見出し画像

小説『時をかける彼女』全文

        プロローグ・・・・2019年・・・・ 

その年の5月の飛石連休が終わった頃から、高校の裏にある公園に幽霊が出るという噂が流れ始めたんだけどさ。
マジ? お前、飛石連休も知らないのかよ。信じられんな。
飛石連休っていうのはさ、休みと休みの間に平日がはさまっている連休のことだって。・・・・平日がはさまっていても連休は連休なんだよ。
いやいや、昔は5月4日は休日じゃなかったんだ。3日が憲法記念日で5日がこどもの日で、その間にはさまった4日は平日だったんだわ。
走ってるクルマから飛んでくるその飛石じゃねーよ。 
あのさあ、飛石って言うのは、日本庭園とかにあるヤツだよ。人がその上を歩くためにポツンポツンと離して置かれた平べったい石。見たことあるよな、そのくらい。勘弁してくれよ。 
もっとビール飲むか? 日本酒か?
は? ウーロン茶? マジかよ。 
じゃあウーロン茶頼めよ。俺は無理やり酒を飲ますようなパワハラ管理職じゃないからな。 
なかなか本題に入れないじゃねえかよ。それでだよ、その公園のなかに神社があってさ。その神社は不気味な童謡の発祥の地とも言われてて、昼でも薄暗くて、いかにもなにか出そうな雰囲気なんだ。 
俺もなんだか怖くてあんまり近づかないようにしてたんだけど、案の定、その神社の鳥居のあたりに幽霊が出るって言うんだ。 
突然風が吹いたかと思うと、さっきまで誰もいなかった鳥居の下に人が立っている。逆に、スーッと滑るように動いていた人間が突然鳥居の下で消えたという目撃証言もあるんだな。
どの証言にも共通するのは、その幽霊が少女だということなんだ。あと、みんな真っ昼間に見ているんだよ。 
なっ? 面白いだろ? 幽霊が出るのは夜だって相場が決まってるからな。この意外性がいいだろ? その少女もかなり可愛いらしいんだわ。ネタとしては最高だろ? 
幽霊を見たというその高校の生徒の目撃証言がたくさんあるのは、昼間に出たからなんだよ。夜に出てたら見たヤツはいなかったかもしれないな。 
でもさ、そもそも幽霊っていうのは誰もいないところにでも出てるのかね。誰もいないところに出たって意味はないよな。あれはやっぱり、人がいることを感知して初めて出てくるのかもな。 
めんごめんご、脱線したわ。 
それで高校の生徒たちは寄ると触ると「○年○組のヤツが見たらしい」とか「俺も見た」とか言って幽霊話で盛り上がったんだ。 
昔も今も若いヤツは幽霊話が好きだもんな。その割には最近視聴率が全然取れないけどさ。
この幽霊話が最高潮に盛り上がったきっかけになったのが、いわゆる「茅野ビビリ事件」だ。 
6月中旬のことだ。3年E組の茅野という不良が授業をサボってひとりでこの公園にある東屋でタバコを吸っていた。
その東屋は不良のたまり場だったんだ。俺も行ってたしな。昔は俺もワルだったんだよね。 
そうだよな。信じられないのも無理はないけどさ、その時代は不良といえばみんなタバコを吸ってたんだよ。だいたい、タバコはいまほど毛嫌いされてなかったからな。安かったし。まあ、隔世の感がありますわな。 
梅雨入りしたばかりの頃で、その日も雨が降っていた。 
突然、鳥居のあたりでビューっという激しい風の音がした。茅野は驚いて何事かと目を凝らして見てみると、さっきまで誰もいなかったのに少女が立っていた。 
噂通りの可愛い女の子だったらしい。でもその子、見たこともない、不気味な格好をしてたって。そしてその少女は、傘もささずに茅野がいる東屋に向かってものすごい勢いで走って来たって。 
恐くね? 茅野もびっくりして腰を抜かしそうになったってさ。中学生をカツアゲしたりしているツッパリがだよ。 
あ? カツアゲってなんだって? まあいいよ、気にすんな。 
茅野は一目散に学校に逃げ帰り、職員室に駆け込んだ。そして自分の恐怖体験をヤニ臭い息で学年主任に訴えて、一発で一週間の停学になった。 
あれ? ここ、笑うとこなんですけど・・・・。面白くない? 
俺も昔はバラエティの天才って言われたんだけどな。一部でだけど。いやいや、そこは笑うところじゃないですから。 
だいたい、いまのヤツは面白さのツボがわかってないよな。 
ああ、はいはい。そうだね。 
この事件は瞬く間に学校中に広まり、一時は公園に幽霊見物に出かける生徒が大勢現れた。見物人のなかに教師までいたらしいわ。 
でも、そんなに都合よく幽霊が現れるわけがない。結局、幽霊話は徐々に生徒の口に上らなくなった。
そうそう、当時は当然、携帯もネットもない時代だからさ。すべては口コミだったんだよな。 
は?  その頃人気があったアイドルは誰かって? さすがアイドルオタクは突っ込んでくるところが違うな。 
やっぱキャンディーズだろうよ。幽霊騒ぎがある前の年に解散しちゃったけど、解散しても人気が落ちなかったからな。 
あー、そうだったそうだった。悔しいこと思い出しちゃったよ。 
俺、コツコツお金を貯めて買ったキャンディーズの写真集を、買ったその日に電車の網棚に忘れちゃったことがあったんだ。すぐに駅に問い合わせたけど結局出てこなかったんだよね。
あれは悔しかったなあ。 
つい最近、メルカリでそのとき失くした写真集が出品されているのを偶然見つけてさ。迷うことなく3万円で買ったよ。 
久しぶりにその写真集を手にして感動したよ、マジで。だって、四十年ぶりの再会だからね。俺が電車の網棚に忘れた写真集がようやく戻ってきたって。 
あれ? なんでキャンディーズの話になってんだよ。幽霊の話だよ、幽霊の。 
夏休みが終わって2学期になってからは、幽霊の目撃情報もピタリとなくなって、幽霊話は生徒たちから完全に忘れ去られていったんだ。 
俺もずっと忘れていたよ。昨日までな。 
昨日の日曜日にその高校の同窓会があったんだよ。同窓会なんてずっとやってなくて、今回が卒業して初めてだったんだよね。 
男子高校だからさ、どうせ男しかいないと思うと同窓会をやるモチベーションが上がらないんだよな。 
ん? 埼玉県の川越っていう街の高校だよ。知ってるか? 川越。 
そうそう、いまじゃ立派な観光地になったみたいだな。俺たちが高校生のときは単なるしけた地方の街だったけどな。 
その同窓会で高校時代に一緒にバンドやってたヤツに会ったんだよ。あ? パンクバンドでドラムを叩いてたんだよ。 
なにがおかしい? 全然笑うところじゃないって。 
セックス・ピストルズ・・・・懐かしいなあ。知ってるか? 
キャンディーズは知っててもピストルズは知らねえか。イギリスのパンクバンドだよ。カッコ良かったよな。 
考えてみりゃ、キャンディーズもセックス・ピストルズも1978年に解散しているんだよな。
 なんの話だっけ? そうそう、バンドの仲間に昨日の同窓会で会ったんだよ。ギター弾いてたやつ。 
そいつと会うのは高校卒業以来でさ。すんごい久しぶりで、それこそ昔話に花が咲くという状態だったんだけど、話しているうちに突然そいつが言い出したんだよ。「裏の公園に幽霊が出るという怪談話を覚えているか?」って。 
見たらそいつ、それまで笑ってたのが急に真面目な顔をしててさ。 
正直俺、覚えてなかったんだ、そんな怪談話。でも、そいつはやけに真剣な顔をしてるしさ。「覚えてない」なんて言ったらまずい気がして、反射的にうなずいたんだよ。ほら、認知症じゃないかなんて思われても嫌だしさ。 
そしたらそいつ、「覚えててくれたか!」とかなんとか言って、えらく喜んじゃってさ。でも、こっちは実際1ミリも覚えてないからさ。なんか居心地悪くなってよ、「うろ覚えなんだけど、どんな怪談だっけ?」と聞いたわけさ。 
それでそいつが話してくれたのが、さっき俺が話した怪談話というわけだ。でもよ、詳しく話してもらってもやっぱ全然思い出せないわけ。 
もう仕方がないから、「懐かしいなあ」なんて適当なリアクションをしてお茶を濁してたんだけど、そいつは俺に顔を近づけて来て静かな声で言ったんだ。
「でも、あれは幽霊なんかじゃなかった。もっと想像を超えたものだったんだ」って。 
さすがに話を合わせようがなくてよ、「なんだよそれ?」って聞いたら、「ここじゃ話せない。もっと静かな店に行こう」って。 
それでふたりで同窓会の会場になっていたホテルを後にしたんだ。 
俺、あまりに訳の分からない展開になんかドキドキしてきちゃってさ・・・・あれ? なんだよ、もう帰るのかよ? えっ? 会社に戻る? せっかくいいネタ教えてあげようと思ったのによ。お前、いま超常現象の番組やっているんだろ? それに使えるネタなんだけどな。
あ? 動画はないよ。話だけだ。あの時代にYouTubeなんてあるわけないだろ。 
まあね。確かに絵にならんわな。テレビじゃなくて活字向きのネタかもな。 
まあいいや。あまりに突拍子もない話で、実は俺も信じてないし。 
さあ帰るか。


第1話「いちおうここ、埼玉県内だけど?」 

山の麓で自転車を降りてスタンドを立てた。いや、山と言うにははばかられる低さだ。標高わずか20メートル足らずの学校の裏山。このあたりは公園になっているが、平日の10時半ということもあり人影はない。 
自転車に鍵をかける。10日ほど前、ここに鍵をかけずに停めていたら盗難にあったのだ。幸い学校の自転車置き場で発見されたけれど、それ以来、念のため鍵をかけるようにしている。 
2時間目が終わって教室を出てくるとき、自分の机は教室のいちばん後ろの隅に移動してひっくり返しておいたから、恐らく早退はバレていない。2時間目以降の教師は授業の出欠はとらずに空席をチェックするだけだから、机を隠しておけば無事に出席扱いになるのだ。
自転車のカゴに入れていたショルダーバッグを肩にかけて山を登って行く。 
ケンジは高校3年になったこの4月に旭高校の軽音楽部の同級生とパンクバンド、火縄銃を結成した。ケンジのパートはギター。 
火縄銃というバンド名はもちろんイギリスのパンクバンド、セックス・ピストルズから来ている。セックス・ピストルズは去年解散してしまったが、その音楽もファッションも発言もすべてがカッコいい。 
そして火縄銃結成以来、この裏山がメンバーの集合場所のような形になった。 
ハードロックからクロスオーバーやフュージョンに転向するヤツは偉くて、パンクに行くヤツは音楽をわかっていない。ひと言で言えば、ケンジたち火縄銃のメンバーが軽音楽部の部室に足が向かなくなったのは、部内のそんな空気に居心地が悪くなったからだ。
確かにクロスオーバーやフュージョンを演奏するには超絶テクニックが必要だけど、パンクを演奏するのはめちゃくちゃ簡単だ。たいしたテクニックは必要ない。だからと言ってパンクが低レベルな音楽かと言うと、「絶対に違う!」とケンジは机を拳で叩きたくなる。音楽はテクニックだけではないはずだ。
しかし、考えてみれば部室に足が向かなくなったのはそれ以前の問題が大きい。 
ケンジたちが通う旭高校はいちおう進学校で、生徒は3年生になると部活動はフェイドアウトするという不文律がある。この春に3年になったケンジたちが部室で居心地が悪くなるのは当然だった。パンクだろうがクロスオーバーだろうが。 


裏山を登るだけで汗が出る。今日は5月とは思えない陽気だ。木々の葉を揺らす風が頬に気持ちいい。 
山の上には東屋がある。ここは旭高校の生徒の喫煙所になっている。授業をサボってここでタバコを吸っていると、校庭のトラックを走らされている同胞を眺めることができる。冬枯れの季節だと校庭から東屋が丸見えになるので油断がならないが、いまの季節なら、元気に繁っている新緑のおかげで、ここでサボっていてバレることはない。 
東屋まであと5メートルというところで足を止めた。先客がいる。いつもならタバコの煙でもっと手前から先客の存在に気づくのだが、煙が立ち昇ってないので気づくのが遅れた。 
東屋はコンクリートでできた味も素っ気もないものだ。四隅以外に真ん中にも太い柱があり、その柱を回り込むようにしてベンチが設置されている。 
そこに人が座っていた。こちらを背にしてうずくまるようにして旭高校の校庭のほうを向いている。 
大人だったら引き返そうと思い様子をうかがっていると、気配に気づいたらしく、こちらを振り返った。 
女の子だ。ケンジは最近学校で噂になっている少女の幽霊のことを思い出してドキッとした。しかし、ケンジ以上に女の子のほうがビックリしている。 
このあたりでは見たこともないタイプのセーラー服を着ている。顔の幼さからみて中学生かもしれない。髪を肩まで伸ばし、意思の強そうな大きな目をしている。
「ちわっす」 
動揺を隠して軽く手を挙げて挨拶し、彼女に背を向けるようにしてベンチに座った。ショルダーバッグからセブンスターを取り出して口にくわえ、ガスが残り少ない百円ライターで火をつける。
「あーっ」 
煙を吐き出しながらつい声が出る。3時間我慢していた分、ニコチンが脳に染み入り一瞬クラっとする。
「なんでタバコ吸ってんだよ」 
大声に驚いて振り返ると、女の子が仁王立ちしてこちらをにらんでいた。
「は?」 
女の子の迫力に一瞬ひるむ。口調が男みたいだ。
「ここ、禁煙じゃないのかよ」
前髪をかきあげながら吐き捨てるように言う。
「禁煙? なに寝ぼけたこと言ってんだよ。禁煙なわけないだろ。電車やバスじゃあるまいし」 
そう言って目の前に置いてある吸い殻でいっぱいになった灰皿を指差す。恐らくこの吸い殻の8割以上は旭高校の生徒のものに違いない。
「信じられねえ」
女の子は汚物でも見るような目で灰皿を見ていたが、すぐに顔を上げて「でもあなた高校生だよね? 高校生ならどこでだろうと吸っちゃダメじゃん」
「まあそうだけど」ケンジはそう言うと煙の輪を作って女の子のほうに吹きかけた。「不良だから仕方がないわな」
「うぜえよ!」
腕を振り回して近づいて来た煙の輪を破壊する。 
怒っているのはわかるが、妙な言葉づかいだ。
「迷惑なんだよ。せめて煙の出ないタバコにでもしろよ」
「なんだそりゃ? 煙の出ないタバコなんてあってたまるかよ」
「とにかくタバコの火はちゃんと消せよな」
「余計なお世話だわ。それより、その手に持ってるの、なんだよ?」 
彼女はコンパクトカメラをさらに小さくしたような機械を手にしている。
「望遠鏡だよ」
「へえ、ずいぶん小せえな。そんなんじゃ大して遠くまで見えないだろ?」
「見てみろよ」 
望遠鏡を受け取り、旭高校の方角に向いてのぞいてみた。 
驚いた。校庭をチンタラ走っている旭高校の生徒の喘ぎ顔がどアップで目に飛び込んでくる。
「わっ、すげー!」思わず感嘆の声を上げる。
「よくある十倍の望遠鏡だよ。そんなもんで驚くなんて子どもみたいだな」
「年下のくせに生意気な口をきくなよな・・・・そういや今日は学校どうしたんだよ? 中学生だろ? まだ」
望遠鏡に目を当てたまま言う。
「学校?・・・・ちょっといま休んでるんだ」
「休んでるのに制服着てるなんておかしなヤツだな」 
ケンジが望遠鏡から目を離して突っ込むと女の子は「勝手だろ?」とふて腐れたような顔をした。
「もしかして登校拒否ってやつか?」
「登校拒否ってなんだよ?」
「登校拒否は登校拒否だろ。学校に行きたくないっていう」
「ああ不登校のことか。ちげーよ」
「ちげーよってなんだよ? お前、なまってるよな。見たことない制服だし。秩父の田舎のほうか? 中学」
「なんであたしが田舎モンなんだよ。超ムカつく」 
女の子は顔を真っ赤にして怒り出した。しかし、言葉づかいが変なのだから田舎者だと思われても仕方がない。
彼女はケンジの手から望遠鏡を奪い取り、斜めがけにしたバッグにしまった。そして望遠鏡よりさらにコンパクトな平べったい機械を取り出してなにやらいじり始める。 
しかしすぐに「なんだよケンガイかよ。ムカつく」と悪態をついて機械をバッグに戻した。
「県外? いちおうここ、埼玉県内だけど」 
ケンジがそう言うと女の子は「は?」とケンジに顔を向け、弾けたように大声で笑い始めた。人を見下した、かなり嫌な感じの笑い方だ。
「なにがおかしいんだよ」 
ケンジが文句を言っても、身体を折り「埼玉県内だって」と腹を抱えていつまでも笑い続けている。
「いい加減にしろよ」 
ケンジは呆れて2本目のセブンスターに火をつけ、校庭のほうに目を向けた。校庭では相変わらず体操着を来た生徒たちがゆっくりとトラックを走っている。
「なあ、いまは1979年だよな?」女の子が話しかけてきた。ようやく笑いが収まったらしい。
「昭和54年だけど」校庭を向いたまま応える。
「昭和54年っていつよ?」
「昭和54年は昭和54年だろ? お前、ノータリンか?」呆れて女の子の顔を見た。
「なんだよ、ノータリンって。超意味わかんないし。昭和とか明治とかって、ハヅキよくわかんないんだよ」
「ハヅキってなんだ?」次から次へと意味不明な言葉が出て来る。
「なんだって言われても。あたしの名前だし」
「変わってんな。どういう字だよ?」
「葉っぱの葉にムーンの月だよ。8月1日生まれだから葉月なんだ。8月を葉月っていうなんて知らないだろ? いや、そんなことよりいまは1979年なのかよ?」
「俺、西暦弱いんだよな。えーっと俺が生まれた昭和36年が1961年だから・・・・そうそう1979年」
「何月何日?」
「5月25日だよ。大丈夫か、お前」
「5月25日か・・・・3か月近くずれてんじゃん」
「なにが?」
「いや、なんでもない。今日はもう帰る」 
それだけ言うと彼女は唐突に山を駆け下りて行った。 


それがケンジと葉月の出会いだった。


第2話「レモンスカッシュはレスカと略したほうがナウいんだよ」 

その翌日は明け方近くまでラジオの深夜放送を聞いていたせいで寝坊した。母親がパート勤めに出るようになってから起こしてくれる家族がいなくなったせいもある。 
ばあちゃんはご飯は作ってくれるけど、足腰が弱っているので、階段を登って2階のケンジの部屋まで起こしに来てはくれない。 
川沿いの道を自転車を漕いで急いで学校に向かう。しかしながら強い向かい風が吹いていてスピードが思うように出ず、あと学校まで100メートルというところで始業のチャイムが聞こえてきてタイムアウトになった。 
途端に学校に行く気がなくなり、行き先を学校から裏山に変更してスピードを落とした。風で雲が吹き飛ばされたのか、空には雲ひとつない。まさに五月晴れだ。 
裏山の麓に自転車を停めて登って行くとまたしても先客がいた。葉月だ。今日も東屋のベンチに座って望遠鏡をのぞいている。 
今日は強い風が吹いて木々がざわめいているからか、ケンジが近づいても気がつかない。旭高校の校庭では、砂埃が舞うなか、例によって体操着を着た生徒がトラックをチンタラ走っている。
旭高校の体育教師は若い頃長距離走者だったらしく、走ることしか脳がないヤツで、とにかく生徒を走らせていれば体育の授業が成立すると思っているアホだ。可哀想に走っている生徒たちは強風にあおられて吹き飛ばされそうになっている。
「なに見てんだよ」 
葉月のすぐ後ろまで来て声をかけると、ものすごく驚いたらしく「あわわわわ」と奇声を発して手にしていた望遠鏡を取り落とした。 
今日の彼女は制服ではなく私服だった。薄いピンクのブラウスにブルーのズボンを履いているが、このズボンが異様に太い。パンタロンみたいに裾だけ太いのならわかるが、上から下まで全部太い。ちょっとボンタンやバギーパンツに似ているが、微妙に違う。加えて丈が短い。見たことがない奇妙な形状だ。
「お前、なんだよ、そのぶっといズボン」 
ケンジがそう言うと葉月はなぜかニヤニヤして「ズボンっていったい・・・・」と、またもや人をバカにしたような顔をした。
「それによ、毎日毎日なに旭高校をのぞいてんだよ。だれか探してんのか」 
葉月の横に腰をかけてタバコをくわえる。葉月はすぐにケンジから間隔をあけて坐り直す。
「まあな・・・・」
「一目惚れした男でも探してんのか? 電車のなかで見かけた旭高校の憧れのあの人はだれ?って」 
軽くからかうつもりで言ったのに、葉月は「まあそんなとこかな」と言ってうつむく。
まずいことを言っちゃったかなと少し反省する。
「なんでも聞いてくれよ。俺にできることなら協力するから」
「ありがと」 
そう言うと葉月は再び望遠鏡を目に当てた。
ケンジはベンチに座ってセブンスターを立て続けに吸った。風のせいでいつもよりタバコの減りが速い。 
望遠鏡をのぞいている葉月を眺める。 
身長は150センチ足らず。胸はまだまだ発展途上。髪はセミロングで前髪は大きな瞳に軽くかかるくらいの長さ。目とは対照的に鼻も口も小さいけれど、なんと言っても顔自体が小さい。下手すりゃ七頭身くらいかもしれない。こんな子、見たことない。まるで外人か宇宙人みたいだ。 
風に乗ってチャイムが聞こえてきた。1限が終わったらしい。いま行けば2限に間に合う。だけどまだ腰を上げる気にならない。
「旭高校って男子校なんだよね」
葉月が望遠鏡に目を当てたまま言う。
「ああ」
「小林って生徒、知ってる?」
「旭のヤツか?」
「そう」
「何年?」
「3年だと思う」 
3年の小林なら一人知っている。
「もしかして小林隆か?」
「そうそう」 
葉月は望遠鏡から目を離してこちらを見た。その顔にセブンスターの煙が直撃して顔をしかめる。
「本気かよ? よりによって小林なんて、お前、男を見る目がなさすぎだよ」 
嫌なヤツなのだ、小林は。しかも見てくれは良くて家は金持ちときている。こうなると手に負えない。マンガに出てくる金持ちの嫌なヤツそのまんまだ。 
小林は軽音楽部の幽霊部員だ。たまにギターケースをしょって部室に顔を出す。なかに入っているのは本物のフェンダー・ストラトキャスターだ。 
本物のストラトなど普通の高校生は高くて手が出ない。間違いなく三十万円以上するだろう。だから、ケンジを含めた軽音楽部のギタリストたちはのどから手が出るほど弾いてみたい。しかし小林は決して弾かせてはくれなかった。そればかりか自分でも絶対弾かないのだ。
一度ケンジが「Aコードくらい弾いてみせろよ」と言ったが、やっぱり弾こうとしないので、「お前、本当はギター弾けないんじゃねえの?」と突っ込みを入れると、真っ赤な顔をしてつかみかかってきた。
「小林だけはやめたほうがいいって」 
ケンジがそう言うと、葉月は「やっぱそうだよな」と暗い顔をする。
申し訳ないけれど、どう考えたって小林だけはおすすめできない。お金が目当てならともかく。
「あいつ、話もピーマンだしな」ダメ押しで言う。 
見ると葉月はキョトンとした顔をしている。
「話がピーマンってなに?」
「話がピーマン」が通じないヤツに初めて会った。やはり田舎者かもしれない。 
ケンジが「話の中身がないってことだよ」と説明すると、葉月は「なるほど」と感心している。変なヤツだ。
「あれ? だれ? そのかわい子ちゃん」 
振り返ると、いつの間に登って来たのか、清水がニヤニヤして立っていた。清水は同級生で火縄銃のボーカリストだ。
「なんだ、清水も遅刻かよ」
「俺は真面目だから時間通りに登校しましたよ。おなかが痛くなって1限で早退しましたけど」
ワザとらしくおなかをさすりながら葉月の隣に座る。 
ケンジたちが通う旭高校は、このあたりでは頭のいいヤツが通う進学校として名が通っているが、校風が自由すぎることもあり(なにしろ制服すらない)、生徒は大学受験に向けて真面目に勉強するグループと、ダラけまくって落ちこぼれていくグループにきっちり二分されている。
当然、ケンジも清水も後者のグループに属している。
清水は派手な柄の開襟シャツに水色のゆったりしたズボンというサーファースタイルだ。最近清水はそのスタイルが多いが、もちろんサーフィンなんてやらない。最近のサーフィンブームに乗っているだけだ。でも長身の清水はそのスタイルが本物のサーファーみたいだった。
火縄銃の練習のときだけパンクスタイルになるが、サーファースタイルのほうが合っているとケンジは思う。
一方のケンジはいつもTシャツにジーンズというスタイルだ。その格好がいちばん好きだからというのが理由だが、そもそも清水みたいに服にバリエーションを持たせるだけのお金がないのだ。
「で、この子どなた? 紹介しろよ」
「葉月っす」
葉月はケンジが口を開く前に自分で名乗った。しかし、恐ろしく愛想がない。
「ハヅキ? ずいぶん変わった名前だな」
清水はケンジと同じリアクションをして、マイルドセブンを取り出し火をつける。 
マイルドセブンは一昨年発売されたばかりのタバコだ。セブンスターを軽くした味わいが人気になり、セブンスターから乗り換えるヤツが続出した。
しかしケンジには軽過ぎてタバコを吸っている気がしない。だからいまでも浮気をせずにセブンスターを吸い続けている。 
両側からタバコの煙を吐き出されて、葉月はイヤな顔をして立ち上がり、東屋の隅に避難した。
「俺は清水。ケンジの悪友っす」 
ケンジは葉月に名乗っていなかったことを思い出した。葉月も聞いてこなかった。ケンジには興味がないということか。ちょっと気分が悪い。
「手に持ってるの、なに?」 
清水が目ざとく望遠鏡にチェックを入れたので、不機嫌そうな葉月に代わってケンジは葉月が一目惚れした男、小林を探しているということを説明する。 
清水は「よりによって小林かよ」とまたしてもケンジと同じリアクションをした。清水も小林が嫌なヤツだということを身をもって知っている。
「違うって。その小林ってヤツなんか好きじゃねえって」 
葉月が声を上げたので、ケンジと清水は驚いて葉月の顔を見た。 
葉月は目を伏せたまま「探してんのは父親なんだよ」とつぶやいた。 
ケンジは清水と顔を見合わせた。いきなり話が深刻そうな展開になってきた。さっきまでヘラヘラしていた清水も困惑顔をしている。
「なんだか訳ありな感じだな。ま、こんなところじゃなんだから、とりあえず行くか」
清水はタバコを灰皿に投げ込んで立ち上がった。
「どこに行くんだよ?」 
ケンジが聞くと清水は「決まってんじゃないか」と言って、「ドゥドゥドゥドゥ、ドゥドゥドゥドゥ」と言いながら、インベーダーの行進を真似して横歩きを始めた。 
清水がインベーダーゲームを誘うときのお決まりの動きだ。
ケンジと清水は暇さえあれば喫茶店に行ってインベーダーゲームをしている。あまりにやりすぎて、インベーダーが夢に出てくるほどだ。 
ケンジは葉月の顔を盗み見た。案の定、葉月は心底バカにした顔をして清水を眺めている。 
そうとも知らずに清水は、さらにスピードをアップして東屋を一周し、体力を使い過ぎたと見えて、両手を膝について息を荒くしている。見ると額に玉のような汗までかいていた。
「うぜえ」
葉月が意味不明な言葉をつぶやいた。 


