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お互いさま意識

今日のおすすめの一冊は、ひろさちや氏の『「狂い」のすすめ』(集英社新書)です。その中から「目的地主義ではなく、旅の道中を楽しもう」という題でブログを書きました。

本書の中に「お互いさま意識とは」という心に響く文章がありました。

ヨルダンの首都のアンマンで、妻と二人でタクシーに乗りました。 そのとき運転手は、「おまえはここに坐れ」と助手席を指示します。 妻は後部座席です。 「なぜなのか...?」 と質問しても、わたしと運転手の英語力では、さっぱり話が通じません。

あとで、現地に滞在する日本人商社マンから教わりました。 「それはですね、仲間意識なんですよ。運転手を召使のように使ってはいけない。お互いは友だちである。友だちの車に乗せてもらっているのだと思え。そういった考え方が背景にあるのです」

なかなかすばらしい考え方ですね。 しかし、わたしがこの話をすると、たいていの日本人が異口同音に言います。「でも、ヨルダンのタクシーの運転手は金をとるのでしょう。金をとっておいて、友だちだと言うのは虫がよすぎはしませんか!? それを言うのであれば、金をとらなければいいのに....」 

ここに現代日本人のいやらしさがあると思います。というのは、現代の日本においては、金を払う客が偉いんだといった考え方が常識になっています。例の「消費者は王さまだ」というスローガンです。

そうすると、金を払う人間が主人であって、受け取る側は召使になってしまいます。デパートや商店、あるいはレストランにおいて、お店の人をまるで召使のように扱っている人をよく見かけます。わたしたちはそれをあたりまえのように思っていますが、ちょっと悲しい光景ではないでしょうか。 

なぜ売る側が卑屈にならないといけないのですか。商売人は悪いことをしているのではありません。かりに商売人がいなければ、いくら金を持っていても、わたしたちは何一つ買うことができないのです。

日常生活においてわたしたちが必要な物を入手できるのは、 わたしたちが金を持っているからではなく、商売人がいてくれるおかげなんです。それが まっとうな考え方ではありませんか。

昔の日本人はそうではありませんでした。わたしの育った大阪の下町の商店街では、買ったほうの顧客がお店の人に、 「おおきに」とお礼を言っていました。もちろん、お店の人も「ありがとう」を言いますよ。 でも、お客のほうだってお礼を言ったのです。 

そして、店先に人がいなくて、奥からわざわざ呼び出して買物をしたときなどは、 「忙しかったのに、ごめんね」 と、客のほうが謝るといった光景も見られました。

 さて、ヨルダンの運転手の場合、それは「仲間意識」だと説明されました。それじゃあ 昔の大阪の下町の買物風景も同じ「仲間意識」と呼んでもいいのですが、あえてこの場合、わたしはそれを、 《お互いさま意識》と名づけておきます。

というのは、下町においては、お互いがお店の人でありお客にな るからです。魚屋さんの主人は薬屋さんのお客になり、薬屋さんの奥さんは下駄屋さんのお客になります。売るほう・買うほうが固定されているわけではありません。そういう関係においてはじめて、「仲間意識」や「お互いさま意識」が生じます。これが、昔の浪速 における近隣関係でした。

◆昔の浪速の商店街だけでなく、現代に生きる我々も、広く考えれば、誰もが「お互いさま」の関係だ。飲食店の店主も、あるときは他の飲食店に行くし、どこかで買い物したりもする。

お互いがお客という立場になり、販売するという立場にもなる。そうであるにもかかわらず、お客の立場になったとき、偉そうに威張る人がいる。

「お互いさま意識」は、とても大事な考え方。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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