改善する。
我々が今まで通りに振る舞えるようにあらゆるものを検閲していく。そこにあるのは個人の自由だろうか? それとも、隔絶された民意から来る孤独な連帯感によるディストピアだろうか? 果たして。長期戦にならずに明けること を願っている。 この問題はまた考えたい。僕は境界のない世界を目指したい。
ディストピアとはユートピアの反対で、反理想郷、暗黒社会という意味で、そういう世界を描いた映画や著作のことを言います。監視社会や政府によって市民の自由が奪われた社会を描くSFなどが多く作られています。
このコロナによって、我々はどこへ行くのか、どう進んでいくのか、大きな分かれ道だと思います。しかし、間違いなく、その方向(ゆるやかなディストピア)へ進むことは確かだと思うのです。
今日のブログはこちらから☞人の心に灯をともす