自転車に乗ってインベーダーゲームが設置されている喫茶店に向かった。葉月は意外にも「行く」と言ったのでケンジの自転車の後ろに乗せた。 
荷台に横座りする葉月に恵の姿がダブる。よくこうやって二人乗りしたものだった。まだ、たった一年前のことなのに、はるか昔のことのように思える。 
蔵造りが並ぶ通りを走り、蓮馨寺の裏通りに入った。この通り沿いにいつ行っても客がまったくいない、モカと言う古臭い喫茶店があるのだが、なにを思ったか、つい最近インベーダーゲーム機が一台導入されたのだ。 
しかしながら裏通りで人通りもないこともあり、店の窓に「あのインベーダーゲーム導入!」と張り紙をしても、ほとんど告知効果はないらしい。相変わらず店には客もなく、いつ行ってもインベーダーゲームが空いているという、ケンジたちにとって奇跡のような状態が続いている。
ドアベルを鳴らしてドアを押す。店内は薄暗く、カビ臭い。がらくたみたいなシャンデリアが天井からいくつもぶら下がっている。8卓ある4人がけのテーブルには相変わらず客の姿がない。 
店内の最奥に設置されているテーブル型のインベーダーゲーム機に向かう。 
ケンジと清水はインベーダーをはさんで向かい合って座った。ケンジの横に葉月が座る。ソファのクッションがヘタっているので、座るとお尻がぐっと沈み込んだ。
「あんたら、またさぼりかね」 
トレイに水とおしぼりを載せて店のおばちゃんが奥から出て来た。パーマをかけた茶色い短髪に濃い化粧をしたスナックのママみたいなルックスが一見恐ろしげで、最初はビクビクしたが、通っているうちに親しくなった。
「インベーダーゲームで百円玉いっぱい使ってやるから固いこと言うなよ」
清水が軽口を叩く。
「あれ? この子、見たことないね。中学生じゃないの?」 
コップをゲーム機の上に置いたおばさんの目が尖った。さすがにおばさんも、平日の午前中に高校生が喫茶店に入り浸ってタバコを吸うことは許しても、中学生は許せないらしい。
「いや、彼女は高1だよ。いまちょっと休学してんだ」 
ケンジがあわててごまかすと、おばさんは疑わしそうな目をケンジに向けたが、それを無視してアイスコーヒーを注文する。
「あ、俺はレスカね」と清水。
「お嬢さんは?」 
メニューに目を落としていた葉月は、ドギマギした顔をして「あ、レモンスカッシュというの下さい」と言った。
「レモンスカッシュはレスカと略したほうがナウいんだよ、ハーちゃん。あ、オレンジスカッシュはオスカね」 
いきなりハーちゃんかよ。ケンジは心のなかで舌打ちをする。清水は女の子の扱いが上手いわけではないのに、すぐに軽口を叩いて気を引こうとする。 
先月、「ナンパに行こう」と清水に強引に新宿に連れていかれたが、清水の軽口は空回りするばかりで結局ナンパはまったく成功せず、3時間以上路上で無駄な努力をした挙句、グッタリして東上線で帰ってきた。 
それから2人でインベーダーゲームを立て続けに2ゲームやった。葉月はしばらくつまらなそうに眺めていたが、レスカが届くと「チョーしょうもない」とつぶやいて飲み物を持って隣のテーブルに移った。 
相変わらず意味不明だ。しかし、声のトーンからインベーダーゲームをバカにしていることは明らかで、夢中になっているケンジたちまでバカにされたような気がしてカチンとした。
それでも2ゲーム目がゲームオーバーになり、清水がすぐにテーブルに積んでいた百円玉をゲーム機に投入したときは、さすがに葉月に悪くてケンジは遠慮した。
「さっきの父親を探してるって話だけどさ、本当なのか?」 
ケンジは隣の席でレスカを飲みながら、葉月に声をかけた。清水が発射するミサイルの音が絶え間なく聞こえている。
「まあね」
葉月はストローをくわえたままつまらなそうにしている。少しだけ上を向いた小さい鼻が生意気そうだ。
「父親の名前はなんていうの?」
「わかんない」
「わかんないんだ・・・・年齢は?」
「う~ん」
「年も知らないんだ。かわいそう、ハーちゃん」
清水がうつむいてミサイルを打ちながら言う。 
ちょうどそのとき画面右側からUFOが現れ、清水は狙いを定めて撃ち落とした。300点。
「よっしゃ、狙い通り」 
見ているうちにケンジもやりたくなってくるが、当分終わりそうにない。
「母親はいるんだろ?」
「ああ」
「だったら母親に聞けばいいじゃん、父親のこと」 
ケンジが言うと葉月は眉間にしわを寄せて、「それが出来れば苦労しねーよ」と吐き捨てるように言った。
「どういう意味だよ」
「父親のことも昔のことも全然話したがらないんだよ。そしたら自分で探すしかないだろ?」 
口調がまるで男だ。どういう育てられ方をしたらこうなるのか。ケンジも葉月の親の顔が見たくなって来る。
「ハーちゃんってそういや何年生?」
「ハーちゃんって誰だよ?」 
葉月はわかっているはずなのに、とぼけて聞き返す。
「君のことだよ」
清水が画面から一瞬顔を上げる。
「キモい」 
発した言葉の意味はわからないが、顔をしかめたところを見ると少なくとも喜んではいない。
「中3?」
清水はすぐに画面に顔を落として言う。
「まあな。もうすぐ高校だけどな」 
ケンジはあわてて厨房のほうを見たが、奥に引っ込んでしまったのか、おばちゃんの姿はない。
「もうすぐって言ったって、まだ5月だよ。高校行くまで1年近くあるじゃん」 
清水は葉月の顔を見て突っ込む。そのとき、「ドカ~ン」という爆発音がした。清水が画面から目を離したすきにインベーダーから発射されたミサイルが当たったらしい。これでゲームオーバーだ。 
清水はもうゲームを続ける気がないのか、レスカを一口飲んで葉月のほうを向いた。
「あまり言いたくないんでいろいろ聞かないでくれる?」
葉月は機先を制するように言った。
「なにもわからなかったら協力しようがないからさ。じゃあ二つだけ教えてくれよ」 
ケンジが言うと、葉月は「なに?」と首をかしげる。生意気だけど仕草がまだまだ子どもっぽい。
「父親と旭高校はどう関係してるわけ? もしかして旭の先生なのか?」
「う~ん」
「なんでそこで悩むんだよ。訳わかんないな」 
インベーダーが行進する音が始まった。見るといつの間にか清水が4ゲーム目を始めている。呆れたヤツだ。
「旭高校と関係あるらしいんだよ、とにかく」
葉月が面倒臭そうに言う。
「まあいいや。じゃあ、もうひとつ。小林のことはなんなんだよ? 父親と関係あんのか?」
「関係ないっす」
グラスのなかの氷をストローでかき回している。
「あたしの知り合いで付き合ってるのがいるから気になっただけだよ」
「そいつに言っといたほうがいいよ。止めておけって」
「うん、わかった」
ケンジのほうを見て微笑む。 
愛想がないけど笑うと可愛いんだな、とケンジはドキッとした。
「俺をシカトして仲良くしてんなよな」 
ケンジの気持ちを見透かしたように突っ込んできたので、びっくりして清水のほうを見た。しかし清水は相変わらずうつむいて画面をにらんでいた。
「でもまあ、良かったよ。ケンジにこんなかわいい女の子の友だちができて。これでずいぶん元気になるだろ」
「なになに? ケンジ君になんかあった?」 
葉月が清水の話に食いついてくる。ようやく普通の女の子みたいな喋り方になって妙にホッとする。中坊に君付けされるのは納得いかないが。
「これが聞くも涙、語るも涙で・・・・」 
清水が画面に目を向けたまま話を続けようとしたので、ケンジは「いいよ、その話は」と強く言って清水の口を封じた。

 
清水がなんの話をしようとしたのかは分かっている。ケンジは去年の9月から今年の3月まで短期留学していた。留学先は旭高校が提携しているオーストラリアの高校だ。 
留学したのは勉強したいからというより、単純に海外に行ってみたかったからだ。ついでに英語が話せるようになれば言うことはないと思った。 
将来どんな仕事をしたらいいのか。どんな仕事ならできるのか。ケンジはまったく見当がつかない。 
ただ、海外で仕事ができれば、と以前から漠然と思っていた。それで海外留学したいと思ったのだ。 
もともと、「オーストラリアに留学する」と言い出したのは清水だった。清水は親に強く勧められていて一時はその気になっていたが、最終的に「やっぱ、かったるいわ」と言って取りやめた。 
清水から留学の話を聞いてケンジの気持ちも動いた。でも、家にはケンジを留学に出す経済的な余裕などないことはケンジ自身わかっていた。 
それでもあきらめきれなかったケンジは、2年生になる前の春休みに郵便局でバイトをして十万円ばかりの資金をつくり、両親に直談判した。
「十万円は出せる」とケンジが言うと、親父は「ケッ!」と言った。留学にかかる費用総額からしてみれば、十万円なんてはした金に違いない。それでもケンジは自分の努力をバカにされたような気がしてカチンときた。 
そのとき、部屋の隅で成り行きを見守っていたばあちゃんが口を開いた。
「足りない分は私が年金を貯めた分で払うよ」 
親父も母親も「またそうやってケンジを甘やかそうとする」と口をそろえてばあちゃんを非難したが、ばあちゃんは「年金から払う」と頑として譲らなかった。 
最終的には「ばあちゃんの年金を使うわけにはいかない」と、親父がケンジに無利子でお金を貸すという形で決着した。 
で、実際に行ってみてどうだったかと言えば、想像以上に楽しかった。毎日が刺激的で半年はあっという間に過ぎて行った。 
行ってよかったと思う。将来は海外に行くような仕事がしたいという気持ちを強くすることができた。 
でもそれと引き換えにケンジは大切なものを失ってしまった。

「あたし、もう帰る」
葉月が突然立ち上がる。
「なら送ってくよ」
ケンジもつられて立ち上がった。
「いいいい、自分で帰れるから」
葉月は手を振った。
「ハーちゃん、遠慮することないよ。こいつに自転車で送ってもらいなよ」
清水が画面に目を落としたまま言う。
「ぶらぶら歩きながら帰りたいからホントにいい」
「このへん、詳しいのかよ」 
ケンジが問うと葉月は「詳しいような詳しくないような」と訳のわからないことを言って笑った。
「ドカ~ン」という音がした。見ると、清水は自爆してゲームオーバーにしたらしい。さすがに最後くらいちゃんと葉月と話さないとまずいとでも思ったのか。
「ハーちゃん、明日俺たちバンドの練習があるからさ。見に来てよ」
「へえ、バンドなんかやってるんだ。クラブ活動?」
「まあ、いちおう軽音楽部に入ってるけどさ」
「合宿とかある?」
「合宿? そんなかったるいことやんないよ」
「ふーん」
なぜだか葉月は途端に興味をなくしたようだった。
「俺たちがやってるのはパンクだよ。セックス・ピストルズのコピーとか」
清水はそんな葉月の様子を気にすることなく続ける。
「パンク? セックスピストル?」
葉月はチンプンカンプンな顔をしている。
「やっぱり若者は社会に反抗すべきなんだよ。俺たちが学校を遅刻したり早退したり、こうやってさぼって喫茶店でタバコを吸っているのも、すべてはパンクでアナーキストだからなんだ。アナーキー・イン・ザ・カワゴエってな」 
ぼんやり聞いている葉月に早口でまくし立てている。ケンジは清水が女の子にもてない理由がわかった気がした。
「あ、中学生には難しかったかな。とにかく明日見に来てよ。丸広の近くにある栗原楽器ってわかる?」
「栗原楽器なら超知ってる」 
丸広は川越にある唯一のデパートだ。
「そこのスタジオで4時から6時までやってるから」
「行かないかもしれないけど、行けたら行くよ」
「そんな冷たいこと言わないでよ。ハーちゃんが来なかったらドッチラケだよ。ぜひ来てね〜」 
清水はそう言うと手を振った。ケンジもあわてて手を上げる。 
葉月はドアベルを鳴らして出て行った。
「なあ、あの子とどこで知り合ったの?」
清水はマイルドセブンを口にくらえて自慢のジッポライターで火をつけた。
「あの裏山だよ。昨日会ったばかり」
「どこの中学行ってんの?」
「わからないけど、秩父の田舎のほうじゃないかな。なまってるし」
「ちょっと恵ちゃんに似てるよね」
「・・・・言うと思ったわ」
ケンジもセブンスターを取り出して口にくわえる。 
タバコをおいしいと思えるのは一時間に3本が限度だ。それ以上吸ってもまずいだけなのに、喫茶店にいると立て続けに5本も6本も吸ってしまう。 
百円玉を2枚投入してゲームを再開した。まずは清水の攻撃だ。 


ケンジが留学するまで付き合っていたのが恵だ。恵はケンジと同い年で川越市内にある広栄女子高校に通っていた。 
旭高校と広栄女子高校は交流が盛んで、広栄女子高校の生徒が旭高校のサークルに入ったり、逆に旭高の生徒が広栄女子高のサークルに入るということが許されている。 
恵は旭高校の軽音楽部に1年のときから所属していて、ケンジとディープ・パープルのコピーバンドをやっていた。恵はキーボードだ。 
つき合い出したのは1年の春休みだった。一緒に鎌倉まで遊びに行ったり、東京に映画を観に行ったりした。 
ケンジは正直、すごく恵のことが好きだった。恥ずかしい話だけど、好きすぎてデートしていても緊張してうまく話ができなかった。
映画を観た後も、その後どこに行っていいかわからず、渋谷から原宿まで無駄に歩かせたりした。 
だからケンジは一緒にいても全然面白くない男だったと思う。それでも恵は一緒にいてくれた。半年間留学することも恵の後押しがなければ、気が小さいケンジは実行することができなかったと思う。 
恵は待っていると言ってくれたのに。
「あ〜あ、なんかかったるいな」
清水の攻撃をぼんやり眺めながら、つい口をつく。
「なんか、面白いことねえかな」
清水もミサイルを撃ちながら言う。
「かったるい」と「面白いことないかな」がケンジたちの口癖だった。


第3話「なんでいきなり電話が出てくるんだよ」 

火縄銃はケンジが3月にオーストラリアの留学から帰ってきてすぐに結成した。留学する前までは、ケンジはディープ・パープルのコピーバンドを組んでいた。かたや清水はこの3月までレッド・ツェッペリンのコピーバンドを組んでいた。 
しかしセックス・ピストルズの登場に衝撃を受けていたケンジたちは、それまでのハードロック路線を捨て去り、パンクに転向したのだ。 
練習はこの日でまだ4回目だったが、さすがにセックス・ピストルズの曲はパープルやツェッペリンに比べたらメチャクチャ簡単なので、課題曲の五曲ともすでに完璧に近い出来栄えだ。
「ちょっと聴いてみるか?」
五曲すべて演奏し終えると、清水は録音していたラジカセのテープを巻き戻した。ボーカルの清水は楽器がなくて身軽なので、代わりに録音担当としてラジカセを毎回持ってくる。 
ベースの岩澤はうつむいて「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」のベースラインを小さい音で弾いている。 
ラジカセでざっと聴いてみても悪くなかった。
「EAST WESTの優勝は確実だな、こりゃ」
ドラムの国井が手の平でスティックを回しながら威勢のいいことを言う。 
EAST WESTは楽器メーカーが主催するロックバンドのコンテストで、この夏に行われる川越ブロックの予選会に火縄銃もエントリーするつもりでいた。
「水を差すような話で悪いんだけどさ」
ひと通り盛り上がった後で無口な岩澤が突然口を開いたので、みんなビックリして岩澤の顔を見た。
「俺、もうバンドやれないわ」
岩澤は目を伏せてはいるが、きっぱりとした口調で言った。
「なんだよ、突然」
清水が口を尖らす。
「もうそろそろ受験勉強に本腰入れなきゃまずいしさ。EAST WESTなんて出てらんないよ。だから、今日で辞めるよ。このまま続けてEAST WESTが近づいてきたら、辞めるわけにはいかなくなっちゃうしよ」
「本気かよ」 
ケンジが言うと岩澤は銀縁メガネ越しにこちらをちらっと見て「悪いけど」とだけ言った。 
そういえば岩澤は以前は短い髪をしっかり立ててパンク風にしていたのに、いまは寝ている。やる気のなさが髪に出ているということか。
「あと、申し訳ないんだけどさ、ちょっと用事ができちゃってもう帰らなくちゃならないんだ」
「なんじゃそりゃ」
清水が声を上げた。 
壁にかかった時計を見ると、まだ5時だ。スタジオは6時まで押さえてある。あと1時間、ベースなしでやれというのか。
「悪い」
岩澤は右手を挙げて謝った。
「悪いじゃねえよ。勝手すぎるだろ」
清水がだんだんヒートアップしてくる。
「もう少し付き合えないのか?」 
ケンジが言うと岩澤はいつもの気の弱そうな笑顔で「急に家の用事ができちゃってさ。ほんとゴメン」と頭を下げた。
「じゃあ岩澤、当分ベース弾かねえよな。しばらく俺に貸しといてくれ」 
清水の言い方はほとんど命令口調だった。
「ああいいよ。よかったら売ってやるよ」
「買うかどうかはちょっと考えるわ」 
岩澤はベースを肩から下ろしてアンプに立てかけた。
「あ、今日のスタジオ代、今度でいいか?」
「ああ、いいよいいよ。みんなで立て替えとくわ。またな」
ドラムセット越しに国井が妙に明るい声を出した。 
岩澤はうつむいたまま軽く右手を上げるとスタジオの分厚い二重ドアを開けて出て行った。
「なんなんだ? あいつ」
清水はむっとした顔のままアンプの上に置いていた炭酸が抜けきっているはずのコーラを飲んだ。
「あいつさ、受験勉強が忙しくなるからなんて言ってたけど実は話が反対なんだ」 
見ると国井は神妙な顔をしている。国井と岩澤は同じ飯能の中学の出身で、飯能から電車で1時間かけて川越まで通っている。
「反対ってなんだよ?」
清水は口を尖らせたままだ。
「あいつんち、材木屋だろう?」
「ああ」 
それはケンジも知っている。2年のとき、春の遠足の帰りに飯能の岩澤の家に遊びに行ったことがある。道路側が店舗で、高い屋根の倉庫に材木がたくさん立てかけてあったのを覚えている。
そのときは岩澤の親父に酒を進められて酔っ払い、結局岩澤の家に泊めてもらった。岩澤の親父は自分もたくさん飲んで岩澤の母親に怒鳴られていた。
「商売がうまく行ってなくてヤバいらしいんだわ。なんでも父ちゃんが所沢駅で置き引きにあって金を盗まれたらしくてさ」 
初耳だった。
「なんだそれ? いつの話だよ」
清水も初めて聞く話らしい。
「俺の誕生祝いで家族で『すかいらーく』に行ったときにおふくろが騒いでいたから、5月の14日だよ」
「お前、いい歳こいて、親に誕生会を開いてもらってんのかよ」
清水がすかさず突っ込む。
「俺さ、自分への誕生日プレゼントとしてキャンディーズの写真集を買おうと思って、川越や所沢の本屋を探し回ったんだけどどこにもなくてよ。その日に学校早退してわざわざ新宿まで探しに行ってようやく見つけたんだけど、所沢で乗り換えるときに網棚に忘れちゃったんだ。すぐに問い合わせたんだけど、どこにもないって。それですげえ落ち込んでたから『すかいらーく』に連れてってくれたんだよ」
「なんだそりゃ?」
清水が呆れた顔をする。 
国井は以前からキャンディーズのランちゃんのファンだったが、去年の4月にキャンディーズが解散してからは「ランちゃん命」に拍車がかかり、コツコツお小遣いをためてはキャンディーズグッズを買い漁っている。 
だからキャンディーズの写真集を失くしたというのがショックなのはわかるが、その話ならこの前の火縄銃の練習のときに散々聞かされている。でも、岩澤は前の練習のときに置き引きのことなどなにも言わなかった。
なにかひとことくらい言ってくれればいいものを、岩澤はいつも通り黙ってベースを弾いていた。
「そのとき盗まれたバッグに、会社の運転資金用に結構な金が入ってたらしくてさ。あいつの父ちゃんも間抜けだよ。昼間から会合で酒をたくさん飲んだ後に銀行に寄って大金下ろして、それで夕方、家に帰るときに所沢駅のホームのベンチでウトウトしててやられたんだってさ。だから、あいつも大学進学どころじゃないって話だよ」 
火縄銃のなかでいちばん真面目で勉強もできる岩澤は、明治あたりなら現役で入れるくらいの偏差値だ。偏差値が低いケンジや清水や国井ではなくて、よりにもよって岩澤が大学に行けないなんて理不尽な話だ。
「一度あいつに聞いたんだよ。大丈夫かって」国井はディップローションで立てた髪型に似合わないような悲しい顔をして続ける。「あいつ、大丈夫だからみんなには黙っててくれって」 
ケンジも清水も、岩澤がそんな大変な目にあっているなんてまったく知らなかった。
「まあ、せめて今日のスタジオ代は俺たちのおごりにしようぜ」
清水は岩澤が置いていったベースのストラップを肩にかけた。
「ベースなんか弾けんのかよ」 
国井が言うと清水はポーズをとりながら適当にベースを弾いてみせた。
「まあ、シド・ヴィシャスくらいなら俺だって弾けるだろうよ」
「そりゃそうだ」
国井が笑う。
「シドはベースなんて弾いたことがないままピストルズのベーシストになったんだもんな」
「今度岩澤に譜面をもらわなきゃな」
清水はベーシストをやるつもりらしい。 
岩澤は前もケンジとディープ・パープルのコピーバンドを組んでいた。そのバンドはケンジの留学で解散となり、帰国後ケンジはパンクバンドを結成するために再び岩澤を誘って火縄銃のメンバーに加えたのだ。でも、そもそも岩澤はパンクに関心を持っていたのだろうか。
もっと言うと、パープルにだって岩澤が関心を持っていたのかどうかも定かではない。岩澤の部屋にあったのはアメリカンロックのLPばかりでディープ・パープルはおろかブリティッシュロックのLPなど1枚もなかった。無口な岩澤はあまり本心を言わないヤツだった。 
最後まで本音を言わずにバンドを脱退かよ・・・・。 
なんだか無性に悲しくなってくる。 


