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すべては目に見えない偶然のおかげ

今日のおすすめの一冊は、ロルフ・ドベリ氏の『シンク・クリアリー』(サンマーク出版)です。その中から「まず、描きはじめること」という題でブログを書きました。

本書の中に「すべては目に見えない偶然のおかげ」という心に響く文章がありました。

《すでにあなたは、途方もない幸運に恵まれている》

生まれたときに運命づけられる格差は、「生まれる国」だけではない。その国の、どの地域の、どの家庭に生まれるかも、自分で選べない。

現在のあなたに有利にも不利にも働くあなた自身の価値観も、ものの見方も、思想も、あなたが自分で身につけたものではない。

気がつけば入っていた「学校」という制度の中で、あなたが勉強を教えてもらった教師たちも、あなたが選んだわけではない。

あなたが病気で苦しい時期を過ごさなければならなかったのも、悲劇的な出来事が起きたのも(もしくは悲劇的な出来事に遭わずにすんだのも)、あなたに責任はない。

そうはいっても、あなたは「これまでの人生には、さまざまな役割をこなしながら自分自身で選び取ってきたものがある」と言うかもしれない。しかし、あなたがそれを選んだきっかけは何だっただろう?

ひょっとしたらあなたは、あなたの人生を変えてしまうような本を読んだのかもしれない。だとしたら、その本には、そもそもどうやって出合ったのだろう?

あなたのためにさまざまな世界のドアを開いてくれた、誰かとの出会いがきっかけだったという人もいるかもしれない。そのドアが開かなければいまのあなたは存在しなかったかもしれないが、その恩人と出会うことができたのも、ほかの誰かのおかげだったのではないだろうか?

たとえあなたが、いまの自分の運命に不満があったとしても、客観的に見れば、あなたは実は「途方もない幸運に恵まれている」という事実は頭に入れておいたほうがいい。

あなたが手に入れた成功のうち、あなたの個人的な成果が占める割合はどのくらいだろうか? そう、正しくは「ゼロパーセント」。あなたの成功は、本質的に、あなたが何も、本当に何ひとつ影響を及ぼせないことにもとづいて成り立っている。 あなたの成功は、本当の意味であなた自身が手に入れたものではないのだ。 

このことから導き出せる結論は、ふたつある。 ひとつ目は、謙虚であれということ。あなたが社会的な成功をおさめている場合は、特に謙虚でなければならない。あなたがおさめている成功が大きければ大きいほど、周囲に吹聴することは控えるべきだ。 

だが謙虚さはすでに流行らなくなってしまったようで、ネット上には自分のがんばりをひけらかす人々であふれ返っている。

控えめになろう。表面だけ謙虚に見せるのではなく、心の底から謙虚でいよう。口に出す、出さないにかかわらず、おごりはただの錯覚にすぎない。おごっても何もならないだけでなく、おごる理由は何もないのだ。 おごりを持たない姿勢は、よい人生を送るための基本中の基本。 

いまのあなたがあるのも、いまあなたが手にしているものも、いまのあなたにできることも、すべては目に見えない偶然のおかげなのだということを、日々心に留めておこう。 

あなたにとっても私にとっても、大事なのは幸運に恵まれたことへの「感謝」の念を忘れないこと。それに感謝の気持ちを持てば、すばらしい副次効果もついてくる。感謝の気持ちは人を幸せにしてくれるのだ。 

ふたつ目は、あなたの(自分の手で勝ちとったわけではない) 成功の一部を、恵まれない遺伝子を持って恵まれない地域の恵まれない家族のもとで生まれた人たちに、惜しみなく分け与えるべきだということだ。 

自分を高潔な人物に見せるためではない。それが人間としての良識ある行動だからだ。 寄付と租税はただの金銭的な支出ではない。それ以前に、人間としてのモラルの問題なのである。

◆我々が、この時代に、日本に生まれ、どこかの市町村に住んでいることも、すべては偶然。そして、日本に生まれたということだけで、ものすごくツイている。

なぜなら、これが、戦争の真っただ中の国や、極貧の国に生まれただけで、生存率は確実に少なくなり、仮に大人まで生きたとしても、学校へ行けなかったり、仕事がなかったりするかもしれない。

そして、我々が手に入れた成功に対して、自分が関与している割合はゼロだという。つまり、すべては偶然によって起こったものだということだ。

そうだとするなら、我々は偉そうにしたらみっともない。すべてはまわりのおかげであり、運がなせるわざだからだ。ここに、我々が「謙虚」でなければならない理由がある。

つねに、おかげさまの心を持ち、感謝の気持ちで謙虚に日々を暮らしたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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