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誰かのために祈る

今日のおすすめの一冊は、中山靖雄氏の『すべては今のためにあったこと』(海竜社)です。その中から「一体となる」という題でブログを書きました。

本書の中に「誰かのために祈る」という心に響く一節がありました。

母は82歳で脳梗塞になって倒れて以来、家で寝たきりの生活を送っていました。しかし、私が講演に出かける時は必ず、「今日はどこに行くんだ?」と聞くのです。「どこどこへ行く」と答えると「気をつけて行って来いよ」とこう言う。
私は「わかった。ありがとう」と答える。しかし、そのあとには「何時から何時まで話すのか?」と聞くのです。すると、つい自分の親だから言ってしまうのです。「そんなの聞いてどうするん?」とか、「人のこと心配せんと、自分のこと心配しなさい」とか、どうも冷たい物言いになってしまう。
さらに、「寝たきりだから、みんなに好かれる老人にならなあかんよ」なんて言ってしまうのです。それでも、何度も聞くものですから、私が「何時から何時までだよ」と講演時間を答えると、「みんなに喜んでもらえるように、しっかりがんばってこいよ」と言って、ベッドの上から見送るのでした。
そして、私は家を出てから後悔の思いでいっぱいになるのです。もっと優しい言葉をかけてやれば良かったなぁって。わかってはいても、つい、優しくできなかったりするのですね。その母も90歳で亡くなりました。
お葬式を済ませたあとに、家内がふと、「お父さん、心配してくださる方が一人減ってさみしいね」と言うのです。私は改めて母の言葉を思い出して、「おふくろが毎回行き先を聞いてきたのはわかるけれども、なんで時間まで聞いたんだろうね」と家内に言ったんです。
すると家内は、「絶対お父さんに言わんで、ってお母さんは言っていたけど、時効だからもう話してもいいかな」と、こんな話をしてくれました。
私の講演が始まる頃になると、母が家内を呼び、「講演が始まる時間だから、悪いけどベッド半分起こして」と言って、ベッドの前の神棚に向かってじーっと手を合わせて、拝むのです。寝たきりですから、きちんとは座れないので、腰に枕と毛布を当ててなんとか座るようにして、じーっと手を合わせている。
「講演が終わる時間になったらまた来てね」と母が言うので、1時間半くらい経ってから家内が行くと、まだ母が同じような状態でじーっと祈っているのだそうです。この話を聞いた時、私は、頭をガーンって殴られたような気がしました。
毎回講演に行って、今日もこんないい方々と、素晴らしい出会いをいただいて、自分ががんばっているという思いがどこかにあったのです。私は母が祈ってくれていることを知らずに、そんな母の言葉を少し疎(うと)ましく思っていたのです。

肉親や兄弟、夫婦、と関係が近くなればなるほど、ほんとうは感謝しているのに何だか照れくさくて、憎まれ口をきいてしまったり、冷たい物言いになってしまったりします。特に、両親から受けた愛情は、両親が亡くなってからわかることが多いものです。

「親孝行したいときには親はなし」、という言葉にもある通りです。自分への祈りは、自分のエゴと欲望を充足させるための祈り。他者の幸福を願う祈りこそが、本当の祈りだと言います。

親しい関係にある人に、今、面と向かって感謝できなくとも、幸せを願うひそかな祈りなら誰でもできます。誰かのために、祈る人でありたいと思うのです。

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