ギターのストラップを肩にかけてふとスタジオの窓を見ると葉月の顔があった。窓の外は楽器店の店内だ。ケンジは手を上げて、入ってこいという合図をした。 
葉月が顔を出したことで沈んでいたスタジオのムードは一変した。 
いちばん態度が変わったのは、葉月と初対面の国井だ。その日、葉月はタイトな白いミニスカートを履いていたが、国井はミニスカから伸びた脚を見て顔を赤くしていきなり無口になった。 
国井は背が低くて目が小さいこともあり、はっきり言ってまったく女にモテない。もちろんケンジだってモテると胸を張れるほどではないけれど、コンサート終了後に女の子から握手を求められたこともあるし、短期間だけど恵という彼女がいたこともある。しかし国井はからきしダメだった。 
国井は顔じゅうニキビだらけなのにもコンプレックスを持っている。一度、ケンジが「性欲が強いヤツほどニキビが出るらしいぜ」とからかったら、本気で落ち込んでしまい、なぐさめるのに苦労した。 
岩澤がいなくなったので、清水が急遽ボーカル兼ベーシストになった。清水はケンジからコード進行を聞いてノートにメモり、ルート音だけ弾きながら歌った。 
清水はベースを弾きながら歌うのが難しいのか、それとも葉月が見ているので緊張しているのか、はっきり言ってベースも歌もイマイチだ。国井のリズムもそれに引っ張られて不安定になっている。 
EAST WESTの優勝があっという間に遠のいてしまった。ケンジはギターを弾きながら舌打ちをした。 
葉月は最初イスに座って演奏を聴いていたが、そのうち立ち上がってこの前いじりながら「県外だ」なんて言っていた小さな機械をケンジたちに向けた。清水も国井もケンジも、訳がわからないまま、その機械を向けられる度にニヤニヤした。
「ハーちゃん、なにしてたのよ?」
演奏を終えてすぐに清水が葉月に聞いた。
「ん? ああ、これ?」
葉月は機械を掲げて見せた。
「なにそれ? 電卓?」
言われてみれば確かに最近発売された名刺サイズの電卓に似ている。現物は見たことないが。
葉月はなにも言わずに、ニヤニヤしながら機械をいじって清水に手渡した。 
すぐに機械から「アナーキー・イン・ザ・UK」が流れ出した。ピストルズの演奏ではない。火縄銃の演奏だ。どうやらテープレコーダーらしい。
「なんだこれ?」 
清水が素っ頓狂な声を上げた。テープレコーダーを見つめて驚いている。その驚き方が尋常じゃない。もう少しで目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いている。 
国井がドラムセットから飛び出てきてのぞきこみ、そのまま口を半開きにして固まってしまった。その間も小さな機械からは「アナーキー・イン・ザ・UK」が流れている。 
ずいぶん小さいテープレコーダーだと思うし、あの薄い機械の中にどうやってカセットテープが入っているのか不思議ではあるけれど、いくらなんでも驚きすぎだ。 
ケンジも清水の後ろに回り込んでのぞきこんだ。そして、清水と国井の驚き方が決して大げさではないことがわかった。
「ウソ!」
ケンジはつい悲鳴のような情けない声を上げてしまった。 
その機械には画面がついていて、なんとそこに演奏中のケンジたちが映っていた。
「ありえねえ・・・・」
清水の声が震えている。 
確かに、こんな小さな機械で録音ばかりか撮影もできて、しかも撮影したカラー映像がこの機械で見られるなんて想像をはるかに超えていた。夢でも見ているみたいだ。
ケンジは中2の春、クイーンの初来日のときに武道館へ行ったときのことを唐突に思い出した。それはケンジにとって初めての外タレのコンサート体験だった。 
野球部に入っていて坊主の中学生だったケンジは、友だち同士で東京に行くということだけでも大イベントだったが、その上、当時大好きだったクイーンが生で見られるとあって天にも昇る気分だった。 
どうしてもコンサートを録音したかったケンジはラジカセを持っていくことにした。しかし、問題はコンサート会場の入り口で録音機器を持ち込んでないかチェックする関所だった。バッグの中身まで厳しくチェックする、飛行機のセキュリティチェック以上に厳しいあの関所を、バッグにすら入らないバカでかいラジカセを持ってどうやって突破すればいいのだろう。 
思案した上、ラジカセに紐をつけて首から下げ、その上からダッフルコートを着込んで行くことにした。バッグの中身は調べられても、服を脱げとは言われないだろう。 
季節は春でダッフルコートを羽織るような陽気ではない。おまけにコンサート会場の武道館は、人だかりができていたこともあってメチャクチャ暑く、汗がだらだら出た。
ケンジは無事に関所を突破し、コンサートを録音することに成功した。しかし、重いラジカセをぶら下げた紐が首に食い込んで、首がちょん切れるかと思うほど痛かった。 
あのときこの機械があったら・・・・と痛切に思う。
「ハーちゃん、なにこれ? どうなってんのよ」
清水の声にケンジは我に返った。 
葉月はニヤニヤするだけで応えない。
「こんなすごい機械、見たことも聞いたこともないわ」
清水の声は相変わらず震えている。
「これ、どこで買ったのよ、ハーちゃん」
「教えない」
葉月はプイッとそっぽを向く。その生意気そうな顔を見ていると、ケンジはだんだん腹が立ってきた。
「お願いだからどこで売ってるのか教えてくれよ」
清水はいまにも土下座しそうな勢いだ。 
清水の家は歯医者で結構小遣いをもらっているみたいだから、早速買うつもりなのだろう。一方、ケンジも国井も自分が買えるようなレベルの代物ではないことが明白なので、ため息をつくしかない。
「遠いとこなんだよね」
「遠いとこってどこ?」
「遠いとこは遠いとこだよ」 
葉月は投げやりに応えて清水から機械を取り返し、目に見えないほどの速さの指さばきで機械を操作した。
ディープ・パープルのギタリスト、リッチー・ブラックモアの速弾き並みの速さだ。どういう風に操作しているのか、見ているケンジにはさっぱりわからなかった。
「ほら」
葉月は画面をケンジたちのほうに向けた。
「うわああ~」
男三人が同時に感嘆の声を上げた。 
信じられなかった。小さい画面のなかで本物のセックス・ピストルズが「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の演奏を始めたのである。動いているピストルズなんて、4月に清水と新宿で観たビデオコンサート以来だ。
「ありえねえ」
「こんな小さいのに」
「夢みたいな機械じゃん」 
男たちは賞賛の声をあげた。ケンジは心臓がドキドキしてきた。
「いくらするの、それ? 百万円くらい?」清水が懲りずに葉月を問い詰める。
「いくらって・・・・。ほとんどタダっていうか」
「本当ですか?」
いきなり国井が声を上げた。しかも丁寧語だ。考えてみれば葉月が現れてから国井が口をきいたのはこれが初めてだ。
「嘘つくなよ」
ケンジが呆れて言った。
「でも3年縛りとかあるから」
「また、訳のわからないことを。なんだよ、その3年縛りって」
「電話の契約を3年間は結んでなきゃいけないんだ」
「なんでいきなり電話が出てくるんだよ」
「いきなりって・・・・これ電話だし」
「冗談もいい加減にしろ」
ケンジは本格的に腹を立てた。
「ハーちゃん、大人をからかうのもいい加減にしてくださいね。それのどこが電話なんですか? 電話というのはね」
清水はそう言ってスタジオに設置された黒電話を指差す。
「これのことを言うんですよ。ほら、こうやってコードが繋がってないと相手の声が聞こえないんですよ」
「なにそれ? それ電話? 超ウケるんですけど」 
葉月が黒電話を見て笑い出す。もう、わけがわからない。
「じゃあそれで電話してみてくれます?」
国井がまた丁寧語で割り込んできた。
「いや、ちょっとここはケンガイだから」
「埼玉県内だよ」
清水がケンジと同じ反応をする。 
いつまでたってもラチがあかず、ケンジはイライラしてきた。
「おい、まだ三十分以上時間あるぞ。もうちょっと練習するぞ」 
ケンジが大声で言うと、清水と国井は夢から覚めたような顔をしてケンジを見た。


「やっぱ、ベース弾きながら歌うのってきついわ」
「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を演奏した後、清水が泣き言を言った。
「確かにベースも歌もリズム狂いまくってるしな」
国井が自分のリズムの乱れを棚に上げて容赦ないことを言う。
「俺、ベースに専念してコーラスだけにするわ。ケンジ、お前がボーカルもやれよ」
「無理だって」
「まあ確かにケンジは音痴だしな。じゃあ・・・・」
清水は葉月のほうを見た。
「なに見てんだよ。キモいな」
葉月は警戒心をあらわにした顔をする。
「どう? ハーちゃん。スージー・クワトロになってみない?」
スージー・クワトロというのは、ちょっと違う気がするが。
「なんだよ、そのスージーなんとかってよ」
「スージー・クワトロはロック界のアイドルだよ。ベースを弾きながら歌う姿がカッコいいんだよね。こう、革ジャンのファスナーを下げてさ」
清水は胸のところでファスナーを下げる手つきをして、ニヤニヤしながら葉月の胸のあたりに目を向けた。
「胸の谷間がチラリと見えて・・・・」
「キモいんだよ!」
葉月が大声を出して足元にあったゴミ箱を清水に投げつけた。どうやら「キモい」というのは不快感を表現する方言かなにからしい。
「まあまあ落ち着けよ」
ケンジが割って入った。
「とりあえず今日だけ適当に歌ってみてくれよ。今日だけ。あと三十分だけだからさ」
「そんなこと言われても曲知らないし」
「パンクだからワヤワヤ言ってりゃ大丈夫だよ・・・・じゃあ、『プロブレム』行ってみよう!」
清水が調子づいて言い、葉月が返事をする間もなく国井がカウントを取って演奏が始まった。 
ということで、葉月は渋々マイクの前に立って清水に言われた通りにワヤワヤ歌った。そして、これがなんと大当たりだったのだ。 
葉月の歌声はオーバードライブがかかったような声質でパンクロックにぴったりだった。しかも、音程もしっかりしている。
ケンジたちは大喜びして本人の意思を確認しないまま、葉月を火縄銃の正式メンバーにした。
「じゃあサテンに行ってハーちゃんの歓迎会でもするか」
スタジオを出たところで喫茶店好きの清水が言った。
「悪いけど、今日はこのまま塾に行かなきゃなんねえんだわ」
ケンジはギターケースを背負い、自転車にまたがった。
「あたしも帰るわ」
「なんだよ、ハーちゃんはいいだろ?」 
清水は葉月の腕をつかもうとしたが、それより早く彼女は背を向けて、手を高く振りながら中央通りを歩いて行ってしまった。
「なあケンジ、彼女、どこ住んでんの?」
清水は葉月の背中を見送りながら言う。
「知らない」
ケンジも前に聞いたことがあるが、はぐらかされていた。
「なんだか謎めいてるよな。それにしても、あの機械、どこで売ってるんだろ?」
清水はあの機械に未練タラタラのようだ。
「じゃあ、俺も行くわ」 
ケンジは喫茶店に行くという清水と国井を残して塾に向かった。これから塾に行くなんて面倒臭いけれど、家に早く帰らなくていいからまあいいかとも思う。 
昨夜、晩飯を食べた後に寝転んでテレビを見ていると、滅多に口をきかない親父に「ちょっとは勉強したらどうだ?」といきなり言われてカチンときた。 
親父は銀行に勤めていて晩酌をしながらテレビで巨人戦を見ることだけが楽しみな人間だ。銀行での肩書は支店長代理。ケンジは最近まで、支店長代理というのは支店長の次に偉いのかと思っていた。
でも違った。それを教えてくれたのは、父親が親父より大きな銀行の支店長をやっているという、軽音楽部の嫌なヤツ、小林だ。 
小林はケンジの父親が銀行の支店長代理をやっていることを知ると、「出世街道から外れちゃったねえ」と見下したような目をして笑い、支店長の次に偉いのは副支店長で、支店長代理は出世の見込みのない、年齢が行った行員がもらう肩書だと言った。
「客のトラブル処理をさせるときにちょっと偉そうに見える肩書にしといたほうがスムーズに行くんだってさ。普段は来店した客の案内とか、どうでもいい仕事をしているんだけど」
その話を聞きながら、ケンジはやり場のない怒りで爆発しそうだった。 
真面目だけが取り柄で楽しみはテレビのプロ野球観戦のみ、でも出世も出来ない。自分がそんな親父の血をひいているのかと思うとウンザリした。 
ちゃんと勉強していい大学に入って、なんてことをコツコツやっていたら逆に自分の首を締めるだけだと思う。その先に待っているのは支店長代理的な慎ましい人生だけだ。 
そんなことを思いながらパンクバンドをやる一方で、最低限の勉強だけはきちんとしようとする自分の器の小ささに絶望的な気持ちになる。 
赤になったばかりの交差点に突っ込んで行く。クラクションを鳴らしたクルマをにらみつけるようにして走り去る。
さっき、ケンジたちを残してスタジオを出て行った岩澤の顔が浮かんだ。
あいつはなにを考えているのだろう。今度じっくり話を聞いてみたい気がする。  
そう思いつつ、自分がそんな機会を作る気がないこともわかっていた。


第4話「ということは、ノストラダムスの大予言、外れてるじゃん」

7月頭の期末テストが終わった翌々日は久しぶりの火縄銃の練習日だった。 
期末テストが終わると夏休みまではクラブ週間だ。朝、出欠をとってホームルームをやると、あとはクラブ活動をやるだけとなる。 
3年生はクラブ活動から実質的に引退しているので、ホームルームを終えるとすぐに帰宅するか図書館に行く生徒が多い。 
その日、ケンジは一度家に帰ってからギターを担いでスタジオに向かった。8月末に開催されるEAST WESTまであと1か月余り、メンバーはみな気合いが入っている。
EAST WESTでの演奏は十分以内だったら何曲演奏しても構わないというルールだ。ケンジたちは散々悩んだ結果、セックス・ピストルズのベーシストだったシド・ヴィシャスの「MY WAY」とオリジナル曲の2曲で勝負することにした。
「MY WAY」はフランク・シナトラの往年のヒット曲をパンク風にアレンジしたもので、これがすごくカッコいい。オリジナルはケンジが曲を作り、メロディに合わせて葉月が後から歌詞を書いた。 
葉月によるとラブソングということだけど、歌詞はSNSとかフェイスブック(顔の本ってなんだ?)とか意味不明な言葉のオンパレードで、その意味不明なところがパンクだということでみんな気に入っている。タイトルは「インスタLOVE」。 


この日は「MY WAY」と「インスタLOVE」を集中的に練習した。 
葉月が火縄銃の練習に参加するのはこれで5回目だ。いまではすっかりみんなに溶け込んでいる。 
それにしても、出会ってから2か月もたっていないのに葉月は驚くほど大人っぽくなった。男子校にいるからよく分からないけど、この年代の女の子はみんなこんなに早く成長するものなのだろうか。
胸もひと回り大きくなり、国井はもちろん、ケンジも清水も葉月と話すときに目のやり場に困るようになった。前に清水が言ってたように、スージー・クワトロみたいに革ジャンを着て前のファスナーを下げたら、しっかり胸の谷間が見えるだろう。賭けてもいい。その姿を想像したことがあるのはケンジだけではないはずだ。
「もう優勝間違いないな」
清水は練習後、喫茶店でタバコを吸いながら宣言するように言い、みんな大いに盛り上がった。
葉月がメンバーに加わる前にも国井が同じことを言っていた。ここに岩澤がいないのが残念だが、どうしようもない。
「なあ、これから俺んちで『ぎんざNOW!』を観ないか?」 
喫茶店を出て、飯能まで帰る国井を見送った後、自転車にまたがったケンジに清水が声をかけて来た。大学受験を控えた高校3年ではあるけれど、もうすぐ夏休みだということで開放的な気分だった。
「いいけど、葉月はどうする?」
荷台に座った葉月に聞く。
「なんだよ、そのギンザナウって?」
「えー、ハーちゃん『ぎんざNOW!』も知らないの? 驚いた。ハーちゃんってナウじゃないねえ」
「テレビ番組だよ。バンドとか出てくるんだ」
ケンジが説明した。
「へ~え。みんなで集まってテレビ観るなんて面白いことすんだね」
「で、行くの? 行かないの? もう始まっちゃってるから急がないと」
「なんだか面白そうだから行く」 
清水の家は表通りに面した建物が歯科医院になっていて、裏が自宅になっている。
大きな窓から歯科医院の待合室が見えた。待っている人がたくさんいる。イスが空いてなくて立っている人もいた。相変わらず繁盛しているようだった。
ケンジは患者用の自転車置き場に自転車を停めて、葉月とともに裏に回った。自宅の脇には患者の目を避けるように高価そうな外車が停めてあった。 
清水の部屋にはテレビがあった。これなら家族とチャンネル争いをすることなく、好きなテレビ番組が見られる。いやらしい深夜番組も好きなだけ観ているらしい。
深夜番組なんて、ケンジは誰もいないタイミングを見計らって、居間でたまに観るくらいだ。それだって音量を最小限に絞って、家族が来たらすぐに消せるようにテレビの近くで中腰の姿勢で観ている。
もっとカネが欲しいと思う。
ケンジと清水はビールを飲んだ。葉月には麦茶が出てきたが、一口飲んで「なんで麦茶が甘いんだよ!」と大声で文句を言い、それ以上口をつけなかった。
『ぎんざNOW!』を観ながら清水はいつになくはしゃいでいた。『ぎんざNOW!』が終わった後もレコードを聴いたりして盛り上がった。
葉月は驚いたことにステレオを見るのが初めてらしく、ターンテーブルで回るLPに顔を近づけて不思議そうに見ている。 
清水の部屋にあるステレオは結構いい音がしてうらやましい。そして、清水のステレオのさらに上を行くのが小林の部屋にあるどデカい4チャンネルステレオだ。初めて聴いたときは、大げさではなくコンサートホールにいるような錯覚を覚えたほどだ。 
それにひきかえ、ケンジの家にあるステレオはオモチャに毛が生えたような代物だ。しかも、妹も聴くからと、ケンジの部屋ではなく応接間に置いてある。
もっともっとカネが欲しいと痛切に思う。しかし、月五千円ぽっちの小遣いでは、スタジオ代とギターの弦やピックの費用、タバコ代でほとんどなくなってしまう。
一時は長期の休みのときだけじゃなく、普段もバイトをやろうかとも思ったが、バイトをしたら父親から留学費用の借金返済を求められることが目に見えているのであきらめた。
「ホント、ハーちゃんって面白いよな。どんな暮らしをしてるんだよ」
ビールで顔を赤くした清水が軽口を叩く。
「ねえ、誰にも言わないからさ、本当はどこに住んでるの?」
「どこだっていいじゃん」
葉月はターンテーブルに目を落としたまま面倒くさそうに応える。
「頼むから教えてくれよ」
酔っ払った清水はしつこい。
「やだ」
「ねえねえ」
「しつけーんだよっ」
葉月が突然大声を出した。
「あ、ごめん」
清水はいきなりションボリした。 
それにしても葉月はなぜこうまで頑なに自分の住まいを教えたがらないのか。自分の住まいだけじゃない。いまは学校を休んで川越の親戚の家にいるという話だけど、その親戚の家の場所すら教えようとしない。ケンジが自転車で送っていっても、裏山がある川越公園の入り口で「ここでいい」と言い、いつもそこで別れていた。
「もう7時かあ」
清水はバツの悪さをごまかすように壁にかかった時計を見てつぶやく。
「えっ、もうそんな時間?」
葉月はあわてて立ち上がった。
「どうした? 門限か?」 
葉月はケンジの質問には応えず「帰るよ!」とケンジを急かした。 


挨拶もそこそこに葉月に追い立てられるように清水の家を出た。背後から「急げ」と急かされながら自転車を飛ばす。
「お前の親戚の家、そんなに門限うるさいのかよ。なら家の前まで送るわ」
「いつものところでいい」 
葉月はどうしても住んでいる所を知られたくないらしい。 
川越公園の入り口に着くと、葉月は「ありがと」と言って公園のなかに駆け込んで行った。いつもならここでUターンして帰るところだ。しかし、ビールで酔っ払って大胆になったケンジは、自転車を漕いで葉月の後を追った。 
きっと川越公園を抜けた先に葉月の親戚の家があるのだろう。今日こそは突き止めてやる。ケンジは刑事ドラマに出てくるカッコいい俳優になった気分でペダルを漕いだ。 
ポツリポツリと街灯が立つ薄暗い公園を走る葉月の背中を少し距離をあけて追いかける。葉月が走る先に神社があり、その参道の先に公園の出入り口があるので、やはりそこから公園を抜けるつもりだろう。 
しかし葉月は鳥居を潜って出入り口に向かって参道を走ったかと思うと、急に立ち止まった。ケンジはあわててブレーキを踏み、滑り台の陰に身を潜めた。 
そっとのぞいてみると、葉月は鳥居のほうに向き直り、なにをしているのかしばらくうつむいていたが、突然鳥居に向かって走り出した。
「えっ?」 
ケンジは思わず目をこすった。鳥居を走り抜けた瞬間、突然鳥居の近くに生えていた木の枝が大きくしなった。鳥居から離れたところに生えている木は静かなままだ。要するに、鳥居のあたりだけ強風が吹いたのだ。そして、鳥居を走り抜けたはずの葉月の姿が消えていた。 
滑り台から鳥居までは20メートルもない。薄暗いとはいえ、あたりにさえぎるものはなく、彼女の姿を見失うはずはない。
「幽霊じゃん・・・・」 
初雁高校で噂される少女の幽霊のことが頭をよぎった。状況的には葉月は噂の幽霊そのまんまだ。しかし葉月は幽霊ではない。多分。 
ケンジは自転車を停めて、恐る恐る鳥居のところに歩いて行った。鳥居の下であたりを見回す。やはりどこにも葉月の姿はない。隠れるところもなかった。 
狐につままれたような気分だった。さっき、葉月がうつむいてたたずんでいたあたりまで行き、同じようにたたずんでみた。そして鳥居に向かって走った。
鳥居を潜るときに心臓がドキドキしたが、なにも起きず、そのまま賽銭箱の前にたどり着いただけだった。 
立ち止まって鳥居のほうを振り返った。薄暗い参道に真っ赤な鳥居が何事もなかったようにたたずんでいる。
ケンジはなにがなんだかわからなかった。
 
翌日、ホームルームが終わるとケンジは裏山に直行した。葉月は毎日のように裏山に登っているので、行けば会えるはずだ。葉月に会って昨日のことを問い詰めなければならない。 
まだ早いからか、葉月の姿はなかった。ベンチに座ってセブンスターに火をつける。アブラゼミの鳴き声が降るように聞こえた。ケンジは汗を拭いた。 
一時間ほどして葉月が登ってきた。珍しく制服を着ている。でも、最初に会ったときに着ていた制服とは違う。最初に会ったときはセーラー服だったが、いまはブレザーの制服だ。
「転校したのか?」
「まあね」 
言いたくなさそうな顔をしているのでそれ以上は聞かないことにした。登校拒否の末に転校とは、葉月もいろいろあるのだろう。
そもそも聞きたいのはそんなことじゃない。
「なあ、焼きそばでも食いに行かないか」
今日5本目のセブンスターを吸ってから葉月を昼飯に誘った。 
公園内にある駄菓子屋兼焼きそば屋に向かった。トタン屋根の、見るからにみすぼらしい造りの店だが、太麺の焼きそばは、ケンジの小学校以来のお気に入りだ。値段が安いのも万年金欠病のケンジにはありがたかった。
開けっ放しになっている引き戸から薄暗い店内に入った。細長い紙をヒラヒラさせて扇風機が首を振っている。 
テーブルに向き合って丸イスに座り、出てきたじいさんに大盛りと普通盛りを注文する。
焼きそばが来るまでは火縄銃についての他愛もない話をした。問い詰めるのは焼きそばが到着してからだ。葉月が焼きそばに気を取られているうちに真実を聞き出すのだ。
焼きそばが到着し、葉月は「美味しそう」と歓声をあげた。
「なあ、葉月ってさ、どこに住んでるの?」
ケンジは下を向いて焼きそばを箸ですくいながら、さりげなく尋ねた。
「しつけーな。だからこの近所だって」
葉月はうつむいたまま面倒くさそうに応える。想定内のリアクションだった。ケンジは事前に決めていた通りに話を進める。
「そこの神社って、幽霊が出るって学校で噂になってんだよな。女の子がいたと思ったら突然消えたり、逆に突然現れたり・・・・」 
葉月はチラッとケンジのほうに目を向け、すぐにまた焼きそばに目を落とした。
「昨日、見ちゃったんだわ。葉月が鳥居の所で消えるの」
ケンジはそこまで言うと黙って焼きそばを食べることに意識を集中した。あとは食べ終わってからだ。 
葉月も黙って食べ続けた。最後に皿に残った焼きそば数本を箸でかき集めて口のなかに放り込んで咀嚼しながら「チョーめんどくさい」と言い、それまでひとくちも飲まなかったグラスの水を飲み干して大きな音を立ててテーブルに戻した。
「もういいよ、本当のこと言うし。その代わり、ケンジ、信じられないなんて言ったら許さねえから」 
ケンジもつられてコップの水を飲み干してうなずいた。
「あたしが住んでるのは本当にこの近所だよ。でも時代が違う。あたしが住んでるのはいまから三十七年後の川越なんだ」
「なんだそりゃ? ふざけんなよ」
「ふざけてねえよ。じゃあ、鳥居のところで消えてあたしがどこに行ったと思ってんだよ」
「それが分かんないから聞いてんだよ」
「だ・か・ら!」
葉月が声を上げた。
「三十七年後の川越に帰ったんだって」
「・・・・」
ケンジは「ふざけんな」以外の言葉が思いつかずに黙り込む。
「だいたいさ・・・・」 
葉月は脇に置いたバッグを膝に乗せてファスナーを開け、機械を取り出した。練習風景を撮影したり、ピストルズの映像を流したりしたすごい機械だ。
「これ、スマホっていうんだけどさ、こんな機械、見たことも聞いたこともないってみんな言ってたよな。こんなの、この時代にあるわけないじゃん。これがなによりの証拠だろ?」
「いや、この機械は確かにすごいよ。それは俺だって認めるわ」 
最近、音楽好きの間では、寄ると触るとこの7月にソニーから出たウォークマンの話題で持ちきりだ。しかし、葉月のスマホとか言う機械よりはるかに大きいそれは、音楽の再生ができるだけで撮影はおろか録音もできない。
「でも、だからって葉月が未来なら来たなんて、話が飛躍しすぎだわ」
「結局信じないじゃんかよ」
葉月はほおづえをついてケンジから目をそらした。口を尖らせ、腹が立つほど憎たらしい顔をしているが、生意気な表情が可愛らしくもあった。そして、切れ長の大きな目がやはり恵に似ていた。
「葉月って目がデカイよな」
思わず話の流れとはまったく関係ない言葉が口をついた。
「関係ないじゃん」 
葉月はため息をつくと素早い指さばきでスマホとか言う機械を操作した。セックス・ピストルズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」が始まった。
「ピストルズが観られるのはもうわかったって。うるさいってじいさんに怒られるから止めろよ」
 ケンジがうんざりした顔をすると、葉月は黙ってスマホの画面をケンジのほうに突き出した。 
小さい画面のなかでジョニー・ロットンが歌っている。いや、違う。よく見ると本人じゃない。声も顔もジョニー・ロットンに似てはいるけど、歌っているのは太ったオッサンだ。
「2007年の映像だよ。この前見つけてダウンロードしておいたんだ。いまから二十八年後だな。ジョニー・ロットン、五十一歳のとき」
「なんだよそれ? ピストルズは去年解散してるって」
「調べてみたけど、オヤジになってから4回も再結成してるよ。『金儲けのため』だってさ」
「なんだよそれ? そんな話、信じられるかよ」 
頭が混乱してきた。だいたいオッサンのセックス・ピストルズなんてあり得ない。パンクじゃないにもほどがある。信じられない。信じたくない。
「現実を見なさい!」
葉月はテーブルを平手でバンと叩いた。
「ジョニー・ロットンだっていつまでもパンクな若者じゃないんだ。未来は確実にあるんだよ!」
「いや、そりゃあ、まあ未来はあるだろうけどさ」
葉月の迫力に押されて、しどろもどろになって来た。 
葉月は再びほおづえをついてそっぽを向いている。
「その未来からやって来たなんて、誰だって信じられないよ」
「あーあ、そろそろ未来に帰ろっかな。バック・トゥ・ザ・フューチャー、なんてね。あ、まだこの時代には出来てないか」 
葉月は訳のわからないことを言い、両手を高くあげて伸びをした。どうやらケンジを無視することに決めたようだ。 
葉月がテーブルに置いたスマホという機械からはジョニー・ロットンに似たオヤジが「ノー・フューチャー・フォー・ユー」の歌詞を繰り返し歌っている。

