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人生のごたごた

今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『のんびり生きて気楽に死のう』(PHP研究所)です。その中から「人生の食卓」という題でブログを書きました。

本書の中に「人生のごたごた」という素敵な一節があったのでシェアします。

人間は生きているかぎり、いろんな厄介事に見舞われる。ごたごたが絶えない。山奥に隠棲(いんせい)した人間ならともかく、社会に生きるわれわれにとって、それはあたりまえだ。いくら自分は安全運転をしていても、他人の車に追突される危険はあるのである。
仏教の開祖の釈迦も、キリスト教の開祖のイエスも、その生涯においていろんなごたごたに播き込まれた。いや、イエスの場合は、そのごたごたによって最後は死刑になったのである。したがって、われわれがごたごたに播き込まれた場合、そのごたごたをなくそうと考えてはいけない。
あるいは、こんなごたごたはないほうがいい…と考えるのも、よくない考え方である。だって、そうでしょうよ、生きているかぎりごたごたはなくならないのだから、ごたごたを嫌えば生を嫌うことになるわけだ。
宗教者が宗教者であるのは、自分が播き込まれたごたごたをどう解決するか、その解決の仕方による。かりに、ある種のごたごたを暴力的に解決する人がいれば、その人は宗教者ではなくて暴力主義者なのだ。金銭でもって解決しようとする人は、拝金教徒であって真の宗教者ではない。
宗教者は、なかでも仏教者は、ごたごたが生じたときに、そのごたごたを忌避しないで、それを仏教者らしく解決すべきである。もちろん、仏教者らしい解決法は、問題によって違う。しかし、総じて言えることは、相手を赦(ゆる)してあげるという解決法が仏教的である。根底的に相手を赦し、相手から受ける迷惑をこちらが我慢する。そういう解決法を取れた人が真の仏教者なのである。

一燈園の石川洋氏は 《よいことをして忘れること》 と言っています。佛教に「忘行」という戒(いまし)めがある 他のために尽くして忘れるということは、難しいことであるが 釈尊は忘れて初めて、よいことになるのであると、教示されている。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻もう」 という道歌を知り、身に沁みるものがあった。 受けた恩を石に刻んで、感謝の心を養っていけば 自ずから“させていただいて有難う”という心が生まれてくる 。(心の杖ことば (笑顔開運/ぱるす出版)

また、達磨大師の有名な言葉に「無功徳(むくどく)」というのがあります。 仏教に深く帰依し、崇敬していた中国の梁(りょう)の武帝は 時の有名な高僧、達磨大師を宮中に招き質問しました。「朕(ちん)、寺を建て、僧を度(ど)す。何の功徳(くどく)あるか」 (私は、寺を建て、寄付をし、僧侶によくした。どのような功徳があるだろうか) 達磨大師答えて曰く 「並びにて無功徳」 (どれもこれも功徳にはなりません)。 功徳すなわち、御利益(ごりやく)欲しさに、善行を施すなら 全ては帳消しになる、と。

仏教における「赦し」とは、まさにこの忘れることなのではないでしょうか。「よいことをして忘れること、ここがめざすべき我々の道ではないか、と思うのです。

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