「ニニギ」と「神武天皇の東征」を同時にまとめ終えたところ
今、「ニニギ」と「神武天皇の東征」を同時にまとめ終えたところです。
「同時に」と言うとカッコいいが、実際には片方が詰まったら、もう片方に逃げていたから、交互に進めていた感じ。
古事記は 神武天皇を中心に扱ったお話
古事記の研究は、もともとカタカムナの訳の補足としてやっていて、歴史を解き明かすためにやっていたわけではないので、当HPの古事記の訳は神武天皇までです。
オマケで、卑弥呼と邪馬台国も調べるけど、そこまで。
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ちなみに神武天皇は、高千穂宮に、ある程度の期間滞在していた。
その滞在期間、子供は3人生まれてる。
例の、イザナギが川で「禊ぎ」して生まれたという3人。
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父……神武天皇
母……伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)?
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子どもは三人
長女……ヒルコ(卑弥呼)
長男……天若日子(スサノオ)
次男……月読命(?)
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第1子は長女
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古事記の中ではイザナギ&イザナミの子、ヒルコとして、葦の舟で流れ去ったとあるが、実際には生きてる。
その子は讃岐の宮へ送られ、そこで育てられた。その子が大きくなり、幼少期からの天才伝説からかぐや姫のモデルとなり、のちの卑弥呼へ。
古事記の物語中では、「天照大神」の名をもらって描かれている。
冒頭部の、天照大神&素戔嗚尊の天界バトルは、「出雲の国譲り」のときに、天若日子(弟)が雉名鳴女(姉)へ矢を放ったエピソードがモデル。
おそらく事実としてあったこと。
ただ、その後も卑弥呼は生きているので、「矢が胸に刺さり」というのは物語上の脚色。
実際は、威嚇止まりで追い返したか? 従者だけがケガしたか?
その後二人とも、仲いいかどうかは分からないが、同じ時期に出雲にしばらく滞在している。
卑弥呼はその後、天岩戸のときに、伊勢神宮の建設指揮で、伊勢へ。
第二子は長男
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素戔嗚。王位継承権の優先度が上だったはずだが、いろいろ出雲で奇行をやったので、王位を引き継いではいないよう。
おのころ姫との間で出来た『天孫』の父親なので、『天孫』の英雄伝説ぶりを見ると、第二代天皇は、言われてる説とは違い『天孫』の可能性も?
卑弥呼はその後、天岩戸のときに、伊勢神宮の建設指揮で、伊勢へ行っているモノの、素戔嗚の存在感がその後感じられない。
なんかあった? 地方に飛ばされた? 言われてるような、出雲大社を建てて、歌を詠んだ事実はない。
出雲大社は、引退後の大国主のために建てている。
第三子が月読命。
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ただ、存在感がゼロなので、どこで何をする人ぞ?
兄があれだから、王位継承権で第一位に出てきても良さそうなモノの、『天孫』に飛んでるっぽいので、謎の人物。
神武天皇は、東征後、広島経由で、おのころ島に行ってる。そこで、8年ほど滞在している。
卑弥呼は、早々と讃岐に行ってしまったが、長男の素戔嗚は行動を共にしてる。
おのころ島の高嶋宮ってところで、8年滞在したとあるので、ここで生まれた若君&おのころ姫の子が、当時姫路にいた卑弥呼に預けられ、大事に育てられた。