お前の未来なんかない
お前の未来なんかない 

この特徴のある歌声はなかなか他人に真似できるものではない。ケンジはスマホを手にして画面に目を落とした。 
見れば見るほどジョニー・ロットンにそっくりだった。年を取っているという以外は。
ほかのメンバーが映し出された。ギタリストはかなりのデブオヤジだが、デブながらも明らかにスティーブ・ジョーンズの面影があった。ドラムもやはり太ったオヤジだ。でも、顔がポール・クックにそっくりだ。
唯一、ベースだけは記憶にないルックスだ。そりゃそうだ。シド・ヴィシャスは今年の2月に薬物の過剰摂取で死んでしまったのだから。 
太ったオッサンのセックス・ピストルズ・・・・。葉月の言うとおり、これが本当の未来なのかもしれない。しかし、そうだとしたら未来は間違いなく輝かしくない。ノー・フューチャー・フォー・ユーだ。
「ごめん、俺が悪かった。こいつらは間違いなく未来のピストルズだよ。話を続けてくれないか?」
ケンジはそっぽを向いている葉月に頭を下げた。
「ねえ、ファンタってなに?」
葉月は壁に貼られた短冊を眺めている。
「あ? ファンタ? 炭酸のジュースじゃん」 
葉月の無知には何度もあぜんとさせられてきたけど、それもまた未来から来た証拠だというのか。
「じゃあファンタグレープ飲む」 
ケンジは店のじいさんにコーラとファンタを注文してから葉月の話に黙って耳を傾けた。 


葉月の説明は行ったり来たりしてムダが多く、分かりづらいので出来るだけ簡潔にまとめてみる。 
葉月は二十一世紀の未来から来た。葉月の家系は代々この公園内にある神社の神主をしている。そう、葉月が鳥居のところで消えた神社だ。神主を務めるのは女と決まっていて、いまは(いまと言っても三十七年後の話だけど)葉月の祖母が務めている。 
葉月の家系の長女は何百年も前からある特殊な能力を持っている。それは時間を自由に行き来することが出来る能力だ。 
昔はこのあたりは神隠しが頻繁にあった。子どもが突然いなくなって困り果てた親はここの神社に駆け込んだ。女神主は親に細かく事情を聞き、時間を超えて子どもを連れ戻した。また、農民のためにその年の天候を調べに未来に行き、育てる農作物を決めるなんてこともしていたらしい。
「うちのそんな能力が評判になって、遠くから神隠しに遭った子どもの居場所を教えてほしいと訪ねてくる人もいたそうだけど、残念ながら時間の移動はできても空間の移動は出来ないんだって」
「タイムワープは可能、テレポーテーションは不可能ってわけか」 
特殊な能力は十五歳になったら発揮できると言う。葉月は十五歳になった日に、神主をしている祖母に自分に備わっている特殊な能力のことを聞かされた。
「神隠しもなくなったし、このあたりに農家がなくなったいまとなっては、この能力が世の役に立つ機会はあまりない。あなたの母親はもうそんな能力は必要ないし、それどころか不幸を招くだけだから葉月に特殊能力のことを言う必要はないと言うんだけど、この能力は否が応でも私たちで引き継いでいかなくちゃならないんだ」 
時間を超える旅をするにはどうすればいいか。聞くと拍子抜けするほど簡単で、行きたい年月日を3回唱えて神社の鳥居を走り抜けるだけだと言う。
走り抜けた瞬間、そこは違う時間になっている。ただし、行きたい年月日に正確に行くのはある程度の経験が必要らしく、2〜3か月ずれてしまうこともあるらしい。
「あたしもこの時代に最初に来たときは3か月ずれてたしね」
「最初に来たのはいつだよ?」
「ケンジに会う3週間くらい前だよ」 
5月の初め頃だ。旭高校で幽霊の噂話が流れ始めた時期と一致する。やはり幽霊少女は葉月だったのだ。 
一度来た日には2度と来ることは出来ないが、その翌日に来ることは簡単で、日にちがずれることなく正確に来ることが出来る。だから葉月は毎日この時代に来ているわけだが、タイムワープするにはものすごくエネルギーが必要で、一回タイムワープするだけでかなり体力を消耗するという。そのため、葉月は十日に一度くらいのペースでしかこちらの時代に来られないと言う。
「十日に一度って、毎日来てるじゃん」
「こっちの時代には毎日来てるけど、あたしは十日に一度しかタイムワープしてないんだよ」
「どういうこと?」
頭がこんがらがって来た。
「だ・か・ら!」
葉月はケンジの理解力のなさに呆れた顔をした。
「昨日この時代に来たあたしはホントは十日前のあたし。今日未来に帰ったら十日後にまたこの時代の明日に来るから、明日ケンジが会うあたしは今日から十日後のあたしだってこと」
「・・・・」
「まあいいや、どうでも」
葉月はケンジに理解させることをあきらめたようだった。
「少なくともこれだけは覚えておいて。あたしはそんな事情で、ケンジより十倍速いスピードで成長してるんだ」 
そう言われて、ケンジもようやく理解した。道理で葉月がどんどん大人びてきているわけだ。ケンジが葉月に会ったのは一か月半ほど前だが、その間に葉月の時間は一年以上たっていたらしい。
「ということは葉月の時代はいまは何年で葉月はいま何歳だ?」
「2016年だよ。あたしは十六歳。高2だよ」
「高2? 本当かよ?」
会ったときは中3だったのに。
「来月にはあたしは3年になっているから同級生だ」
「頭がこんがらがって来た・・・・」
「とっくにこんがらがってんだろ?」
言われてみればその通りだ。
「もう一つだけ言うと、移動先の時代には8時間以上いられないの。それ以上いたら元の時代に戻れなくなっちゃうんだ」 
昨日あわてて帰ったのも、それが理由だと言う。ケンジは口をつけていなかったコーラを飲んだ。まだまだ聞きたいことがあるはずだが、なにを聞いたらいいのかわからない。
「なあ、来たかった日から3か月ずれちゃったって言ったよな? 本当は2月に来たかったのか? それとも来月の8月か?」
「ん? 8月だよ」
「8月になにかあるのか?」
「まあね。でも内緒。そのうち教えるよ」
「なんだよ、いまさら隠してもしょうがないだろ?」
「いや、それだけは言えないんだ」
「いいだろ?」
「しつけーな。無理なものは無理なんだよ!」
葉月はほおづえをついてそっぽを向く。
「わかったよ。で、8月のその日になるまで毎日この時代に顔を出してるわけか?」
「そうだよ。毎日来てれば、確実にその日にも来られるからね」葉月はそう言うと、コップに三分の一ほど残ったファンタグレープを飲み干した。「で、ケンジ、あたしの話、信じたんだよな?」
「う~ん、信じる信じない以前に訳わかんないわ」
「まあ、徐々に理解すればいいよ。それとさ・・・・」
「なんだ、まだあるのか? 今日はもう脳みそがいっぱいいっぱいだわ」
「ファンタオレンジも頼んでいいかな?」
「なんだ。そんなことかよ。葉月の時代にはファンタねえのかよ?」
「わかんない。こっちと違っていろんな種類のジュースがあるし」
ケンジは焼きそばとファンタの代金を頭のなかで計算した。財布の中にはそれ以上のお金が入っているはずだ。 
葉月は出されたファンタオレンジを一気に飲んだ。
「あー、タバコが吸いたくなってきた。そろそろ出ようぜ」
前にこの店でタバコを吸ったら、店のじいさんに「ここは不良の溜まり場じゃない!」と激怒されたので、ここで吸うわけにはいかない。
「650円」
立ち上がったケンジに、厨房から出て来たじいさんが無愛想に言う。
ポケットから財布を出してファスナーを開けた。小さく折りたたんだ五百円札が一枚、あと百円玉が一個と十円玉が二個。血の気が引いた。620円しか入ってない。
そうだった。昨日ギターの弦を買ったのを忘れていた。やはり、最後のファンタオレンジは余計だった。
650円と聞いて「安っ!」と歓声をあげていた葉月は、ケンジが財布を開けたまま固まっているのを見て事情を察したらしく、「あたしも少しは出すよ」と財布を取り出した。真っ赤な女の子らしい財布だ。
「500円あれば大丈夫だよね?」
「全然足りるよ」
お金がなくて女の子に払ってもらうなんて恥ずかしいにもほどがある。
「じゃあまず500円ね」
葉月は手を出しているじいさんにお金を渡した。
ケンジは財布を逆さにして手のひらに全財産を出した。
「なんだこりゃ!」
怒気を含んだじいさんの大声がした。
びっくりして顔を上げると、じいさんが顔を真っ赤にしている。短く刈られた髪が真っ白なので、顔の赤さがより際立っていた。前にタバコを吸って怒られたときより、怒りのレベルが三段階くらい高い。
「警察に突き出してやろうか、お前ら」
そう言うとじいさんは右手を突き出した。
右手のひらには葉月が渡した硬貨が載っている。百円玉かと思ったが、百円玉にしてはデカい。ケンジは東京オリンピックの記念硬貨の千円銀貨をばあちゃんからもらって大切に持っているが、それよりは全然小さい。
「なにこれ?」
ケンジはじいさんの手から硬貨を取った。「500」という数字が刻まれている。
「なにこれって、単なる五百円玉じゃん」
じいさんの剣幕におびえながら葉月が小声で言った。
「なにが五百円玉だ。俺は女だからってようしゃしないからな」
葉月の言葉を聞きつけたじいさんの口の端から白い唾が飛んだ。
「すみません。三十円足らないんですけど、今日中に持って来ますから」
ケンジは頭を下げると左手で握りしめていたお金をテーブルの上に置き、小さくたたんでいた五百円札を丁寧に開いた。
「なにこれ?」
葉月は五百円札に顔を近づけた。
「貧乏なのか金持ちなのか知らないけどさ。お嬢さん、五百円札も知らないわけ?」
じいさんは腕を組んで不愉快そうな顔をした。
「じゃあ、後で三十円持って来ますんで」
ケンジはそれだけ言うと、葉月の腕を引っ張って店を出た。
「もしかして、この時代に五百円玉ってないの?」
葉月は上目遣いでケンジを見た。
「ないよ、そんなもん。びっくりしたわ、マジで」
ケンジはタバコに火をつけた。足は自然と裏山に向かった。
「これからはこの時代でお金を使わないことだな」
「ごめんなさい」
葉月は珍しくシュンとしている。じいさんの剣幕にびっくりしたのだろう。
無理やりバンドに引き込んだという後ろめたさもあり、いままではスタジオ代も喫茶店代も、いつも男たちが割り勘で払い、葉月には払わせなかった。だから、葉月がこの時代に通用するお金を持ってないということにケンジも気がつかなかった。
葉月は本当に未来から来たのだろう。落ち込んでいる葉月の横顔を見て、ケンジはようやくその事実を100パーセント受け入れた。
「お金ないならタバコなんて止めればいいのに」
裏山のベンチに座って新しいタバコに火をつけると、少し離れたところに座った葉月が静かに言った。
「こればっかりはやめられんわ」
「いくらするの? タバコ」
「一箱150円」
「そんなに安いんだ」
葉月は大げさに驚く。
「安かねーよ。一週間に二箱吸ったら1か月千円以上かかるからな。痛いよ」
「あたしの時代は確か一箱500円くらいするよ」
「本当かよ? それじゃあ高校生が吸うのも大変だ」
「心配しなくても誰も吸ってないよ。だいたい高校生なんてタバコ買いたくても買えないようになってるから」
「自動販売機で買えばわからないだろ?」
「自動販売機だって、身分証明書みたいなカードがなきゃ買えないんだよ」
「なんだか恐ろしいことになってんだな。イヤだイヤだ」
ケンジは国語の教師がこの前授業で言っていた、イギリスの作家、ジョージ・オーウェルの『1984』のことを思い出した。1948年に執筆された近未来小説で、高度に管理された世の中を描いた話らしく、興味を持ったケンジは、今度図書館で借りてみようと思っていた。
もしかしたら二十一世紀は、タバコも自由に吸えない暗黒時代なのかもしれない。
「タバコなんて身体に悪いからやめたほうがいいって」
「母親みたいなことを言うなよ」
そう言いながらもケンジは、自分の身体を気遣ってくれる葉月の言葉にいたく感動した。そして同時に、感動している自分に困惑した。
「でもさ、五百円玉はなくても千円札とか百円玉くらいあるよな?」
葉月はケンジの心の動きなど知る由もなく、突然話題を変えた。
「当たり前だろ? この時代をなんだと思ってんだよ」
「一銭とかそういう単位かと思ったよ。あービビった」
「なんだそりゃ。江戸時代じゃあるまいし」
「だったら五百円玉以外のお金を使えばいいんだよな。あたし、今日はお金あるから喫茶店おごってやるよ。いつもいつも払ってもらってるからさ」
「いいよ、別に」
「そうだ、その前にさっきの店、千円札で足りない分を払えばいいじゃん。あたし持ってるから払ってくるわ」
「ちょっと待った」
立ち上がっていまにも駆け出そうとする葉月を呼び止めた。
「千円札、見せてみろよ」
「ああ、いいよ」
葉月は財布からお札を取り出してケンジに渡した。
見たこともない青い色をしたお札だった。
「誰だこれ?」
ひげを生やしたおやじは伊藤博文ではない。どこかで見た顔だと思ったら、小さい字で野口英世と書いてある。
「だめだ、こりゃ。いまの千円札と全然違うわ」
「まじかよ?」
「こんなの出したら今度こそじいさんにぶん殴られるわ」
「だったら百円玉は? 百円玉や十円玉ならいいよね」
「いや、無理だよ」
ケンジはたたずんでいる葉月を見上げた。
「硬貨は製造年度が刻まれてるだろ? いまの時代より先の製造年度が刻まれていたら一発でアウトだよ」
「そうか・・・・」
葉月はようやくあきらめてベンチに座り込んだ。
「そういや、さっきの五百円玉に刻んであった年、なんだっけ? 平成とかなんとか」
「ああ平成だよ」
葉月はそれがどうしたという顔をしている。
「平成ってなんだよ。昭和の次の年号か?」
「そう」
「で、昭和は何年で終わるんだ?」
「知らない。あたし歴史得意じゃないんだ。平安時代がいつだとか昭和時代がどうだとかって聞かれてもよくわかんないし」
「平安時代と一緒にしてんじゃねえよ。葉月も平成生まれなのか?」
「そう。平成十一年」
「それ、西暦にすると何年だ?」
「1999年」
「ウソ!」
ビックリして思わず立ち上がった。
「ウソついてどうすんだって」
「8月1日生まれだって言ってたよな?」
「うん」
「信じられん」
「なんでよ? 生まれたのが未来だから?」
「まあ、それもあるけど・・・・1999年8月1日生まれなんてな。なあ、念のために聞くけど、葉月が生まれた前の月の7月に人類は滅亡してないんだよな」
「当たり前だろ? 滅亡してたらあたし生まれてないし」
「ということは、ノストラダムスの大予言、外れてるじゃん」
「なんだよそれ? また歴史の話か?」  
『ノストラダムスの大予言』は「1999年7の月に人類は滅亡する」と予言した大昔のフランスの占星術師を紹介した本だ。その本はミリオンセラーになり映画にもなった。 
日本中で大ブームになったのである。その本のことを知らないなんて、さすが1999年に生まれたヤツは違う。
「清水のヤツ、どうせ三十代までしか生きられないから好き勝手生きるって言ってたけど、どうすんだろ?」
「話が見えないんだよ!」
葉月が大声をあげた。どうやらじいさんにつけられた心の傷は早くも癒えたらしい。
その声で我に返った。清水のことを心配している場合じゃない。1999年といったら三十八歳だ。葉月が生まれたとき、どこでなにをしているのだろう。
親父と同様、銀行員になった自分が文句をつけている客にペコペコ頭を下げている映像が浮かび、瞬時にそれを払いのけた。
「1999年の7月に全員死ぬっていうのも悪くなかったんだけどな・・・・」
「もういいって!」
じいさんに返す三十円を家に取りに行かなければならないので、未来に帰ると言う葉月と一緒に早々に山を降りた。アブラゼミの声が降るように聞こえる。
高校3年にもなって三十円ごときであたふたしている自分が情けなくてしょうがなかった。家に帰ったらばあちゃんに多めにお金を借りようと思う。今日みたいなみじめな思いは二度としたくない。
「ああそうだ。父親を探してるって言ってたよな、前に」
別れ際に突然思い出した。
「うん」
「それは本当なのか?」
「本当だよ」
「その父親ってさ、いま何歳なんだよ?」
「ここの時代の年齢?」
「ああ」
「多分ケンジと同じ。旭高校の3年生のはずだけど」 
ケンジは頭が痛くなってきた。
 
翌日、ホームルームが終わるとケンジは学校の図書館に向かった。旭高校の図書館に入るのは、入学してから初めてだ。 
図書館は天井が高いせいか教室よりも涼しかった。その涼しさを求めてか、勉強しているヤツがたくさんいる。 
ケンジは葉月が暮らしているという2016年がどういう時代なのか調べたかったけれど、どのジャンルの棚にもそんな本はなかった。 
あきらめて今度は市立図書館に行った。こちらはまだ時間が早いせいかガラガラだった。あちこち探し回り、ようやく目当ての棚にたどり着いた。「二十一世紀ぼくらの生活」といった、児童向けの未来予測本が並んでいる棚だ。とても高校生が読むレベルの本ではないが、ほかにないのだから仕方がない。 
数冊手に取って席に着く。本のなかで二十一世紀の人々は、空飛ぶクルマに乗ったり、海底や火星で暮らしたりしていた。気温が一年中一定に保たれた部屋のなかには、壁掛けテレビや掃除や料理をすべてやってくれるロボット、テレビ電話などがあった。 
ケンジは空飛ぶクルマに乗っている太ったオヤジのジョニー・ロットンを想像してみた。
そんな世界で葉月が暮らしているなんて、一ミリも信じられなかった。


第5話「つくづくめんどくせえ時代だな」 

夏休みになった。高校最後の夏休みだ。 
旭高校の真面目な3年生は都内の大手予備校の夏期集中講座に通い、忙しい毎日を過ごす。ケンジは、週に1回の火縄銃の練習、週に2回のスーパーでのバイト、週に3回の地元の塾通い、というのがスケジュールのすべてで大して忙しくはない。 
そして空いている時間は葉月と過ごした。葉月は未来から来たことをケンジに知られたことで隠し事がなくなったせいか、以前より気を許した態度をとるようになった。 
清水と国井にはいままで通り「同時代の人間」を装っていたが、二人きりになると「昔の日本をもっと見たい」と言ってケンジをあちこち連れまわした。 
そしてなにを見ても「ヤバイヤバイ」「チョー古臭い」と言って喜んだ。ケンジは自分がナウいと思っているものまで「昔っぽい」と言われるとかなり複雑な気持ちになった。
夏休みに入って最初の日曜日は代々木で模試を受けることになっていた。学校にほぼ強制的に受けさせられるテストだ。葉月のそのことを言うと、「えーっ? 東京、超行きたいんですけど」と言ってきかないので連れて行くことにした。 
その日の朝、川越駅で待ち合わせた。夏休みに入ってからしばらく涼しい日が続いていたが、この日は本格的な夏の到来を感じさせる暑さだった。まだ朝の8時前だというのに日向にいるとじっとしているだけで汗が流れてきた。 
しかし、葉月は約束の8時を過ぎても現れない。このままじゃテストに遅れてしまうので、改札の横にある伝言板に伝言を残して先に行くことにした。

〈葉月へ  時間がないので先に行く。もし後から来るんだったら1時半に原宿駅待ち合わせで。ケンジ〉

先日、この時代のお金を念のために少し渡しておいたので、1人でもなんとか来られるだろう。
「なにやってんの?」 
伝言を書き終わったちょうどそのとき、葉月に声をかけられた。
「なにやってんのじゃねーよ。お前が来ないから、伝言残して先に行こうとしてたんだよ」
「なにこれ? 黒板にメッセージ書くんだ? 超ウケるんですけど」
「とにかく行くぞ」 
ケンジは伝言板を見てクスクス笑っている葉月の手を引っ張って切符売り場に行き、池袋までの切符を二枚買った。
「すごい、これが切符なんだ」
葉月に切符を渡すと嬉しそうに眺めている。
「切符くらいでいちいち感動するなよ。急ぐぞ」 
歩き出した途端、後ろからシャツを引っ張られた。
「なんだよ?」
「なんで改札に人がいるんだよ?」
「改札なんだから人がいるのは当たり前だろ?」
「じゃあ、この切符はどうすんだよ?」
「改札の人間に渡すんだよ」
だんだん説明するのが面倒くさくなってくる。 
葉月は改札にいる駅員が手のひらでくるくる回しているハサミを怖いものでも見るような目つきで見ていたが、ケンジにならってこわごわと切符を渡した。駅員はすぐさまパチンとハサミを入れて葉月に返す。 
しかし、改札を抜けるだけでもひと苦労だ。
「なあ、お前ってホントに未来から来たのかよ? 電車もなにもない江戸時代とかから来たんじゃないのか?」
「ふざけんな! 昔のやり方がとろ過ぎてわかんないんだよ!」
葉月は頬を膨らませて怒る。 
やって来た電車は残念ながら冷房車じゃなかった。天井で扇風機が回っているが、車内のよどんだ空気をかき回しているだけでまったく涼しくない。 
案の定、葉月は「なにこれ? 超暑いし」と文句を言った。
「そりゃあ、温度が一年中一定に保たれた部屋のなかで住んでいる二十一世紀の方には不快だろうけどさ、あいにくいまは二十世紀なもんで我慢してもらうしかないよ」
ケンジは窓を全開にしながら言い返す。
「メッセージは黒板に書くし電車は暑いし、ケンジ、よくこんな不便な時代に住んでいられるよな」
葉月は畳んだハンカチを団扇のように振りながら憎まれ口を叩く。
「しょうがねえだろ? 生まれる時代なんて選べないんだからよ」 
これ以上話していると本格的なケンカになりそうなので、ケンジは窓の外に目をやった。
田んぼに立ったカカシにカラスがとまっているのが目に入った。
〈もう池袋まで行く必要はありません〉
去年川越にできた大型書店の野立て看板が通り過ぎて行く。
しばらくすると右肩が重くなった。見ると葉月が頭をケンジの肩にのせている。
寝ているようだった。タイムワープで疲れたのかもしれない。それに、やはり二十一世紀の人間には二十世紀は疲れることが多いのだろう。 
葉月の髪が窓から吹き込む風に揺れている。無防備な寝顔は驚くほど子どもっぽい。生意気そうな寝顔が可愛らしかった。
しばらくすると葉月は身体をもぞもぞさせて自分の腕をケンジの腕に絡めてきた。 
その日は二人で東京見物をしたが、葉月には東京はそれほど面白くなかったらしい。
模試の後、葉月の希望で原宿に行くと、歩行者天国の路上で竹の子族が踊っていた。ケンジは竹の子族を見たのがそのとき初めてで、「これがいまいちばんナウい人たちか」と素直に感動したけれど、葉月は「チョーダサいんですけど」と大笑いした。 
周りにいた見物客にすごい目でにらまれ、そのままいたら袋叩きになりそうだったので、葉月の手を引いてあわてて逃げ出し、すぐに川越に帰った。

