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否定の哲学は終わった

今日のおすすめの一冊は、行徳哲男師の『随処に主となる』(致知出版社)です。その中から「人を前に出す」という心に響く文章がありました。

本書の中に「否定の哲学は終わった」という心に響く文章がありました。

恩師が、「これを読めよ」といって、一冊の 本をポンと渡されたんですが、それが『現象としての人間』という本でした。

シャルダ ンはもともと北京原人などを発掘した人類学者の一人ですが、その中で、「人間は否定の哲学のつくりすぎだ」といっている。 つまり、否定的にものを見ることが進歩だと思っているから、何でも否定的に見なければ学者であり得ないというところがあるということです。

そして、私はその否定の哲学の頂点がマルキシズムだと思いました。権力が悪い、金持ちが悪い、いろいろなものが悪いからこうしなければならないという否定の弁証法なのですね。否定の哲学なんです。

しかし、シャルダンは、「もう否定の哲学は終った。これからは肯定の哲学をどう構築するかだ。ところが、肯定の哲学には条件がある。その一つに“V”がある。そしてもう一つは"C"がある」といっているわけです。 

Vとはバイタリティー、ビジョン、ベンチャーであり、Cはチャンス、チェインジ、チャレンジということです。バイタリティーがあると人間はビジョナブルになることができ、希望があればくたばらないという。

バイタリティーがあってビジョナブルになると、人間は必ず冒険的(ベンチャー)になりますね

そして、こういうのです。 「冒険的になったときには、人間が大変肯定的になっている証拠だ。コンサバティブ (保守的)になっているときは、人間は否定的だ」と。

それからというものこの『現象 としての人間』が私の座右の一冊になったのですが、安岡先生の教えというのも、肯定の哲学であろうと思います。

◆行徳哲男師は「安岡正篤先生」の言葉を引用してこう語っている。

安岡正篤師は、「徳とは無類の明るさのことである」と言われた。知識や技術は徳ではない。明るく、人好きで、世話好きで、人に尽くすことができる人こそ、徳のある人なのである。ゆえに徳のある人は元気がいい。

「真剣」と「深刻」とは違う悲劇の主人公のような生き方は真剣とは言わない。真剣というのは、もっと軽いものである。真剣になればなるほど軽くなれる。「軽さ」の頭に「あ」をつければ「明るさ」になる。真剣な人は「明るい人」である。眉間に皺を寄せて深刻に生きている人は実は一番真剣に生きていないのではないか。

肯定的な人は、明るくて軽い。人好きで、世話好きで、人に尽くすことができる徳のある人だ。反対に否定的な人は、暗くて重い。人嫌いで、傍観的で、他人に冷淡だ

 「冒険的になったときには、人間が大変肯定的になっている証拠だ。コンサバティブ (保守的)になっているときは、人間は否定的だ」

いくつになっても冒険的な人でありたい。

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