「あのさ、例えばの話だけど、俺も一緒にワープすることって出来ないのかな?」
「出来なくはないけど、その分2倍疲れるらしいんだよね。あたしはまだやったことないけど」
「そうか」
ケンジは皿に残ったそばを箸でかき集めて口に持って行った。 
その日も焼きそば屋で葉月と昼ご飯を食べていた。この時間なら焼きそば屋は空いている。混むのは公園の先にある市営プールが終わる夕方だ。
「なに? どこか行きたいのか?」
「まあ、ちょっとな」 
上目づかいにケンジを見る葉月がまたちょっと大人っぽくなっている。
「そんなに遠い時代じゃないんならいいよ。近めの未来とか過去なら大して疲れないから」
「そういうもんなんだ?」
「そういうもん。結構わかりやすいんだ。で、何年なの?」
「1979年」
「今年じゃん。今年のいつよ?」
「5月14日」
「それなら楽勝だよ。いま行ってもいいよ」
「じゃあ、善は急げということで」
ケンジはコップの水を飲み干して立ち上がる。
「善は急げだって・・・・年寄りみたい」
葉月も笑いながら立ち上がる。
「ああ、どうせ俺は昭和のじいさんだよ」 
ふたりでくだらない話をしながら鳥居のところまで来た。しかしケンジは内心すごく緊張していた。なにしろ初めてのタイムワープだ。緊張しないほうがおかしい。
「ケンジはとにかくあたしの手をつかんでいて。タイムワープする瞬間はものすごい風に吹き飛ばされそうになるけど、なにがあってもあたしの手を放さないで。わかった?」
「ああ。でも、もし手を放しちゃったらどうなるんだよ?」
「ひとりで別の時代に飛んでっちゃうんだ。そうしたら、もう探しようがないから。安土桃山時代とかの川越でひとり暮らしをしてくれよ」
「安土桃山時代の川越ってどんなんだよ?」
「知らない。少なくともインベーダーゲームはないでしょ」
「やっぱ止めとくわ」
安土桃山時代の川越に、ひとり強風で吹き飛ばされて行く自分を想像しただけで足がすくんだ。ケンジは世界史を取っているので安土桃山時代のことはよくわからないが、そんな時代に髪を立てたパンク少年がウロウロしていたら、チョンマゲのサムライに問答無用で切り捨てられることは間違いない。
「なんだよそれ。怖いのかよ」
「まあな」
カッコつけている場合ではない。
「冗談だよ」
葉月はクスッと笑う。
「万が一吹き飛ばされたとしても、今日から5月14日までの間だから大丈夫だよ。期間が短いからすぐに探し出せるって」
「なんだよ、脅かしやがって」
「じゃあ行くよ」
鳥居を背にして参道を20メートルほど歩いて立ち止まり、振り返る。
「誰もいないよな?」
「ああ」
遠くのほうで子どもの歓声が聞こえるが、あたりに人影はない。
「じゃあ」
葉月はそう言うと、ケンジの手を握った。小さくて暖かい手だった。
真っ赤な鳥居を見つめた。あの先にはいままで体験したことがない、タイムワープが待っているのだ。ケンジは不安になって葉月の手を強く握りしめた。
「痛たたたっ。強すぎだって」
「ごめん」
「行くよ・・・・ゴー!」 
葉月の合図で手をつないで走り出す。葉月は「イチ、キュウ、ナナ、キュウ、ゴー、ジュウヨン」と唱えている。 
鳥居が近づいてくる。葉月が3回唱え終わるのと同時に鳥居をくぐった。 
同時に周囲がブラックアウトして火花が散った。すぐに強風が吹いて吹き飛ばされそうになる。葉月の手を必死に握った。身体が強風にあおられる吹き流しのように水平になっているのを感じる。
遠くで雷鳴のようなごう音がした。つぶっていた目を恐る恐る開けると、雨雲のなかを猛スピードで進んでいるような感じだった。不安に駆られて手をつないでいる葉月の顔を見た。
葉月は大きな目を開けて前方を見ていたが、ケンジのほうを見て、心配しないでとでも言いたげに微笑んだ。 
やがて風が徐々に弱まり、身体がゆっくりと水平から垂直に戻っていった。同時にあたりが明るくなっていく。
目の前に神社があった。見上げるとちょうど鳥居の真下だった。 
さっきまでの暑さが嘘のようなさわやかな風が吹いている。直射日光もやわらかく、明らかに季節がずれたようだった。
「5月14日に着いたか?」
ケンジは手をつないだままの葉月を見やる。風で髪が乱れていた。
「どうだろ? 多分何日かはずれてると思うけど。誰かに聞こう」
「裏山を登れば俺がいるんじゃないかな。 聞いてこようか?」
「ダメだよ。自分に会っちゃったらもう二度とタイムワープが出来なくなっちゃうんだ。その時間にもともといた自分もその時間にやってきた自分も。そうなったら悲惨だよ。同じ時間に自分がふたりいるんだから。まともに生きていけないよ」
「パーマンのコピーロボットみたいだな。代わり番こに学校に行けばいいから楽そうだけどな」
「ダメッたらダメッ」
葉月はいつになく真剣だ。
「じゃあここで待ってるから葉月が聞いてきてくれよ」 
葉月はうなずいて裏山に向かって駆けて行った。 
ベンチに座ってセブンスターをくわえた。見上げると新緑が風に揺れている。ちょっとした避暑だなと思いながら煙を吐いていると葉月が駆け戻って来た。なにやらすごく嬉しそうな顔をしている。
「いたか? 俺は」なんだか間抜けな質問だ。
「いたいた。相変わらずタバコ吸ってた。『ケンジ』って声をかけたら、あわてて『どちらさん?』だって。超ウケる」
「俺をからかってんじゃねえよ」 
わずか100メートルも離れていない所で、もう1人の自分が同じようにタバコを吸っているなんて、かなり妙な気分だ。
「で、今日は何月何日だって?」
「何月何日だったと思う?」
嬉しそうに胸をそらしている。
「わかんないよ」
「なんでもいいから言ってみな」
「うーん、じゃあ5月5日」
ケンジは当てずっぽうに言った。
「ハズレ! なんと5月14日だって。初めてビンゴだよ!」
「ホントかよ。何時何分だ?」
「2時5分すぎ」
「やばい、時間がないぞ」
ケンジはあわてて足でタバコをもみ消して駆け出した。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
葉月もあとから追いかけてくる。 
裏山の麓にケンジの自転車があった。
「5月14日の俺には悪いけど、後で旭高校の自転車置き場に戻しておくということで許してもらおう」
自転車にまたがって葉月を振り返る。
「一緒に行く? それとも待ってる?」
「一緒に行く」
そう言って後ろの荷台に横座りした。 
とにかく急がなければ。葉月によると同じ日には2度来ることはできないらしい。だからいま間に合わなければ2度とチャンスはない。 
ペダルを漕ぐ足に力が入る。信号を無視して交差点を渡る。クラクションが背後から聞こえた。
「ちょっとケンジ、自転車で追いかけて来る人がいるよ。知り合い?」
葉月が背後で声をあげる。 
振り返ると警察だった。
「やべえ、マッポだ」
路地を曲がり、全速力でペダルをこいだ。
「マッポってなんだよ?」
「警察だよ、警察。いま捕まったら信号無視に二人乗り、それに自転車泥棒で面倒なことになる」
「自転車泥棒は大丈夫でしょ。自分の自転車なんだから」 
路地を抜けた先にある寺の境内を全速力で走り抜ける。縦箒で掃除をしている寺男の怒鳴り声がした。 
なんとか警官を巻いて本川越駅に着いた。西武新宿線の本川越駅と東武東上線の川越駅は離れたところにある。仲が悪いからかどうか知らないが、川越市民にしてみれば不便なことこの上ない。
「電車に乗るぞ」 
ケンジは所沢までの切符を2枚買い、1枚を葉月に渡した。葉月は慣れた手つきで改札の駅員に切符を差し出した。
本川越駅は西武新宿線のどん詰まりの終着駅だ。ホームには西武新宿行きの電車がすでに入っていた。 
乗り込むと運良く冷房車だ。ケンジは心底ホッとして葉月の顔を見たが、葉月は「冷房効き弱いし」と結局悪態をついた。 
所沢に着くまでの間、ケンジは葉月とすれ違いに火縄銃を脱退した岩澤のことを説明した。
「で、ケンジはその置き引きを阻止するべく、所沢に向かっているという訳?」
「まあな」
岩澤の親父が泥棒に大金を盗まれなければ、岩澤は火縄銃を辞めなくて済むし、大学進学もあきらめなくて済むはずだ。
「ずいぶん友だち思いじゃん」
「清水より岩澤のほうが全然ベース上手いんだわ。それだけだよ」 
所沢駅に着いた。駅の時計を見ると3時を回っている。 
所沢駅は西武新宿線と西武池袋線の二つの路線が通過する駅なので構内が広い。ホームも6番ホームまである。 
岩澤の親父は所沢駅で乗り換えて飯能に帰ろうとしていたらしい。つまり西武新宿線で所沢まできて西武池袋線に乗り換えて飯能に帰ろうとしていたのだ。そして、ホームのベンチでうとうとしている隙に、大金が入ったバッグを盗まれてしまった。
構内を見渡す。岩澤の親父はどのホームのベンチに座ったのか。
「問題は、岩澤の親父が所沢まで西武新宿線の下りで来たのか上りで来たのかまではわからないことだな」 
下りだったら1番ホーム、上りだったら線路を挟んだ隣の島の2番ホームだ。
「岩澤ってヤツに電話で聞いてみればいいじゃん」
「ホームに公衆電話なんか置いてないよ。そもそも岩澤のうちの電話番号なんて覚えてないし」
 ケンジがそう言うと葉月は深いため息をついた。
「つくづくめんどくせえ時代だな」 
カチンと来たが、いまは葉月の暴言にかまっている場合じゃない。 
ちなみに所沢から飯能に向かうには、2番ホームがある島のさらに線路を挟んだ隣の4番ホームか5番ホームから出る池袋線に乗ることになる。 
とりあえず、すべてのホームのベンチを見て回ることにした。ベンチに座っているのは年寄りや小さい子どもを連れた主婦らしき女性が多かった。岩澤の親父の姿はない。岩澤の親父には2年のときに一度会ったことがあるだけだが、顔を見ればわかるはずだ。
「岩澤の親父は下りか上りかはわからないけど西武新宿線でここまで来て、飯能行きの電車が出るホームに移動して、まだ電車が来てなかったからベンチに腰掛けたんだと思う。だから4番5番のホームで待っていよう」 
ホームにベンチは二か所あったのでケンジと葉月は別れて見張ることにした。 
岩澤の親父はなかなか現れなかった。その間、黄色い車体の電車が出たり入ったりした。
もしかしたら、ケンジたちが所沢駅に着いたのはすでに事件が起きた後だったのかもしれない。ケンジは絶望的な気持ちになってきた。 
もうそろそろ帰ろうと思い始めた頃、葉月が息を切らして走って来た。
「ねえ、ちょっと来て」そう言ってケンジの手をつかむ。 
ケンジは葉月に手を引っ張られてホームを走った。ボンタンを履いた地元の高校のツッパリ3人が座り込んでタバコを吸っていた。彼らの刺すような視線を無視して通り過ぎる。
「ほら、あのベンチの人」 
葉月が指差しているのは2番3番のホームがある島のさらに向こう側の1番ホームのベンチのようだった。背広を着た中年らしき男が腕を組んで座り込んでいる。横には青いショルダーバッグが置いてある。 
ここからは遠い上にうつむいているので顔ははっきりわからない。でも、岩澤の親父の可能性が高い。
「行ってみよう」 
階段を駆け上がって跨線橋を走った。1番ホームに降りていくと、ちょうど西武新宿線の下り電車が到着してドアが開いたところだった。中年男性が座っていたベンチには誰もいなかった。 
ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。
「どこ行った?」
「この電車に乗ったんじゃないの?」
「そうだとすると、さっきの男は岩澤の親父じゃないな」
飯能に帰るはずの岩澤の親父が西武新宿線の下り列車に乗るはずがない。
「あれ、あれは?」 
視界を遮っていた下り電車がいなくなり、ほかのホームが見渡せた。そしてすぐ隣の2番線ホームの目の前のベンチに今度こそ岩澤の親父が座っていた。
ケンジはその頭を見て思い出した。岩澤の親父は頭のてっぺんがきれいに禿げているのだ。だからさっきの男は岩澤の親父のはずはなかった。 
岩澤の親父はグレーのジャケットを着て腕を組み、舟をこいでいる。よほど酒を飲んだのだろう。顔が真っ赤だ。ベンチの傍らには黒いポーチが置いてあった。 
ちょうどそのとき、そのポーチをはさんだ反対側に岩澤の親父と同年代くらいのやせた男が浅く腰掛けた。黒いハンチングを被り、マスクをしたその男は、きょろきょろとあたりの様子を伺うと、そっと右手をポーチに伸ばした。
「やばい、あいつが犯人だ」
ケンジは跨線橋に向かって走り出した。あのベンチにたどり着くまでに三十秒くらいかかるだろうか。しかし三十秒あれば余裕で逃げられてしまうだろう。
「ドロボー! ドロボー!」 
背後で葉月の大声がした。驚いて2番ホームを見ると、黒いハンチングの男はあわてて手を引っ込めて逃げ出した。ホームにいた駅員と乗客が、何事かと走り去った男と葉月を交互に見ている。岩澤の親父は相変わらず舟をこいでいた。
「どうしようもないね、あのオジサン。あたしが起こしてくるよ」
葉月はゆっくりと跨線橋を上がって行った。 
葉月が岩澤の親父を起こして追い立てるように4番ホームに連れて行くのを、ケンジは1番ホームからニヤニヤしながら見ていた。
葉月がなにを言っているのかまでは聞こえなかったが、葉月は自分の父親と同世代のはずの岩澤の親父に散々説教しているようで、岩澤の親父は何度も頭を下げている。

「あそこで大声を出すという発想はなかったな」
本川越駅に戻る電車のシートに並んで座りながら、ケンジは葉月の機転をほめたたえた。
「で、岩澤の親父はなんだって?」
「あたしがもう少しでバッグを盗まれるところだったって言ったら、もう一生お酒は飲まないってしきりに反省してたよ」
「まあ、酒好きなあのオヤジにそれは無理だろうけどな」
「家に帰ったら岩澤ってヤツに電話してみなよ」
「いいよ、面倒くさいから。あいつの母親、話長いから電話したくないんだよね」
「そっか。家の電話だから親が出ちゃうんだ」
「当たり前じゃん」
「彼女に電話しづらいだろ?」
「彼女なんかいねえよ」
「ウソつけ」
隣に座っている葉月の顔に目を向けた。疑わしそうな目をしてケンジを見ている。一瞬恵かと思ったほど、顔が似ていた。結局男は同じようなタイプの女の子と仲良くなるということだろうか。
「いないもんはいないんだよ」
「モテないんだ、ケンジ」
肘でケンジの脇腹を突いてニヤニヤしている。
「まあな。だいたい俺、電話って好きじゃないんだ。だからあんまりかけない」
「ふーん。なんか新鮮かも、そういうの。それはそれで面倒がなくていいかもね」 
ガラガラの車両の隅の網棚に荷物が載っているのが目に入った。近づいて行き、手に取った。どうやら本の忘れ物らしい。都内の大手書店の紙袋だ。 
席に戻り本を取り出してみた。予想通り、キャンディーズの写真集だった。国井が失くした失くしたと騒いでいたものに違いない。
「どうやら、岩澤ばかりか国井も救っちゃったみたいだわ」


 第6話「ケンジ、サイテー!」 

その翌日は火縄銃の練習日だった。スタジオに行くと岩澤がいた。何事もなかったような顔をしてベースを肩から下げ、うつむいてチューニングをしている。 
ケンジは後からやって来た葉月と顔を見合わせ、ケンジは親指を立てて葉月はVサインをしてお互いをたたえあった。それに気づいた岩澤が「なにしてんだよ、お前ら?」と怪訝そうな顔をしたので、2人同時に吹き出した。
岩澤は葉月とは初対面のはずだが、前から知っている友だちみたいな態度で接している。 
すぐに国井と清水がやって来た。2人とも岩澤がいることに驚かない。葉月によると、歴史を改変した当事者だけが改変後も改変前のことを覚えていて、それ以外の第三者は改変後の世界しか知らないらしい。 
清水はギターケースを肩に担いでいた。どうやら岩澤の運命が変わった世界では、清水はベーシストではなくサイドギタリストになったようだった。
清水の火縄銃内での立場も結構危うい。パートをたらい回しにされている。本人は気づいてないけれど。 
清水がギターケースから出したのは、エクスプローラーだった。しかも驚いたことにコピー品ではなく、本物のギブソンだ。どんなに安くても二十万円は下るまい。
さすが歯医者の息子は金回りがいい。ただ、エクスプローラーはアメリカのギタリスト、リック・デリンジャーの印象が強すぎてパンクバンドには合わない気がしないでもないけれど。 
練習は「MY WAY」と「インスタLOVE」を中心に、あとはピストルズの曲を何曲か演奏した。清水には悪いけれど、やはり岩澤のベースのほうが断然いい。演奏が数段締まった感じだ。火縄銃がよみがえったようでケンジはうれしくなった。
「なんか、優勝できそうな気がしてきたよ」 
練習の後、無口な岩澤が珍しく強気の発言をしたので、ケンジたちは喫茶店で大いに盛り上がった。
「あ、忘れるところだった」 
葉月がバッグから本を出した。
「これ、国井君にあげるよ」
葉月から差し出されたキャンディーズの写真集を見た国井の喜びようったらなかった。国井は葉月に「どうもありがとうございます」と丁寧語でお礼を言った。 
喫茶店の前でみんなと別れ、人通りが少なくなった中央通りを自転車で飛ばした。両手をケンジの腰に回して身体を密着させている葉月の体温が背中越しに伝わってくる。
「昨日はありがとな。岩澤、元気になって良かったよ」
「うん、良かったよね。国井君も」
「やっぱりあいつも、俺から渡すより葉月から渡したほうが嬉しさ百倍だろうよ」
「身体、震えてたし」 
ふたりでしばらく笑った。
「疲れたか? 俺と二人でワープして」
「時代が近いから楽勝だと思ったんだけど、やっぱり慣れてないからか辛かったわ。三日間寝込んだよ。ここに来るエネルギーを蓄えるのに一か月かかったし」
「そうか。一か月ぶりか」 
どうりでまた大人っぽくなったはずだ。気のせいか背中に当たる胸もまた大きくなったような気がする。
「葉月さ、大変なのは重々わかっているんだけど・・・・」
「なに?」
「もう一回だけお願いできないかな」
「まじかよ?」
「いや、無理ならいいんだけど」
「いつの時代になにしに行きたいんだか言ってみなよ。内容次第で考えるから」
「やっぱいいや」
「なんだよそれ。よけい気になるじゃん」
葉月は両手でケンジのおなかをくすぐる。
「バカ、お前、やめろよ」 
自転車がふらついて倒れそうになり、あわてて足をついた。銀座通りのアーケードをくぐったところだった。
「じゃあ正直に言いなさい」
「わかったよ」
ケンジは再び自転車をこぎ出した。
「戻りたいのは去年の十月二十五日。旭高校の学園祭の日。前につき合っていた彼女に会いに行きたいんだよ」 

結局恵はオーストラリアから帰ってくるケンジを待っていてはくれなかった。それどころか、オーストラリアにいる間も音信がなかった。 
いや、最初のうちはしょうがなかった、と思う。ホームステイ先が急きょ変わったりしてバタバタしていたこともあり、ケンジ自身もしばらくは恵に手紙を書かなかった。でも、クリスマスカードは送ったし、年が明けてからも何回か手紙を書いた。しかし恵からはなんの音沙汰もなかった。 
そして3月に帰国すると恵はいなくなっていた。恵の自宅はちゃんとあり、両親もそこに住んでいるのに恵だけが煙のように消えていた。 
恵の家に電話しても、電話に出た母親は遠くの親戚の所に行ったと言うばかりで連絡先すら教えてくれない。恵の母親は家にまで押しかけたケンジに露骨に嫌な顔をした。なにがなんだかわけが分からなかった。 
清水によると、恵は秋の学園祭までは顔を出していたけれど、「遠くに行くことになった」とだけ言って顔を見せなくなったという。
こうして恵はケンジの前から姿を消した。まるで神隠しにあったみたいに。

「いなくなる直前の彼女に会って、なぜいなくなったんだか理由を聞きたいんだ」 
後ろに座る葉月はなにも言わない。もしかしたら、振られた彼女を追っかけ回す、未練がましい男だと思っているのかもしれない。
「理由を聞いたらすべて忘れるつもりなんだ」 
いつまでもずるずる引きずっている訳にはいかない、と思う。そのために葉月に負担をかけるのは間違っているかもしれないけれど。
「いいよ」
しばらくしてから葉月が小さな声で言った。
「無理しなくていいから」
「いいったら。いっそのこと今日このまま行っちゃおう」
「もう遅いからいいよ」
「時間を飛び越えるんだから、いまが何時だろうと関係ないって」
「そりゃあそうだろうけど、昨日も付き合ってもらったし」
「それ、あたしにとっては一か月前のことだし」
「そうだった」
「あたしもケンジがいつまでもそんなことを引きずってんの嫌だし」 
川越公園に着いた頃には日が完全に落ちていた。神社の手前で自転車を降りようとすると、葉月が「面倒だから自転車の二人乗りで行こ」と言う。
「無茶だろ、それ」
「大丈夫、大丈夫」
「危なくないのかよ?」
「平気だって。全速力で走って。ハンドルを放しちゃダメだよ」
そう言うと葉月はケンジの腰に回した腕にギュッと力を入れた。
「じゃあ遠慮なく」 
薄暗い参道を全速力で疾走する。
「イチキュウナナハチ、ジュウ、ニジュウゴ」葉月が後ろでつぶやくのが聞こえる。 
このまま行くと本殿に激突するかもと思ったところで視界がブラックアウトした。ものすごい強風にハンドルが取られそうになる。ケンジもケンジの腰にしがみついている葉月も身体が水平になり、自転車だけが重力の法則に従って、ケンジが必死に握りしめているハンドルを上にして縦になった。
「手がちぎれる〜」
あまりの痛さにケンジは悲鳴をあげた。
 次の瞬間、目の前に本殿があった。「ぶつかる~!」ケンジは再び悲鳴をあげてあわててブレーキをかけた。 
ブレーキは全然間に合わず、さいせん箱に激突してケンジは思いっきり放り出された。
「イタタタタ・・・・」
したたかに腰を打って、顔をしかめて立ち上がった。
時間はわからないが夜だった。さいせん箱の前に自転車が転がっている。しかし、葉月の姿がない。
もしかして、タイムワープの途中ではぐれたか。
ケンジがあわててキョロキョロしていると、「やっぱ、自転車でタイムワープするのは無謀かもね」と楽しそうな葉月の声が背後から聞こえた。振り返ると鳥居の下で葉月が立っていた。どうやら、タイムワープした瞬間に自転車から飛び降りたらしい。
「笑い事じゃねえよ。死ぬかと思ったわ」
「でも自転車に乗ってるほうがタイムワープ感あるっしょ?」
全然悪びれた様子がない葉月の態度にケンジはカチンと来たが、昔の彼女に会うためにタイムワープに付き合わせている手前、あまり文句は言えない。もしかしたら葉月も気分が悪いのかもしれなかった。
「それにしても肌寒いな。ジャケットを着て来れば良かった」
半袖Tシャツから伸びた腕をさする。葉月は長袖なのでちょうど良さそうだ。 
そのまま二人乗りで旭高校に向かった。
「自転車があって良かっただろ?」
葉月が得意げに言う。
「それにしても何月何日だろ? コンビニにでも入って聞いてみよっか」
「コンビニってなんだよ?」
「・・・・なんでもない。忘れて」 
人通りを見る限り、まだ遅い時間ではなく、宵の口といった雰囲気だ。旭高校の敷地を回り込んで正門を目指した。
校内はまだ生徒がたくさんいるようでざわついている。学園祭当日かもしれない。
「また、ドンピシャで10月25日に来たのかもしれないな」
「あたしって、タイムワープの才能があるのかも」 
正門に行くと旭高校の生徒たちが「くすのき祭」という学園祭の立て看板を動かしていた。しばらく見ていると設置しているところだった。ということは学園祭前日だ。
「残念でした。1日ずれてたわ。今日は10月24日だ」
でも、1日くらいならずれていても問題ない。自転車置き場に自転車を置いて軽音楽部の部室に向かった。軽音楽部は文化祭で毎年ライブをやっている。いまは軽音楽部のヤツらもみんな残って明日のライブの準備をしているはずだ。 
ケンジはいま、オーストラリアに行っていることになっている。だから、軽音楽部の仲間に会ったら面倒なことになる。でも、なんとか恵だけに会いたい。ケンジはいざとなったら、葉月に恵を呼び出してもらおうと思っていた。
「ちょっと様子を見てくるよ。ここで待っていてくれ、すぐ戻るから」
ケンジは部室がある校舎の横のプールが見渡せるベンチを指さした。そのあたりには人影がなかった。 
部室ばかりが入っている二階建ての校舎はまだ生徒がたくさん残っているらしく、明かりが灯ったあちこちの部屋から人声がする。 
軽音楽部の部室は一階の突き当たりだ。部室は防音になってないので、大きな音を出すことは出来ない。だからドラムセットは置いていない。
部員たちは軽く音合わせをしたり、ライブの打ち合わせをしたりするのに部室を利用し、本格的なバンド練習は栗原楽器のスタジオでやっている。 
部室に明かりが灯っていることは建物の外から確認していたが、人の気配がない。どこかに出かけているようだ。 
そっとドアノブを回した。鍵はかかっていない。ドアを開けるとやはり誰もいなかった。近所にメシでも食べに行ったのだろう。 
十畳ほどの小さな部屋だ。しかし、普段はギターアンプが2台とベースアンプ1台が置いてあるのが、すでにライブ会場の教室に運び終えた後らしく、すべて撤去されているので広々としている。
部屋の真ん中に木製の細長いテーブルがあり、それを囲むようにスチール製のイスが乱雑に置かれている。ケンジはテーブルの上を眺めた。相変わらず、音楽雑誌や譜面、ギターの弦の空き袋などで散らかっている。
いつ部員が戻ってくるかわからない。葉月を待たせているベンチで恵が現れるのを待ったほうが良さそうだ。
引き返そうと思ったそのとき、テーブルの隅に置かれたものが目に入った。 
サービスサイズの写真だ。手に取ると三十枚ほどあった。一番上の写真には軽音楽部の部員たちがソファに座ってくつろいでいる様子が写っていた。「1978.10.20」の日付が入っている。明らかに酔っ払っている表情のヤツがいる。どうやら、つい最近の飲み会の写真らしかった。
ケンジも部員の家に集まって何度か飲み会をしたことがあるので、別に驚かなかった。飲み会と言っても高校生のことなので、女の子はジュースを飲み、男も缶ビールを1、2本飲む程度のことだ。たまにはウイスキーを飲むこともあるが。
恵が写っているかもしれないと思い、写真をめくった。どうやら飲み会は小林の家で行われたらしかった。ケンジも一度行ったことがあるが、そのとき散々自慢されたデカいステレオセットが背後に写っている写真があった。 
写真をめくる手が止まった。恵が写っていた。恵はケンジと付き合っていた頃より髪が伸び、ずいぶん大人びて見えた。ケンジが見たことがない、ピッタリとしたベージュのセーターを着てソファに座っている。
そしてその隣に小林がいた。赤ら顔の小林は恵の肩に手を回し、もう一方の手で、カメラに向かってピースサインをしている。恵は嫌がるそぶりも見せずに笑いながら小林に身体を寄せていた。 
そういうことか・・・・。 
小林が恵に好意を寄せていることは、恵と付き合っていた頃から知っていた。きっと小林は、ケンジがオーストラリアに行っている間に恵にアプローチをしたのだろう。そして恵はそれに応えたのだろう。
その後、恵が消えてしまったということは、恵と小林の仲も長続きしなかったのだろうが、いずれにしてもケンジかオーストラリアに行っている間に、恵の気持ちがケンジから離れてしまっていたことには変わりはない。 
ケンジは思わず写真を二つに引き裂き、ゴミ箱に捨てた。 


薄暗いベンチに葉月の後姿が見えた。ぼんやりと夜空を見上げている。黙って隣に座った。
「彼女に会えたのか?」
「いや、いなかった」
「どうする?」
「もういいや」
「なんで? いなくなった理由がわからなくていいのかよ?」
「うん。まあ、わかったよ。彼女がいなくなった理由が。もう大丈夫」
「ホントにもういいのかよ?」
葉月がケンジの顔をのぞきこむ。
「ああ。これで吹っ切れたよ。付き合ってくれてありがとう。さ、来年に帰ろう」
「その前にちょっとトイレ行ってくる」
旭高校は男子校なので、女子トイレは職員室の近くにひとつあるだけだ。トイレに向かう葉月を見送り、プールに視線をうつした。 
プールの水面に月が揺れていた。大きくため息をついて、ベンチの背もたれに寄りかかり、手を頭の後ろで組んで夜空を仰いだ。
空には水面に映っていた満月が浮かんでいる。そのまま目をつむった。恵との思い出が蘇って来た。 
しばらくして唇になにかが触れた。驚いて目を開けて、もっと驚いた。目の前に恵の顔があった。
恵は優しい笑みを浮かべてケンジを見ている。
ケンジが恵を見つける前に、恵がケンジの姿を見つけてくれた・・・・。
あまりの嬉しさにケンジは恵を抱き寄せて再びくちびるを合わせた。
「ずっと探してたんだ・・・・会いたかったよ」耳元でささやく。
その瞬間、「ふざけんな」と言う怒声とともに突き飛ばされ、地面に尻もちをついた。
見ると、葉月が腕を組んで仁王立ちをしていた。
「お前、やけに早いな。トイレに行ったんじゃないのかよ?」
平静を装ったが、びっくりして声が震えているのが自分でもわかった。
「なんだよ、あのトイレ。クサイし穴は空いてるし、あんなヤバいところ入れる訳ないだろ?」
「トイレだから当たり前だろうが」
「トイレのことなんかどうでもいいって。いま、あたしのこと、前の彼女と勘違いしただろ?」
「してないって」
「なにが吹っ切れただよ。ケンジ、サイテー!」
言い訳のしようがなかった。尻もちをついていたケンジはそのまま正座になり、それこそ土下座をするように謝った。情けないにもほどがあるが、ほかの女の子と勘違いしてキスするなんて確かに最低だ。
しかし、月明かりに照らされた葉月は驚くほど恵に似ていたのだ。
「あたし、先に帰る」
葉月はそう言うと校門のほうに駆け出して行った。
「待ってくれよ。葉月に先に帰られたら、俺はどうやって帰ればいいんだよ」
ケンジはあわてて葉月の後を追いかけた。


第7話「ケンジはハーちゃんのこと好きなんだろ?」

「ケンジ、今日ヒマ?」 
扇風機に当たりながら家でごろごろしていると清水から電話が入った。まだ昼前だというのに、家のなかにいても汗が出る暑さだ。庭の柿の木にたかったアブラゼミの鳴き声が暑さに拍車をかけている。
「ああ、ヒマもヒマ、もろヒマだよ」 
今日は塾もなければバイトもない。葉月とは先日タイムワープしたときの「失言キス」で気まずくなっていて、会う予定もない。
「暑くてなにもする気にならん。涼みがてらインベーダーでもやりに行くか」 
ケンジがそう言うと、清水は「それより放送部の合宿に行かねえか? たまには積もる話でもしようや」と言った。 
ケンジも清水も所属しているのは軽音楽部で放送部とはなんの関係もないが、朝礼をさぼるときによく放送室を利用させてもらっていることもあり、放送部のヤツらとは仲が良かった。 
放送部は毎年夏休みに学校内にある宿泊施設で合宿をしている。合宿と言っても夜遅くまで雑談してこっそりお酒を飲んで、ということくらいしかしていない。放送部員は7人と少ないので、清水は賑やかしに誘われたらしい。 
夕方、自販機でビールを買い込んでバッグに詰めて高校に行くと、放送部のヤツらは珍しく放送室でなにやら録音をしていた。なにをやっているのかと聞くと、ディープ・パープルの「バーン」を、ボーカルはもちろん、ギターからドラム、キーボード、ベースまで全パートを口で再現して録音するのだという。 
面白そうなのでしばらく見ていたが、5人全員がマイクに向かって真剣にモゴモゴ歌っている姿があまりにもバカバカしく、「こいつらも旭高校の落ちこぼれグループだな」と確信して合宿所に向かった。 
合宿所の二十畳はある大部屋では、早くも清水がひとりでウイスキーのカティーサークを水道の水で割って飲んでいた。今日は腰をすえて飲むつもりらしい。 
しばらくは先日あった広栄女子高との合コンの話で盛り上がった。誰がいちばん可愛かったかというような話だ。 
合コンと言っても別に居酒屋で酒を飲むわけではない。旭高校か広栄女子高校、どちらかの教室でジュースとお菓子で盛り上がるだけだ。やることといえば、クイズ大会とかハンカチ落としといった他愛もない子どもじみたゲームだ。学校公認の、健全なリクレーションである。 
合コンでの女の子の目を意識したクラスメートの空回りぶりを散々笑った後、清水がポツリと言った。
「ケンジはハーちゃんのこと好きなんだろ?」 
清水の唐突な質問にケンジは言葉に詰まった。清水が葉月のことを好きなのはしばらく前から気づいていた。清水は2年前の高校1年の夏休みに、当時付き合っていた彼女とレッド・ツェッペリンの映画『狂熱のライブ』を新宿まで観に行った帰りに大ゲンカしてフラれた後は彼女はいない。経験済みみたいな口ぶりだが、恐らくまだ童貞のはずだ。 
清水と彼女のケンカは、清水が彼女の男友達のことを根掘り葉掘り聞いたことが原因らしい。清水は嫉妬深いところがあり、それが致命傷となった。デートの下見につき合ったケンジもガッカリした。 
放送部の連中はくだらない録音に熱中しているらしく、なかなか合宿所に姿を現さない。ケンジと清水はサシで飲み続け、ケンジは酔った清水の熱い恋愛論を延々と聞かされるハメになった。
清水は「恋愛もいいけど友情のほうが大事だ」と繰り返し言った。 
わかりやすいヤツだ。葉月のことを好きだけどケンジがいるから遠慮すると何度も言われているようなものだ。 
でも、ケンジは正直自分の気持ちがよく分からなかった。葉月には吹っ切れたと言ったものの、心の中ではまだ恵のことを引きずっていた。葉月が怒るのも当たり前だ。 


清水の熱い恋愛論を聞かされたせいか、その夜、恵が夢に出てきた。夢のなかで、恵は歩道橋の上から下にいるケンジを呼んでいた。原宿駅前の歩道橋らしかった。 
高1のとき、恵と初デートで渋谷に映画を観に行き、映画を観た後、原宿まで歩いたときに渡った歩道橋だ。歩道橋の上から手を振る恵を、親に借りたカメラで撮った。 
ケンジを呼ぶ恵の声が耳に残ったまま目が覚めた。 
真っ暗だった。一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、すぐに思い出した。夜遅く、清水のイビキがあまりにうるさくて布団部屋に避難したのだ。放送部のヤツらはケンジたちが寝るまで合宿所に顔を出さなかったが、いつの間に戻って来たのか、布団部屋に移動するときはみんな寝ていた。 
締め切っているからか蒸し暑い。パチパチという木がはぜるような音がする。なにやら焦げ臭い。ふすまの外が明るいのが隙間から見て取れた。 
火事だ。 
そう気づいたがすぐに身体が動かなかった。腰が抜けたようになっている。 
しばらくして、ふすまが勢いよく開いた。開いたふすまの向こう側はオレンジ一色だった。
その明かりをバックに黒い人影が立っていた。
「こんなところにいたの? 早く逃げなきゃ!」
切羽詰まった女の人の声だった。 
腕をつかまれ、引きずられるようにして布団部屋を出た。あたりは火の海だった。ケンジは足に力が入らず再びその場に座り込んだ。
「しっかりしなさい。男でしょ!」 
その女性の顔も火の明かりでオレンジ色に輝いている。二十代後半くらいだろうか。どこかで会ったことがあるような気がしたが、もちろんその年代の女性に知り合いなどいない。 
女性に導かれるままに裸足のまま校庭に出た。校庭には清水や放送部のヤツらが呆然と立ちすくんでいた。彼らもみな裸足だった。 
合宿所を振り返ると、夢の続きを見ているような信じられない光景が広がっていた。火の粉が空高く舞い上がり、建物全体が火に包まれている。遠くから消防車のサイレンが聞こえた。 


ケンジたちがもっとも心配したのは誰かのタバコの火の不始末が火事の原因ではないかということだった。しかし、ケンジたちが火の不始末について厳しく取り調べられる前に、電気系統の燃え方が激しいということで、漏電が原因ということになり命拾いした 
しかし、放送部員たちは無罪放免となったが、放送部員ではないケンジと清水は学校に無届けで泊まっていたので1週間の自宅謹慎を言い渡された。夏休み中の自宅謹慎なんか無視すればいいと思ったが、ちょうど夏休みを取っていた親父が珍しく激怒して自宅から一歩も出られなくなった。 
気の小さい親父にしてみれば、学校の火事に自分の息子がかかわっていたというだけで精神的に容量オーバーなのだろう。それを「けっ」とバカにして無視するという手もなくはなかったけれど、たまには定年間際の親父の顔を立ててやらなければと思い、家でおとなしくしていた。
謹慎3日目に親父の夏休みが終わったので、ケンジは自転車に乗って裏山に向かった。用心のため、キャップを目深にかぶった。 
東屋には誰もいなかった。ベンチに腰を下ろしてセブンスターをくわえ、旭高校を眺めた。 
校庭では野球部が練習していた。その向こうには全焼した合宿所の無残な姿が見える。自分には責任はないとはいえ、やはり胸が痛んだ。 
野球部員の掛け合う声に混じって、ツクツクボウシの鳴き声がしていた。 
1時間ほどいたが、葉月は現れなかった。まだケンジのことを怒っているのだろうか。あきらめて裏山を降り、おなかがすいたので焼きそば屋に入った。
大盛りを頼み、ついでにファンタグレープも注文する。 
扇風機が首を振っている。薄暗い店内から開け放たれた引き戸の外を見ると、強力な日の光のせいで露出オーバーな写真のように景色がぼやけて見えた。 
出てきたファンタを一口飲むと、ついため息が出た。 
どうもうまく行かない。日本中の高校3年生のなかで自分がいちばんくだらない夏休みを過ごしているような気がしてくる。 
葉月はもうこの時代に来るのを止めてしまったのではないか。ふとそんな考えが頭をよぎる。こんな不便な時代のこんなくだらない自分につき合っているのがバカバカしくなったのだ。 
一度その考えに取り憑かれてしまうともうダメだった。葉月には二度と会えない。再び葉月に会うにはあと二十年待たなければならない。しかも二十年待っても葉月はまだ赤ん坊なのだ・・・・。 
出された焼きそばに手をつける気にならずにぼんやり外を見ていた。

入口にぶら下げられた風鈴がチリンと鳴った。 
そのとき、女の子が視界を横切った。葉月に似ていた。ケンジはあわてて店を飛び出し、離れていく女の子の背中に向かって大声で名前を呼んだ。
振り返った女の子はずいぶん大人びていたがやはり葉月だった。
「なにしてんだよ」
「ケンジこそ、この2日間なにしてたんだよ!」
大人びてはいるが口を開けばいつもの葉月だったので安心した。
「大変なことがあってさ」
「おい、焼きそばどうすんだよ!」 
店のじいさんに肩をつかまれた。


「ちょうどおなかがすいてたんだ。これですべて水に流してやるよ」 
葉月はそう言うとケンジが頼んだ焼きそばを勝手に頬張った。焼きそばの大盛りで、葉月はケンジの「失言キス」を許してくれたようだった。
「なんかさ、葉月また大きくなってねえか?」
くつろいだ気分で葉月に聞いた。 
この前会ったのが4日前だから、その間、葉月の時間は40日過ぎたことになる。
「あ、あたし高3になったよ。ついにケンジと同級生」
「ホントかよ。もうすぐ追い抜かれるじゃん」
ケンジは妙な焦りを覚える。
「で、大変なことってなにがあったんだよ?」
「学校で火事があってさ。合宿所が全焼しちゃって。で、そこに本当はいてはいけない俺と清水がいたもんだから、1週間の自宅謹慎になっちまったんだわ」 
葉月の箸が止まった。焼きそばを頬張ったままポカンとした顔でケンジを見ている。
「なんだ? どうした?」
「ケンジもあの火事のときに合宿所にいたの?」
「なんだ、火事のこと知ってたのか」
「あの日は放送部の合宿だったって聞いたけど」
「そうなんだけどさ、俺と清水はスペシャルゲストだったんだわ」
「マジかよ・・・・」
葉月は深刻な顔をしている。
「なんだよ、どうしたんだよ?」
「ねえ、火事のとき誰かに会わなかった?」
「誰かって誰だよ?」
「女の人」 
いまのいままですっかり忘れていた。確かにあの夜、ケンジは二十代くらいの女性に助けてもらったのだ。ケンジだけではない。清水も放送部のヤツらも、あの女性に起こされなかったら逃げ遅れるところだったと言っていた。しかし、消防車が到着したときには、その女性は姿を消していた。
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「3か月もずれちゃったけど、あたし、実は火事の日に来るつもりだったんだ。火事のときに合宿所にいた生徒のなかにあたしのお父さんがいるはずなんだ」
「本当かよ?」
葉月はうなずいた。
「3日前の火事の夜、校庭の隅で様子を伺っていたら、消防車の人たちが放送部の生徒だって言っているのが聞こえたんだ。それでこの2日間、ずっと放送部員のことを調べてたんだよ。でも、夏休みだからわかんなくてさ。ケンジもいないし」 
葉月はそこで箸を置き、泣き顔になった。
「ちょっとちょっと、話がまったく見えないんだけど。なんで火事のときに合宿所にいた生徒のなかに父親がいるってわかるんだ? 順を追って話してくれるか」
ケンジは奥に向かって大声を上げた。
「ファンタオレンジ2つ!」
「1つはグレープで」
葉月が訂正した。 


葉月が十一歳のときのことだと言う。彼女は当時、旭高校の近くにある初雁小学校に通っていた。 
その日は9月1日の防災の日で、初雁小学校では防災訓練が行われた。防災訓練の後、全校生徒が校庭に集められた。そこであいさつをした校長は三十一年前にあった旭高校の火事のことを話した。
「合宿中だった7人の生徒が逃げ遅れて亡くなるという痛ましい事故でした。皆さんも火事には十分気をつけてください」 
そのことを家に帰ってから話すと母親は絶句したらしい。そして「図書館に行きたい」と言い出した母親につき合ってクルマで出かけた。 
図書館に着くと葉月の母親はすぐに図書館員に過去の新聞が見たいと言って三十一年前の縮刷版を出してもらった。 
母親が旭高校の火事の記事を探しているのは明らかだった。葉月はしばらく図書館の本を見て回ってから再び母親のところに戻った。 
母親は縮刷版に目を落としたまま真っ青な顔をしていた。葉月がのぞいてみるとそこには「高校生、火の海に」の大見出しとともに7人の旭高生の顔写真が並んでいた。 
家に帰ると母親は葉月だけクルマから降ろし、「ちょっと出かけてくる」と言ってそのままクルマで出かけて行った。もう夕方の5時を回っていたが、葉月は母親にどこに行くのか聞いてはいけない気がして黙っていた。 
母親はしばらく帰って来ないだろう。葉月は漠然とそんな予感がした。しかし、葉月が靴を脱ぎ、リビングに入って十分もしないうちに車庫のほうでクルマのエンジン音がして母親が帰って来た。
忘れ物でもしたのだろうと思ったが、リビングに入ってきた母親は、「くたびれたのでちょっと横になる」とだけ言って自室に入ってしまった。確かに母親はグッタリしていた。わずか十分の間に何をすればこんなに疲労困ぱいするのか、葉月にはまったく理解出来なかった。  
一時間ほどして自室から出てきた母親に、葉月はどこに行ったのか聞いたという。しかし母親は「買い物に行っただけだ」と言うばかりだった。
明らかに嘘をついている。幼い葉月はそう思った。
「お母さんがその日どこに行ったのか、ずっとわからなかったんだけれど、十五歳になっておばあちゃんに特殊な能力のことを聞いてピンと来たんだ。お母さんはあの日、1979年に行ったんだろうって。火事で死んだ生徒を助けに行ったんだよ」 
そこまで行って葉月はファンタグレープをひと口飲んだ。
「お母さん、わざわざ時を超えて火事の中に飛び込んで行ったんだ。一歩間違えたら自分が死んじゃうかもしれないのに。それでも助けたかったのは、それだけお母さんにとって大切な人だったということだろ? きっとあたしのお父さんになる人に間違いないよ」 
葉月の母親は葉月をひとりで産んでひとりで育ててきた。家には葉月の父親の写真はおろか、父親がいた痕跡がまったくなかった。そして、母親は決して葉月に父親のことを話そうとしない。
葉月がつかんだ父親の唯一の手がかり、それが旭高校の火事だったのだ。
「計算してみたらお母さんと同い年だといま高3になるんだよ。間違いないと思うんだ」 
火事の夜に合宿所にいたのは放送部員とケンジと清水で合計9人だ。死んで新聞に載った7人はそのうち誰だろう。
「なあ、俺は新聞に載ってたか」 
ケンジが恐る恐る聞くと、葉月は「わかんない」と首を振った。
「ネットで検索してみたんだけど載ってなくてさ」
「ちょっと待った。ネットってなんだよ」
「ネットはネットだよ。あらゆる情報を検索できるんだ」
「それだけじゃわかんねーって」
「わかんなくてもいいよ。いまはそれどころじゃないって」 
ケンジはカチンと来たけど黙っていた。
「ネットで見つからないから図書館に行ったんだ。4年前にお母さんと一緒に行った図書館」
「それで?」
「なかなか見つからなくてさ。ようやく見つけたのが地方版に載ったわずか7行の記事。旭高校で火事があったけど誰も死んでないしケガ人もいなかったって」 
その記事ならケンジも家で取っている新聞で昨日読んだ。
「当然生徒の写真も名前もなし。だから自分で探すしかないと思ってこの時代に来たんだ。3か月もずれちゃったけどね」
葉月がこの時代にやって来た理由がようやくわかった。
「でもさ、火事のこと知ってたんだったら事前に教えろよ。ひでえヤツだな。おかげで危うく死ぬところだったんだぞ」
「でも助かるってわかってたし。だいたい歴史の改変は2回は出来ないの。すでにお母さんが改変したものを私がさらに改変することは不可能なんだよ」
「また頭痛くなってきた。話が訳わからなすぎだわ」
「だから、火事のときケンジがあった女の人・・・・」
「誰だよ?」 
葉月は心底呆れたといった顔でケンジを見た。
「ここまで説明してるのにまだわかんないの?」
「悪かったなバカで」
「だからあたしのお母さんだって」
「ありえないわ」
「なんでよ?」
「葉月のお母さんにしちゃ若すぎだよ。いくつだ? 葉月のお母さんって」
「いまは五十五歳だけど、火事でケンジが会ったのは四十九歳のときのお母さんだよ」
「俺が会ったのはどう見ても二十代だったぜ」
「ケンジの時代の四十代とあたしの時代の四十代じゃあ、全然違うんだよ。それにあたしのお母さん、異様に若く見えるんだよね。二十代に見えてもおかしくないよ」 
葉月はそう言うと、コップに残ったファンタを飲み干した。
「それにしても、ケンジがいたとはビックリだな。もしかして・・・・」
葉月はケンジを上目づかいで見る。
「なんだよ?」
ケンジも残りのファンタを飲んだ。
「もしかしてケンジ、あたしのお父さんとか?」 
思わずファンタを噴き出した。
「なにバカなこと言ってんだよ」
「だって、可能性はゼロじゃないし」
「ありえないわ。そもそもさ、自分の父親を探したければ自分が生まれた時代に戻るほうが簡単じゃん」
「そうなんだけどさ。あたし、おばあちゃんに特殊な能力のことを聞いてすぐに1998年に行ってみたんだよ。ほら、あたし1999年生まれだから、その前の年ならふたりで仲良くやっていると思ってさ」
「いたのか?」 
葉月は首を振った。
「お父さんどころか、お母さんもいなかったんだ。どこにも」


第8話「お母さん・・・・」葉月は写真を見ながら静かにつぶやいた

家に戻ると母親も妹もまだ帰宅していなかった。母親は最近パートに出始め、妹も外出しがちなこともあり、昼間自宅にいるのは最近ちょっとボケ始めたばあちゃんとケンジだけ、というパターンが多い。 
そのばあちゃんは自室に引っ込んだままだ。自宅謹慎を破って外出したことがバレなくてすんだ。 
ケンジは階段を上がって自室に入り、ベッドに寝転んだ。 
火事で死ぬはずだった7人のなかに果たして自分は入っていたのだろうか。もし入っていたのなら、ケンジは葉月の母親のおかげで九死に一生を得たということになる。 
火の海のなか、ケンジの手を引っ張って助けてくれた女の人の面影が浮かんだ。会ったことはないけれど、どこか懐かしい感じのする人だった。握られた手の感触をありありと思い出す。 
葉月の母親は誰を助けに三十一年の時を超えてやって来たのだろう。葉月は母親が自分の父親を助けに行ったと信じている。そうだとすると、あの日火事で死ぬはずだった7人のうちの誰かが将来葉月の母親と結婚して、葉月が二十年後に生まれるということになる。
でも・・・・。
どこが変なのかはわからないが、「お母さんはお父さんを助けに行ったはず」という葉月の話にはどこか無理があるような気がしてならない。どこか根本的に理屈が破綻しているような気がする。でも、それがどこかはわからない。 


思いを巡らせているうちに眠ってしまったらしい。目を開けると部屋は真っ暗だった。みんな帰って来たらしく、階下からざわついた音がする。 
下に降りて行くと、すでに台所のテーブルに母、祖母、妹がついていた。隣の居間からはテレビのナイター中継の音が聞こえる。もう親父も帰っているようだった。
「ようやく降りてきた」
妹が言う。
今年中3の妹はケンジを1ミリも尊敬していない生意気な女だ。
「何度も呼んだんだよ」と母親。
「ああ」
ケンジはそれだけ言って席につき、箸を取る。 
夏だというのにすき焼きだ。すき焼き好きの親父のリクエストだろう。 
しかしケンジの家の場合、すき焼きと言っても経済的な理由から肉は豚肉だ。しかもすき焼きの鍋は親父が食べている居間にあり、台所にいる4人は取り皿に分けられたものを食べるだけなので食卓は華やかさがまったくない。 
ふすまを通して親父が巨人の文句を言っているのが聞こえる。今年はBクラス確定らしいのでナイターを見ているときの親父は機嫌が悪い。 
嫌いな脂身を箸で切り取ってから豚肉を口に放り込む。
「そうだ!」 
母、祖母、妹が顔を上げて声を上げたケンジを見た。突然、葉月の話のどこに無理があるのかわかったのだ。
「なによ、大きな声を出して」
母親が不思議そうな顔をする。
「いや、別に」
ケンジは豚肉よりも好きな白滝に箸を伸ばした。
母親の隣の席で、妹が人差し指を頭に向けて差すのが見えた。とうとう頭がおかしくなったとでも言いたいのだろう。 
当時十一歳だった葉月の父親の命を三十一年前の火事で救うというのはどう考えても理屈が合わない。火事の二十年後に二人の間に葉月ができたとしても、そもそも改変する前の歴史ではその父親は死んでいるわけだから、葉月が既に存在していたこと自体が矛盾しているのだ。 
もともと存在しなかった葉月がその男の命を救うことによって現れた、というなら話はわかるが、その男が火事で死んだ世界、救われた世界、両方に変わらず葉月が存在するなんてことはありえない。 
そうであるからには結論はひとつしかない。あの火事で死ぬ運命にあった生徒に、将来葉月の父親になるヤツはいないということだ。
「ケンちゃんは今日どこに行ってたんだい?」
ばあちゃんが突然大きな声でケンジに話しかけてきて、その場の雰囲気がさっと張りつめた。
「なに言ってんだよばあちゃん。俺は自宅謹慎中なんだよ。どこにも・・・・」
「ケンジ!」
隣室で親父が怒鳴った。 
やはり巨人の不調のせいで怒りが二割増しになっている。
「ごちそうさま」
ケンジは箸を置いて逃げるように二階に駆け上がった。


EAST WESTは1週間後だ。葉月の母親のことも気になるが、コンテストのことも気になる。
翌日、ケンジは裏山の東屋でギターを弾きながら葉月を待った。 
葉月がやって来るとしばらく二人で練習した。 
今日の葉月はスリムのブルージーンズに白いTシャツというラフなスタイルだ。
一息つこうと、ギターをベンチに立てかけてセブンスターに火をつけた。
「ねえ、そのギターってなんて言うの?」
「ストラトキャスターだよ。まあ、本物じゃなくてコピーモデルだけど」
「ちょっと弾いてみていい?」
「ああ、いいよ」 
ケンジは葉月にギターを渡して「ところで火事のことなんだけどさ」と、火事で死んだ生徒のなかに葉月の父親はいないということを説明した。 
葉月は適当に弦を鳴らしながら黙ってケンジの話を聞いていたが、突然「あっ」と大声を上げた。ストラトキャスターの裏側を見て目をむいている。
「どうした?」
「この絵・・・・」 
葉月が何のことを言っているのかすぐにわかった。白いストラトキャスターの裏には、薄くなってはいるが落書きがあった。以前恵がふざけてマジックで描いたもので、つばの広い帽子をかぶった女の子がピアノを弾いている絵だ。恵はその女の子の絵を描くのが好きで、自分のノートにもケンジに送ってくる年賀状にも描いていた。
「その絵がどうした?」
「あたしが小さい頃、お母さんがよく描いてくれた絵にそっくりだ」
「まあ、女の子って女の子の絵を描くのが好きなんだろうな」
「これ、誰が描いたの?」
「友だちだよ」
「友だちって前の彼女?」
「まあな」
「失言キス」の一件があるので、ケンジはバツが悪くなった。
「前の彼女って、なんて言う名前?」
「いいじゃん、名前なんか」
「いいから教えろよ!」
葉月が大声を上げた。
「なに興奮してんだよ・・・・杉沢恵って言うんだよ」
「マジ?」
葉月はもともと大きな目をさらに大きくして右手で口元を覆った。
「ああ本当だよ。それがどうした?」
「あたしのお母さんと同じ名前なんだけど」
「本当かよ」
今度はケンジが驚く番だった。
「葉月って杉沢っていう名字だっけ?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「初めて聞いた」 
2人ともしばらく言葉がなかった。
「じゃあ、ケンジがあたしのお父さんってこと?」
しばらくして葉月がポツリとつぶやいた。
「だからそれはないって、さっき言ったろ?」
「・・・・」
葉月はぼんやりとした顔をしてストラトの裏に描かれた絵を見ている。
「同姓同名の別人という可能性だってあるだろ?」
「前カノの写真って持ってる?」
「マエカノってなんだよ?」
「前の彼女のことだよ」
「一枚だけ」
恵の写真はほとんど燃やしてしまったけれど、どうしても全部燃やす気になれずに一枚だけ取っていた。
「見せて」
「家にあるから今度持ってくるよ」
「いまから行っていい?」
「ホントかよ」
葉月の顔をみるといつになく真剣な表情だった。
 
ケンジは葉月を荷台に乗せて家に帰った。自転車に乗っている間、二人ともひと言もしゃべらなかった。 
玄関をそっと開けてなかに入ると、間の悪いことに上がりかまちを上がってすぐ左にある洗面所のドアが開いてばあちゃんが出てきた。
「あ、ただいま」 
ばあちゃんはそれには応えず、ケンジの後ろにいる葉月をじっと見ている。葉月は小さい声で「こんちは」と言って頭を下げたが、ばあちゃんは葉月を見つめたままだ。
気まずい雰囲気が流れる。
「この子はただの友だちだよ」
ケンジが言い訳がましく言う。
「よく来たねえ」
ばあちゃんは突然大声を上げて足袋のままたたきに降りてきて、葉月の手を両手で握りしめた。 
訳が分からない大げさなリアクションだ。ボケが進行しているのかもしれない。葉月は戸惑い顔でケンジのほうを見た。
「お菓子とかなにもいらないから」 
ケンジはばあちゃんの手を葉月から放して二階の自室に葉月を連れて行った。 
引き出しの奥から写真を取り出して、黙って葉月に渡した。原宿の歩道橋で撮った写真だ。恵はカメラ目線で微笑んでいる。
「お母さん・・・・」
葉月は写真を見ながら静かにつぶやいた。


第9話「二十世紀が居心地いいのは、自分はみんなとは違うんだとあたしがきちんと意識してるからなんだよね」 

薄暗い道を自転車の二人乗りで、葉月を川越公園まで送って行った。 
ケンジの頭のなかは大混乱に陥っていた。煙のように消えてしまった恵が、はるか彼方の二十一世紀にいるというのだ。混乱しないほうがおかしい。
「恵はどうやって暮らしてるんだ?」
「ピアノ教室やってるよ、栗原楽器で」 
驚いた。火縄銃が練習で使っているスタジオだ。
「お母さん、結局昔の彼氏のケンジを助けに行ったというだけで、あたしのお父さんを助けに行った訳じゃなかったのかな」 
自転車の後ろで葉月がつぶやく。ケンジは応えようがなった。
「いまから二十年後に2人が再会してあたしが産まれるとか」
「その可能性はないってさっき説明したろ?」
「じゃあケンジはあたしのお父さんじゃないってことで、いいんだよね?」
「当たり前だよ。間違いないわ」 
葉月はケンジの腰に回した腕を強く締めて「良かった」とため息をついた。
自転車の前輪に付いた発電機のスイッチを足で押す。途端にペダルが重くなり、アスファルトをライトが照らした。ケンジはペダルを強く漕いだ。道沿いに建つ長屋の軒先をコウモリがかすめ飛んで行く。 


川越公園の広場では盆踊りをやっていた。櫓の上では半裸になった若者が太鼓を打ち鳴らし、ぼんやり灯った提灯の下では流れる曲に合わせて沢山の人たちが身体を動かしている。
「なにこれ・・・・」
葉月は自転車の後ろで驚いた声を出す。
「盆踊りだよ。お盆の時期に死者を供養するためにみんなで踊るんだ。葉月の時代にはないのか?」
「見たことない」 
自転車を降りてしばらく眺めた。 
櫓を中心にして内側の輪はそろいの浴衣を着たおばさんたちが踊っている。みんな上手い。きちんと練習しているのだろう。対して外側の輪はそれこそ老若男女が入り乱れて踊っている。上手い人もいれば、まるでトンチンカンな動きをしているオッサンもいる。みんな笑顔だ。
「なんだか楽しそう」 
ケンジは提灯の明かりに照らされた葉月の顔を盗み見た。すごく綺麗だった。 
そして・・・・やはり恵に似ていた。 
曲が変わった。「二十一世紀音頭」だ。この曲なら幼い頃よく踊った。多分いまでも身体が覚えているだろう。輝かしい二十一世紀を待ち望む、二十世紀のカップルの歌だ。
「踊るか?」
「うん」 
葉月の手を引いて輪のなかに入り、手足を動かす。
「こりゃあ、パンクじゃないにもほどがあるな」
ケンジは身体を動かしながら大声で葉月に言う。
「でも楽しい」
葉月はケンジの隣で無邪気に笑いながら見よう見まねで手を突き出したりしている。

〈二十一世紀の夜明けは近い♪〉

サビの部分でクルッと回って手拍子を打った。 
二十一世紀で恵は幸せに暮らしているのだろうか。たまにはケンジのことを思い出すことがあるのだろうか。
「葉月って二十一世紀でなにやってんだよ?」
隣で踊る葉月に、流れる音楽に負けないよう大声で話しかけた。
「なにって、女子高生してるけど」
葉月も大声で応える。
「そうじゃなくてさ。俺たちみたいにバンドやってるとかスポーツしてるとかさ」 
ケンジが聞くと葉月は顔を曇らせて「なんもしてない」と言った。 
浴衣を着た小学3年生くらいの女の子がふたり、笑い合いながらケンジの前で輪に加わった。
「あたしさ、学校で仲がいい友だちがいなくてさ。ほら、お父さんいないし、ちょっと変わってるっていうんで、クラスで浮いてるんだよ。だから、なんとかみんなに合わせようとして頑張ってたんだ。ライン来たら即レスするし、カラオケ誘われたらそんな気分じゃなくても絶対断らなかったし」 
内側の輪で踊っているおばさんが、大声を出して踊っている葉月を不思議そうな顔をして見た。
ケンジは「ライン」とか「即レス」とか、わからない言葉がたくさんあったが、黙って葉月の言うことを聞いていた。
「毎日、超つらくてさ。でも、二十世紀に来たら居心地いいんだよね。すっごく不便で、すっごく面倒くさい時代なのに、みんなとバンドやってたら楽しくて楽しくて」 
ケンジは葉月に笑顔を向けた。
「あ、ケンジ、二十一世紀より二十世紀のほうか素晴らしいって、あたしが思っていると勘違いしてんだろ? 全然違うし」
葉月はケンジをバカにするように舌をちょろっと出した。
「二十世紀が居心地いいのは、自分はみんなとは違うんだとあたしがきちんと意識してるからなんだよね。二十一世紀のあたしは二十世紀のみんなに無理に合わせることはないって。だから逆に共通点が見つかって仲良くなれたんだ」
「なんとなく、わかる気がするわ」
「だろ?」
「でも、みんなに合わせようとする葉月っていうのを見てみたいもんだ。想像できん」
ケンジが茶々を入れる。
「やーだーよ」
メロディをつけたような言い方をして葉月が笑う。
「でも、二十一世紀の人間と二十世紀の人間が違うのは当然だけど、二十一世紀の人間同士だって二十世紀の人間同士だって違うんだよね。それを意識しながら付き合っていけばいいんだって気がついたら、すげー楽になったよ」 
そう言うと、葉月は右手を夜空に向かって高く突き上げた。

「とりあえずは1週間後のEAST WESTだよ、ケンジ。すべてはその後考えよ。あたし、もっと練習しとくからね」
葉月は自分に言い聞かせるように言うと鳥居に向かって走り出した。 
葉月はケンジの子どもじゃない。でも・・・・。ケンジはそのことを否定しきれない、もうひとつの可能性に踊りながら思い至ってしまっていた。
「葉月! ちょっと待てよ。葉月ったら!」
ケンジは葉月を追いかけた。 
葉月は走りながらケンジのほうを振り向いてあわてて立ち止まった。鳥居の一歩手前だ。
「こんなときに話しかけんなよ! 変な時代に行っちゃったらどうすんだよ!」 
ケンジは葉月に走り寄った。
「葉月さ、恵はいま五十五歳だって言ってたよな。あれ、本当に本当なのか?」
「本当だって。あたし、お母さんの住民票見たことあるもん」
「そうじゃなくてさ。生年月日は間違いなくても生きてきた年月の長さが違うという可能性だってあるだろう?」
「うーん」
葉月はしばらく考え込んでいたが、「もう今日は疲れたよ。明日にしない?」と言った。
「ああ。そうだな」
実際ケンジも疲れていた。
鳥居の横に立ち、ワープする葉月を見送った。


ひとりになったケンジは目の前にある神社を見上げた。盆踊りも終わり、周囲からは虫の声が聞こえてくるばかりだ。夜空には天の川が広がっていた。 
恵の自宅はここから本川越駅の方向に歩いて5分くらいのところにある。 
ケンジは恵の口からこの神社のことを一度も聞いたことはなかった。しかし、葉月の母親が恵なら、恵もこの神社の神主の一族で、一人っ子だった彼女にも当然タイムワープの能力が備わっていたはずだ。 
オーストラリアから帰国したら煙のようにいなくなっていた恵。その行き先がようやく見えてきた気がした。


第10話「しっかりしてよ、お父さん!」 
 
翌日の午前中は火縄銃の練習日だった。EAST WESTを前にした最後の練習だ。 
演奏の準備をしていると、葉月が5分ほど遅れてスタジオに入って来た。その姿を見て、野郎どもはみんな歓声を上げた。
ジョニー・ロットンの顔がプリントされた長袖の白いTシャツにエナメルの黒いミニスカ、赤いピンヒールという出で立ちだ。Tシャツにはところどころ安全ピンがさしてある。髪はショートカットにして、ディップローションを塗っているのかバッチリ立っていた。薄く化粧もしているようだった。
「最後の練習だから本番に近いスタイルがいいと思って」
葉月は珍しくはにかんで頬を赤らめた。
「ジョニー・ロットンのTシャツなんて、葉月の家のほうでも売ってるのか?」
ケンジが聞いた。みんなの前で「葉月の時代」と言うわけにはいかない。
「売ってた売ってた。シド・ヴィシャスのもあったよ」 
セックス・ピストルズの栄光は二十一世紀になっても忘れられることはないのか。ケンジは自分のことのように嬉しくなった。再結成されたオヤジピストルズはともかくとして。
「国井! ハーちゃんを見習って国井も早くパンクっぽくスリムのGパンにしろよ。ベルボトムはダサ過ぎだわ」
清水が国井に突っ込む。国井は火縄銃のメンバーがみんなスリムを履いているなかで、唯一裾が広がっているベルボトムのブルージーンズを履いている。
国井は火縄銃の前は清水とツェッペリンのコピーバンドを組んでいた。ツェッペリンならベルボトムでも問題ない。でも、路線変更したパンクだとしんどい。 
そのことは国井も重々わかってはいるのだ。でも先立つものがないからどうしようもない。そんな事情をわかっているのに、清水はたまにデリカシーのないことを言う。
「なんだかすごいセクシーだよね」
無口な岩澤が葉月を見てしみじみと言った。ベルボトムの話題から変えようとしたのだろう。岩澤にはそういうさり気ない優しさがあった。 
実際、岩澤の言うように葉月は見違えるほど大人びて見えた。胸の膨らみもミニスカから伸びた長い脚もやたらとセクシーで、男たちは目のやり場に困った。
葉月は見た目だけじゃなかった。ずいぶん練習してきたみたいで、抜群に歌がうまくなっている。
「正直、最初はバカにしてたんだけどさ。ダサい音楽だって。でも、やっているうちにどんどんはまっちゃったよ。ヤバいよね、ピストルズ」
葉月が笑う。
「ヤバい」の使い方が変だけど、ピストルズを絶賛しているようなのでケンジも嬉しかった。
 葉月はバッチリと衣装を決めたせいで興奮しているのか、飛び跳ねて歌い、歌の合間にケンジたちをスマホで撮影したりしている。
その動きはパンクというよりアイドルみたいで、ケンジは少し不満だったけれど、葉月が楽しそうなので、好きにさせることにした。
「こりゃ、もしかしたら全国大会まで行けちゃうかもな」
国井がはしゃいで言う。 
来週のコンテストは川越ブロックの予選会だ。それに優勝したら埼玉ブロック大会、そしてそれに優勝したら全国大会に進む。そして全国優勝したらプロデビューが約束されている。
「そこまで行ったら浪人決定だよ」
岩澤の言葉にみんなゲラゲラ笑う。 


その日はみんな用事があるというので、練習の後はすぐに解散になった。ケンジはおなかがすいたと言う葉月を自転車の後ろに乗せて昼飯を食べに行くことにした。恵について決着をつける必要もあった。 
二人乗りして、人通りの多い中央通りを人を避けながら走る。
「それにしてもずいぶん練習しただろ? ボーカル、完璧だよ」
「実は自分的に完璧に納得できるまで二十世紀に戻って来ないって決めて練習してたら、半年以上かかっちゃったんだよね」
「半年だと? すごいな。そんなに練習してたんだ?」 
道理で見違えるほど大人びているわけだ。
「おじいちゃん、おばあちゃんが立て続けに死んじゃって、バタバタしてたってこともあるんだけど」
沈んだ声でつけ加えた。
「そうか・・・・それは大変だったな」 
恵がもう親を見送る状況になっていることに改めて驚く。
「おかげでケンジよりちょっと年上になっちゃった」
「本当かよ?」
「うん。いま高3の2学期だし」
このまま葉月と会っていたら、葉月はどんどん年上になって行くのだ。世紀をまたいでいるから仕方がないとはいえ、なんだか理不尽だ。

「死ぬ前におばあちゃんから聞いたんだけど・・・・」 
市役所の近くにある喫茶店はランチ目当ての市役所の職員で混雑していた。TシャツにGパンのケンジはともかく、パンクファッションに身を包んだ女子高生の葉月は明らかに浮いている。
「おばあちゃん、お母さんと一緒にタイムワープしたことがあるんだって」
「ふーん。どこに行ったんだって?」
「旭高校。火事の夜だって」
「なんだ、恵が一人で来たわけじゃなかったんだ?」
「あたしもおばあちゃんの話を聞くまで、一人で行ったんだと思い込んでたよ。おばあちゃん、そのときはすでに七十過ぎててタイムワープは体力的に辛かったんだけど、お母さんにどうしてもって頼まれたんだって」
「恵だってタイムワープできるはずだろ?」
「ケンジ、最後に会ったときに言ってたこと覚えてる? あ、ケンジには昨日のことだから忘れるわけないよね。お母さん、年齢と生きて来た年月の長さが違うんじゃないかって言ってたよね」
「ああ」 
恵は実際の年齢より若く見えるのではなく、本当に若いのではないか。火事のときに一瞬会っただけだけど、ケンジにはそう思えてならなかった。
「おばあちゃんの話を聞いてすべてが繋がったよ。お母さん、タイムワープして二十一世紀に来たんだ。そしてそのまま暮らしているから、もうタイムワープする能力がないんだよ」 
そこに食事が運ばれて来た。ケンジはハンバーグステーキ、葉月はナポリタンだ。
「ねえケンジ、バブル時代って知ってる?」
葉月はフォークを器用に使いながら言う。
「バブル時代? バブルって泡だよな。ということは泡の時代か?」
「まあ、知ってるわけないよね。これから先の時代なんだから」
「なんだよそれ?」
「あたしもよく知らないんだけど、お金があふれていて、日本中みんな浮かれていた時代があったんだよ。土地の値段とか株がガンガン上がってさ。えーっと、1980年代後半から1990年代頭くらいのことだったかな」
「なんだか楽しそうな時代だな」
「どうなんだろうね。結局、泡と言うだけあってすべてが弾けて、土地の値段も株も暴落してひどい目に遭う人がたくさんいたみたいだし。大体、当時の映像を見るとバカみたいだよ」
「お札が舞うなか、沢山の人が踊っているような映像か?」
「ほとんどそのまんまだよ」
葉月が笑う。 
ケンジはナイフでハンバーグを切り、フォークで口に運んだ。
「で、そのバブルの時代がどうしたんだよ」
「前にさ、その時代の映像を観た後でお母さんに聞いたんだよね。バブル時代はなにしてたのかって。そうしたらさ、さっきのケンジと同じ反応をしたんだ」
「同じ反応って?」
「『バブル時代? バブルって泡だよね?』って。日本中が浮かれてたんだからお母さんが知らないっておかしいよ。あたし、『お母さんはボディコン着なかったの?』って聞いたんだけどさ」
「ボディコンってなんだよ」
「若い女の人が着る、身体の線がはっきりわかるエッチな服だよ。バブルの時代はお母さんは二十代だから、着ていてもおかしくないんだけど、やっぱり知らなかったよ、ボディコンのこと」 
ケンジはフォークでご飯をすくって口に放り込んだ。
「そのときは変だなくらいにしか思わなかったけど、お母さんはそもそもバブル時代を経験してないんだよ。お母さん、ケンジがオーストラリアに行っている間に未来にワープしちゃったんだよ」
「やっぱりそうか・・・・」
「それ以外考えられないよ」
「でも、いつの時代にワープしたんだ? その、バブル時代の後だということはわかるけど」
「あたしを産むちょっと前だよ。1998年だ、きっと」
「なんでわかる?」
「お母さん、昔の話を全然してくれないんだけど、お母さんがしてくれる話でもっとも古いのが、私が産まれる前の年のクリスマスイブの夜の話なんだ。街のイルミネーションがきれいだったという話。それ以降の話は普通にするんだけど、それ以前の話はいっさいしないんだ。それ以前は二十年さかのぼって女子高生やってたから言えないんだよ、きっと」
「う~ん」
葉月の推理が合っているのか間違っているのかケンジには判断つかなかった。理屈は通っている。ケンジが思い至った推理と同じだ。しかし、あまりに現実離れした話だった。
「お母さん、あたしを妊娠したまま1978年から1998年に行ったんだよ」 
隣の二人連れの男がチラチラとこちらのテーブルを見ている。市役所に勤めている公務員だろう。ともに三十代後半くらいの銀縁のメガネをかけた真面目そうな男だ。パンクのパの字も知らないに違いない。 
葉月はランチセットについて来たカップスープを飲み終えてケンジを見た。真剣な顔をしている。ケンジは急にそわそわして来た。
「ねえ、ケンジってお母さんと付き合ってたんだよね」
「うん? まあ」つい言葉を濁す。
「それで、その、お母さんと・・・・した?」葉月はグラスの水を飲みながら探るような目でケンジを見た。
「したってなにを?」
「だからあれだよ。エッチのこと」 
隣の席の客と接近しているランチどきの喫茶店で話すような話題じゃない。
「Bくらいまでなら何度かしたけどさ、Cは一回だけだよ」
ケンジは声を最小限に落として言う。
「なんなの? その、BとかCとかEって」
「Eなんて言ってねえよ。CだよC。お前、そんなことも知らないのかよ。信じらんねえな」
「ホント、話が通じなくてムカつく。だ・か・ら! お母さんとセックスしたの? してないの?」
葉月は大声を上げた。 
とたんにそれまでざわついていた店内が静まり返った。しかしだれもこちらに顔を向けない。全身を耳にしてうつむいている。高校生の男女がセックスの話を大声でしているのだから当然だ。しかも、「お母さんとセックス」と来たもんだ。興味を持たないほうがおかしい。
「お前、なに大声出してんだよ。大声で言うような話じゃないだろ? 静かにしゃべってくれよ」
「あたしの質問の答えは?」
「だから一回だけしたって。留学する前に」 
葉月は人差し指をケンジの目の前に突き付けた。
「それだよ。その一回のセックスであたしが生まれたんだ」 
隣の公務員が挙動不振な動きをしてフォークを床に落とした。
「なんでそのときのたった一回のCがDになってしかも葉月が生まれるんだよ」
「まだわかんないの? バカなんじゃないの?」
「バカと言われる筋合いはないわ」
「だ・か・ら!」
葉月は再び大声を上げた。
「お母さんが姿を消したのは1978年でしょ? そのときお母さんのおなかにあたしがいたんだよ。お母さんとケンジの子どもだよ。お母さんは二十年後にタイムワープして1999年にあたしを産んだんだ。これでつじつまがすべて合ったじゃん」
「ということは恵はいま何歳だ?」
「えーっと。2017引く1961で五十六でしょ。で、二十年飛ばしているから二十引いて・・・・三十六歳だ」
ケンジにとって三十六歳の女性は立派なおばさんだ。
「つじつまは合うけどさ。でもやっぱ、俺じゃねえよ。小林じゃないか?」 
恵と恵の肩に手を回した小林のツーショット写真が脳裏をよぎった。
「ありえねえよ、小林なんて」
とたんに葉月は憂鬱そうな顔になる。
「そういや葉月、最初に会ったときに小林のことを聞いてたよな? なんでだよ」
「お母さん、いま小林に口説かれてるらしくてさ」
「ホントかよ」
びっくりした。
「小林は結婚してて子どももいるんだけど、離婚するから一緒になろうなんて言ってるらしいんだ。でも絶対ウソなんだ」
「なんでわかる?」
「あたし、見ちゃったんだよね。小林が家族と回転寿司でご飯食べてるとこ。すんごく楽しそうにしててさ。あれ、絶対離婚しないって」 
葉月の言う「回転寿司」というものが理解できず、握り寿司が目の前でぐるぐる扇風機のように回転している絵が思い浮かんだけれど、いまはそれを突っ込んでいる場合ではない。
五十を過ぎた小林の姿は想像できないが、さぞかしスケベオヤジになっているに違いない。怒りで身体がカッと熱くなる。
「お母さんだって『気持ち悪い』ってこぼしてたしさ。だから小林があたしの父親なんてありえないって」 
確かに葉月の言う通りかもしれない。
「だからケンジだよ、間違いなく」
葉月は憂鬱そうな顔をして頬杖をつく。 
ケンジはだんだんイライラしてきた。
「もう2人でグチャグチャ考えてるのはウンザリだ。なにもかも恵がちゃんと話せばスッキリすることじゃん。いまから恵を問い詰めに行こうぜ。えーっと、恵がいるのは2017年だよな」
勢いに任せて立ち上がる。
「ダメだって」
葉月も立ち上がってケンジの腕をつかんだ。
「いま行ったっていいことないって。お母さん、二十一世紀で必死に生きてるんだから」
涙目になっている。
「それに昔の元カレに会って自分だけ年取ってるなんて残酷すぎるよ」 
ケンジは勢いを削がれて席に座り直した。
「じゃあ、この時代でグズグズしてるしかないのかよ」
「わかんないよ、あたしだって。これから考えようよ」
「いつまで考えてたってわからんだろ」
ケンジは絶望的な気持ちになった。
「しっかりしてよ、お父さん!」
葉月が大声を出した。 
ハッとして店内を見渡したが、客はひとりもいなくなっていた。


第11話「お母さんが死んじゃったんだよ!」 

恵がケンジとの間にできた子どもの葉月と二十一世紀に生きていると言われても、二十世紀に生きているケンジはどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。EAST WESTはもうすぐだというのに、ギターを弾いていても集中できずにミストーンを出してしまう。
翌日の午後、ケンジはギターの練習をするのをあきらめてインベーダーハウスに向かった。インベーダーばかり置いてあるゲーセンだ。混んでいて待たされる可能性があるが、しけた雰囲気の喫茶店、モカに行ったらさらに落ち込んでしまいそうな気がして行きたくなかった。 
ドアを開けてなかに入った途端、インベーダーの電子音とタバコの煙に全身を包まれた。同時にいままでイライラしていた気持ちがスッと落ち着いて来るから不思議だ。 
薄暗い店内にはインベーダーゲーム機が十台以上並んでいるが、残念ながらすべて埋まっている。舌打ちして入り口に立っていると、インベーダーに撃破されて頭を抱えて顔を上げた男と目が合った。清水だった。 
ケンジと清水は目で合図しただけですぐに向き合ってゲームを始めた。最初は清水の攻撃だ。
「まずいことになっちゃってさあ」
清水がうつむいたままぼそっと言う。
「どうした?」
「ギター、親父に取り上げられちゃったんだよ」
「なんでだよ」
EAST WEST直前に聞き捨てならない話だ。
「歯科大に行く行かないって話になってさ。『絶対歯医者なんかならない』って宣言したら、親父、怒っちゃってさ」 
清水が親の後をついで歯医者になるのを嫌がっているのはなんとなくわかっていた。本人はそうとは言わなかったが、これまでも進路のことになると必ず口が重くなった。
「親父、知り合いにギターを預けちゃったらしいんだわ。ちょっと今回ばかりは当分許してくれないかもな」
「遠山から借りられないのかよ」
遠山は清水がレッド・ツェッペリンのコピーバンドをやっていたときにギターを弾いていたヤツだ。
「あいつ、この前質屋に売っちゃったってよ。受験でもう弾かないからって」 
清水は調子が悪いらしく一面をクリアできずにインベーダーに撃破され、ケンジの番になる。
「俺もあのエクスプローラー買うのに全財産つぎ込んじゃったから、もうギターを買う金なんかこれっぽっちも残ってねえし」
「軽音楽部で誰か貸してくれるヤツを探そうぜ」
ケンジは画面を見つめながら言う。そう言いながらも、いま在籍している下級生に借りるのは気が進まない。
「EAST WESTだけどさ、悪いんだけど俺抜きで出てくれないかな。俺、サイドギターだからいなくても問題ないだろ? どっちかと言うと、サイドギターなんかいないほうがピストルズと同じ編成になってカッコいいと思うし・・・・」
「冗談言うなよ」
ケンジは顔を上げて清水をにらんだ。 
清水は目をそらしてタバコの煙を吐いた。 
実際問題として、サイドギターがいなくても演奏のクオリティはほとんど落ちない。ケンジはそのことをわかっていたし、清水もわかっていたのだろう。 
サイドギターになった清水は、やはり火縄銃で居心地が悪かったのかもしれない。 
それから二人で黙ってインベーダーをやり続けた。ケンジはなにも考えないようにしてゲームに集中した。
「あちゃーっ」
清水がミサイルに当たって悲鳴を上げた。
次はケンジの番だ。
「おしっ」
気合いを入れてレバーをつかむ。 
ゲーム機の上に積み上げていた2000円分の百円玉はもう数枚しか残っていない。 
現れたインベーダーは二十体ほど。画面の中ほどまで降りてきていてスピードを上げつつあった。勝負はここからだ。
七体倒したところでまた一段下がってくる。インベーダーたちのスピードが上がる。電子音を発してUFOが現れる。すぐに撃ち落とすかどうか一瞬ちゅうちょしたが、よし、と決意して2発ミサイルを空撃ちしてから叩きこむ。
狙い通り300点が出た。
「おっしゃーっ」 
あとは残りのインベーダーを全滅させるのみだ。この面をクリアすれば、自分の人生もうまく行くという暗示をかけながら戦闘に挑む。 
ケンジが前のめりになってテーブルの画面に顔を近づけたそのとき、「ケンジ! ようやく見つけた!」と、思いきり後ろから抱きつかれておでこを画面にぶつけた。
その一瞬のすきでインベーダーが発射したミサイルから逃げ遅れた。 
ケンジは後ろを振り向いた。葉月が背中にしがみついている。
「なにしてんだよ。邪魔だっつーの」
「ハーちゃんたら、インベーダーの一味かよ」
清水がタバコにむせながら爆笑する。
「それにしてもハーちゃん、ずいぶん大人びたよな。本当に中学生かよ」 
清水は葉月がまだ中3だと思い込んでいるのだ。
「お母さんが死んじゃったんだよ!」
葉月は大声で泣き始めた。
ゲームに夢中になっていた客がいっせいに顔を上げてケンジたちのほうを見た。でも、彼らがこっちを見たのは一瞬で、次の瞬間には自分たちの戦闘に戻って行った。
「嘘だろ?」
ケンジは立ち上がって葉月と向き合った。
「こんなこと嘘ついてどうすんだよ」
顔が涙でぐちゃぐちゃになっている。
「なにがあったんだよ」
「事故だよ、事故。交通事故。スキーバスに乗っていて、群馬でバスが崖から転落しちゃったんだよ」
「スキーバスだって?」
ゲームを止めて葉月のことを心配そうに見ていた清水が声を上げた。
「ハーちゃん、いま何月だと思ってんだよ。8月だよ8月。この真夏に群馬でスキーができるわけないじゃん」
「だったらバスに乗る前の時間に行って助けるしかないよな」
ケンジは清水を無視して続けた。
「お願い」
「おいおい、なに言ってんだよ、お前ら」
「あ、その百円玉、清水にやるわ」
ゲーム機の上に置いてある百円玉を指差しながら出口に向かった。 
店の前に停めた自転車に二人乗りして神社に急いだ。
「葉月の時代はいま、何年の何月なんだよ?」
前を向いたまま葉月に話しかける。
「2017年の12月だよ」
「バスはなんで崖から転落したんだ?」
「運転手が運転中に心臓発作を起こしたらしいんだ」
「恵は誰とスキーに行ったんだ?」
「小林だよ」
「なんだよ、結局付き合ってんじゃねえかよ」
「つき合ってないよ。小林と二人きりじゃなくて小林の知り合いがたくさん来て、女の人もいるからってしつこく誘われてさ。あいつ、川越の市会議員だから顔が広いらしくて」
「市会議員なんかやってんのか? 小林が市会議員やるようじゃ川越もおしまいだな」
「お母さん、おじいちゃんとおばあちゃんが立て続けに死んじゃって、心細くなってんだよ。小林にいろいろ相談していたみたいだし」
「イヤな流れだな」
「あいつと付き合ってもいいことないってお母さんに言ってたのに」
「恵が死んだのは間違いないのかよ」
「間違いないよ。遺体の確認に来てくれって群馬の警察から電話があったし」
葉月は再び泣き出した。
「行ったのか?」
「行くわけないじゃん。お母さんの遺体なんか見たくないって。電話を切ってすぐにケンジのところに飛んで来たんだよ」
「そういうことか」
「なんでもいいから急いで!」
「ちょっと待った」 
ブレーキをかけて自転車を止めた。蔵造りの街並みを過ぎて時の鐘が見えてきたところだ。後ろに乗っていた葉月の頭が背中にぶつかる。
「なんだよ、急に止まるなよ」
「考えてみたら別に急ぐ必要ないじゃないか。どうせワープするんだからさ」
ケンジは振り返って泣き顔の葉月に言う。
「そりゃそうだけど、お母さん死んじゃったんだよ。あせるじゃんか」
葉月は子どもみたいに頭をケンジの背中にこすりつけるようにした。
「それより冬山に行かなければならないかもしれないんだ。こんな格好のままじゃ凍死しちゃうわ」 
葉月はなにも羽織らないであわてて出て来たのだろう、デニム地のミニに長袖の白いシャツというスタイルだ。一方、真夏の季節にいるケンジに至っては半袖のTシャツにGパンという軽装だ。 
ケンジは葉月を後ろに乗せて家に帰り、押入れの奥からダウンジャケットを引っ張り出した。葉月の分はワープしてから家に取りに行ってもらえばいい。 
いったん自室を出たが、思い返してもう一度戻って引き出しからサングラスを取り出す。ダウンジャケットはかさばるので暑いのを我慢して着込み、再び自転車で急いだ。
「スキーに行く前の日とかに行ければベストだよな。それで説得してスキーツアーに参加させないようにすればいいんだからさ」
「事故で二十人も死んじゃったんだよ。お母さんだけじゃなくて、みんな助けないとかわいそうだよ」
葉月はそう言うとケンジの腰に回した腕に力を入れる。
「そりゃあちょっとハードルが高いな。恵以外は運命だと思ってあきらめてもらうしかないよ。小林も」
「お母さんだって火事でケンジだけじゃなくて全員助けたじゃん」
「・・・・」
恵ひとりならともかく、二十人全員を助ける方法なんてあるのだろうか。出発前に「このバスは今日崖から転落するので乗るのはやめましょう」とツアー客全員に教えても、誰ひとり信じないだろう。 
葉月はスキーツアーの出発日の3日前を目指すと言う。絶対避けなければならないのは、当日の出発後の時間帯に着いてしまうことだ。そうなると再びその日に行くことが出来なくなるので、事故そのものを防ぐことは限りなく難しくなる。
「何日か前に着いて、それから当日まで通うしかないよ」と葉月は言う。 
それはそうかもしれないが、問題は当日どうやって全員を助けるかだ。それについては葉月もアイデアはないらしい。
こうなったら、行き当たりばったりで対処するしかない。ケンジは覚悟を決めた。 
手をつないで走る。鳥居をくぐったところで周りがブラックアウトして火花が散る。強風にあおられて身体が吹き飛ばされそうになるのを耐え、葉月の手を強く握る。はっきり言って何度やっても生きた心地がしない。
つぶっていた目を開けると周囲は真っ白だった。無数の細かい泡のようなものが、ものすごい勢いで前から後ろへ流れて行く。それはまるで、流れの速い川を上流に向かって突き進んで行っているような感覚だった。
前に葉月が、過去にさかのぼるタイムワープと未来に行くタイムワープは感覚が全然違うと言っていたが、確かにその通りだ。ケンジはこれまでに二回、過去にさかのぼるタイムワープを経験しているが、どちらも雨雲のなかを突き進むような感覚だった。
恵が死んだという緊急事態のためにあまり意識しないままタイムワープしたが、いま自分は二十世紀の人間なら誰しもあこがれている二十一世紀に向かっているのだ。ケンジはドキドキしてきた。


急激に気温が下がったのが分かった。
「さむ!」
葉月が悲鳴を上げた。
「とりあえずこれ着ろよ」
ケンジはダウンジャケットを脱いで葉月の肩にかけた。半袖のTシャツ1枚になったケンジは思わず身震いした。 
あたりを見回す。夜だった。
「なあ、いま何年だっけ?」
「2017年だよ」 
三十八年後だ。しかし、はるか未来の二十一世紀に来ている割には、周りの風景はケンジの時代と代わり映えがしない。神社の建物も公園の遊具もケンジの時代と同じくらい古びている。一度新しくしたのだろうが、再び同じくらい年月がたって古びたといったところだろうか。 
市立図書館の児童書に載っていた、夢のような未来世界を想像していたケンジは思い切り拍子抜けした。
「で、今日は何月何日だ?」
「二十世紀に行っちゃうと日にちを確認するのが大変だけど、この時代は簡単なんだよね」
そう言うと斜めかけバッグからスマホを取り出した。
「前の日だ。緊張したせいでずれちゃったよ。ヤバかった」
「出発の前日か?」
「そう、12月21日」
「まあ、結果オーライだな。何時だ?」
「夜の9時」
「恵はどこにいる?」
「家で晩ご飯食べてるよ。すき焼きだ」
「肉は牛肉か?」
「当たり前じゃん。すき焼きなんだから」
「恵は明日、何時に出かけたんだ?」
「あたしは寝てたからわからないけど、5時に出かけたはずだよ。そう言ってたから」
「8時間後か」
「だから明日の朝まで付き合ってよ」
「なんでそうなるんだよ。いったん帰ればいいじゃないか」
「明日、ちゃんとスキーツアーの出発時間前にタイムワープできるかどうか自信がないんだよ」 
確かに出発時間を過ぎてしまったら致命的だ。葉月の心配もわかる。
「でも8時間までしかいられないんだろ?」
「1人だとね」
「どういうことだよ?」
「2人だと倍の16時間いられるってこと」
「なんだよ、そのかけ算は」
「よくわからないけど、2人だと元の時代に戻ろうとする力が倍働くから、それだけ長い時間いられるんじゃないかな」
「じゃあ俺は明日の朝まで適当に時間を潰しているから、葉月は家に帰れよ」
「家に帰ったらあたしとお母さんがすき焼きを突っついているんだっつーの」 
そうだった。この時代にはすでに葉月が存在しているのだ。ホント、タイムワープはややこしい。
「じゃあ、せっかくだから二十一世紀の素晴らしい世界を案内してくれよ。いまから心配しててもしょうがない。明日のことはなんとかするから」
 
歩き始めてすぐに周りの景色が明らかに二十世紀のものではなくなった。東京にしかないような高いビルがあちこちに建っている。おしゃれなレストランも異様に多い。まるで原宿みたいだ。
「本当にここが川越かよ」 
あの埃っぽくて地味な地方都市がここまで変貌するとは、さすがに二十一世紀だけのことはある。
「川越は人気の観光地だから、飲食店がめちゃくちゃ多いんだ」
「川越が観光地だと? 信じられんな」 
葉月はケンジを一軒の洋服屋に連れて行った。
「せっかくだからプレゼントしてあげるよ。ひと足早いクリスマスプレゼント」葉月はそう言うと暖かそうなジャンパーを選んでくれた。
着てみると信じられないくらい軽いのに、信じられないくらい暖かい。しかもデザインもオシャレだ。
「いいじゃん。似合ってるよ」
隣に立った葉月の笑顔が鏡に映る。
「いいんだけどさ、高くないか?」
「大丈夫」
葉月はタグをつかんで見る。
「2000円だ」
「2000円だと?」
ケンジは思わず大声を上げた。
「俺の時代だったら間違いなく5000円はするぞ。いや、もっとするかもしれん。物価、上がるどころか下がってるじゃん。ありえねえよ」
「シッ!」
葉月が嫌な顔をして人差し指を口に当てた。
「大声出すなよ、田舎モンみたいに。ファストファッションのセールなんだから普通だって」
「なあ葉月、今度またここに連れて来てくれないかな。こづかいたくさん持って来るからさ」
「時代を超えて爆買いかよ」
葉月は呆れた顔をした。
「いいけどさ」 
葉月が次にケンジを連れて行ったのは、まさに二十一世紀の世界と呼ぶに相応しい場所だった。道路が複雑に立体交差している。空に浮かぶ道路はそのまま高いビルと繋がっている。その道路をクルマが行き交っていた。
「空飛ぶクルマはどこだ? 超高速モノレールは?」
ケンジは興奮して空を見上げた。
「はあ?」
葉月は心からバカにしたような顔をした。
「そんなもん、あるわけないだろ?」
「なんでだよ?」
「なんでだよと言われても、ないものはないんだよ」
「俺たち二十世紀の人間の未来の夢を壊さないでくれよな」
「未来の夢? そんなのがあるんだ?」
葉月は不思議そうな顔をしてケンジを見た。
「葉月の時代にだってあるだろう? 何年か後にはこんな夢みたいな生活が待ってますよっていう」
「そんなもんないわ。何年かしたら人口がこれだけ減るとか、空き家だらけになるなんて話はあるけど」
「夢のない時代だな」
散々ケンジの時代をバカにした葉月に一矢報いた気分だ。 
目の前の建物はなんと川越駅だと言う。これに比べたらこれまで立派な建物だと思っていたケンジの時代の川越駅など掘立小屋以下だ。興奮する一方で、だんだん悲しくなって来た。やっぱり二十一世紀にはかなわない。 
せっかくだからひと駅だけ電車に乗ってみようと葉月から切符を手渡された。ペナペナな薄い切符だ。切符だけはケンジの時代のほうが立派だと思う。 
葉月の後について改札に向かう。葉月が以前ケンジの時代の改札に人がいることに驚いていたが、確かに目の前の改札には人はいない。二十一世紀の改札は性善説を取って切符をチェックしないということだろうか。 
先を歩く葉月は財布を機械に当てて通り抜けて行く。ケンジも見よう見まねで葉月が財布を当てた部分に切符を当てて通り過ぎる。これでケンジも二十一世紀の人間に見えるはずだ。 
途端に目の前の通路がふさがれて派手にチャイムが鳴った。やり方を間違えたのかもしれない。足がすくんだ。心臓が早鐘を打ち、嫌な脂汗が流れ出た。 
すぐにロボットの警察が出て来るかもしれない。恐ろしすぎる。やはり改札には人間がいるべきだ。二十世紀のほうが正しい。
「葉月、どうなってんだよ、これ」
前を歩いている葉月に声をかけた。われながら情けない声だ。 
葉月は振り返り、ニヤニヤしながら近づいて来た。
「ケンジって電車がない江戸時代とかから来たんだっけ?」 
その夜はカラオケボックスという窓ひとつない、恐ろしく狭い部屋でひと晩過ごすことになった。葉月がカラオケに行くと言うので、最初はなんでカラオケスナックなんかに行くのかと意味がわからなかったけれど、カラオケボックスというのはカラオケスナックとは似て非なるものだった。 
ケンジは初めのうちは葉月が歌う聴いたことがない歌をポテトフライを食べながら黙って聴いていたが、曲のリストにセックス・ピストルズやディープ・パープルがあることに気がついてからは、次から次へと歌いまくった。
「二十一世紀サイコ〜!」
ケンジは歌いながら絶叫した。 


目を開けたとき、しばらくどこにいるのかわからなかった。ケンジはソファで横になっていた。隣では葉月がテーブルに突っ伏している。 
テーブルに置かれたマイクでカラオケボックスというところにいることを思い出した。マイクの隣にあった葉月のスマホを手に取る。画面を見ると6時だ。あわてて葉月の身体を揺する。
「やばい! 急ぐぞ」葉月は飛び起きた。 
会計を済ませて店の外に飛び出す。まだ日の出から間もない。晴れてはいるが、12月の朝の空気は刺すように冷たい。
「どこに行くんだよ?」
走る葉月の後を追う。
「川越発のスキーバスが出る場所って決まってるんだ。そこに行くんだよ」 
白い息を吐きながらまだ閑散としている通りを十分ほど走った。 
たどり着いた場所には確かに大型バスがいた。窓がやたらと大きい、見たこともない形をしたバスだ。
窓にはスキーウェアを着込んだケンジと同年代くらいの女の子の姿が見える。出発直前なのか、すでにみんな乗り込んでいるらしい。
「すみません、2名いまから申し込みたいんですけど」
葉月はバスの乗車口に立っていたっ男性の係員に声をかけた。
「いまからですか?」
係員はぎょっとした顔をして葉月を見、そして隣に立っているケンジを見た。
「お金はいま払いますからなんとかお願いします」
「ちょっとちょっと」
ケンジは葉月の背中を突く。
「俺、そんなに金持ってないけど」
「あたしが持ってるから大丈夫だよ・・・・いいですよね?」
「はあ・・・・じゃあこの書類にすぐに記入してください」 
葉月の勢いに押された係員は、肩にかけたバッグから申込書を取り出した。葉月は申込書に「杉沢葉月 二十二歳、ケンジ 二十歳 姉弟」と記入している。年齢をごまかしているのはわかるが、なんでケンジが兄じゃなくて弟なのか。しかし、係員がそばに立っているので口に出すわけにはいかない。 
実際、葉月のほうが半年近く年上になったいまとなっては、文句を言う筋合いもなかった。
「ケンジ、先乗ってよ。あたし、お母さんにばれたらヤバイし」
「わかった」 
ケンジはジャンパーのポケットに入れていたサングラスをかけて乗車口のステップを上がって行った。ケンジだって恵には面が割れていると言えば言えるので気をつけなければならない。葉月は隠れるようにしてついてくる。 
大型バスは7割くらいの席が埋まっていた。いちばん前の席が空いていたのですぐにそこに座った。先ほどの係員が乗り込んできてツアーの概要を説明する。目的地は万座らしい。1泊2日のツアーだ。 
係員が降りてバスが出発した。 


いよいよだ。ケンジは緊張してきた。


第12話 ケンジは思わず葉月を強く抱きしめた

スキーバスはすぐに郊外に出た。関越にのるのかもしれない。ケンジの家にはクルマがないので高速道路のことは詳しくないが、練馬から川越の先の東松山まで通っている高速道路、関越自動車道の存在くらいは知っている。 
いちばん前の席なので前方が良く見える。関越のインターが見えてきた。 
料金所が近づいてくる。人の気配がない。クルマを通せんぼするかのようにバーが下がっている。しかし運転手はバーが見えないのか、スピードを落とすことなく突っ込んでいく。
「わー、ぶつかるぶつかる」
思わず大声を上げた。 
しかし、クルマがバーに衝突しそうになる直前、バーがスッと上がった。運転手が白い目でこちらを見る。
「なんだよケンジ、恥ずかしいから大声出すなよな」
「だってあの運転手、料金所止まんねえし」
「ケンジの時代は知らないけどさ、それが普通だって」 
ケンジはこのバスのなかでひとりだけ田舎者扱いされているような気がして不愉快になった。
「でも、どうすんだよ、これから」
「しばらくは様子見でしょ? 事故現場はもっとずっと先だから。高速降りてからが要注意だよ」
バスはあっという間に東松山を通り過ぎた。案内板を見ると驚くべきことに関越は新潟まで繋がっているらしい。 
高速にのってからはすることもないので、周りの景色や見たこともない形のクルマを眺めていたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。 
葉月に揺り起こされた。バスは停まっている。
「おかしいんだよ」葉月が声を潜めて言う。
「どうした? ここどこだ?」
「上里だよ。サービスエリア」
「上里ってどこだ?」
「埼玉県の端っこだよ。もうすぐ群馬県」
「で、なにがおかしいんだよ」
「お母さんが乗ってないんだよ」
「なんだよそりゃ」
「バスを間違ったみたい」 
ケンジは立ち上がってバスの奥を振り返った。トイレに行っている客が多いのか、乗っているのは十人足らずだった。子連れの家族もいる。
「でも、集合場所にいたのはこのバスだけだったじゃないか」
ケンジは再びシートに腰を下ろした。
「集合場所が川越じゃなかったのかも。お母さん、スキーバスが川越発だとは言ってなかったし」
「小林はいまどこに住んでるんだ?」
「川越市内の郭町だよ」
実家にそのまま住んでいるらしい。
「ふたりとも川越だったら川越発のバスに乗るだろう、普通」
「後ろ暗い気持ちがあるからわかんないよ。あいつ、お母さんと不倫関係になることを狙ってるしさ。市会議員で川越じゃあ結構顔が知られてるから、あえて川越発を避けたのかも」
「フリン関係ってなんだよ?」
「どうしよう、もうダメかも」
葉月はケンジの質問には応えずに泣き顔になった。 
ケンジはどうしたらいいかわからずに窓の外を見た。周りはみんなスキーバスのようだった。
「もしかしたらこのサービスエリアに恵が乗っているバスが停まっているかもしれないぞ」
「そんな都合がいい話があるかよ」
「わかんないじゃん。とにかく探してみよう」 
外に出て、一台ずつバスのフロントガラスに表示されたプレートを見ていく。
「船橋西南高校スキーツアー」「新宿→苗場スキーツアー」・・・・。
「恵は万座に行ったんだよな?」
「わかんない」
「なんだよ、それ?」ケンジは呆れて葉月の顔を見た。
「群馬にスキー旅行に行くとしか聞いてないんだよ」
「苗場は群馬か?」
「ちょっと待って」葉月はスマホをいじり出す。
「新潟だ」
スマホはそんなことまで教えてくれるらしい。
「じゃあこれはどうだ?」 
ケンジが見つけたのは「埼玉旅行社所沢支店主催 スキーと名湯を楽しむ草津の旅」というプレートだった。
「当たり! 群馬だ」
葉月はスマホから顔を上げると「ちょっと見てくるよ」と言ってバスのステップを登っていった。しかし、すぐに後ずさりして戻ってきた。
「いたよ・・・・」
声が上ずっている。
「小林と並んで座ってた」
「間違いないか?」
「うん」
「ばれなかったか?」
「大丈夫。なんだかもめてた。なんで知り合いが誰も来ないのかって、お母さん、小林を責めてた」
「また卑怯な手を使いやがったな、あいつ」
「そうみたい。みんないるからってウソついて二人で温泉に行くつもりだったんだ」 
以前、小林は気に入った広栄女子高校の女の子に取り入るために不良グループに金を渡して彼女に因縁をつけさせ、偶然を装って通りかかった小林が毅然とした態度で不良を追っ払うなんていう、昔のマンガみたいな芝居をして、その女の子をまんまと彼女にしたことがある。心底、しょうもないヤツなのだ。
「あの野郎」
ケンジはかっとなってステップに足をかけた。
「ちょっとちょっと」
葉月はケンジのジャンパーを引っ張った。
「いまケンジが出て行ったら事故が防げなくなるじゃん」
「事故なんかどうでもいいよ。放っておいたら小林に何されるかわからないぞ」
「どうでもよくないって」
「じゃあどうするんだよ」
「このバスに潜り込もう」 
ケンジは乗車口から運転席に座っている男を見上げた。貧相な顔をした四十代くらいの男だ。
「あんたは数時間後に心臓発作を起こして、そのせいでバスが崖から転落して乗客がたくさん死んじゃうんだよ」
ケンジはそう言って男をバスから引きずり降ろしたかった。そうすれば事故は防げるのだ。しかし、そんなことをしたって騒ぎになるだけで、いずれにせよ運転手は乗務に戻るだろう。 
運転手は葉月が持っているのと同じようなスマホをいじっている。バスに乗り込むならいまがチャンスだ。ケンジは再びサングラスをかけてステップを上がった。葉月が隠れるようについてくる。運転手はスマホに目を落としたまま、こちらを見ようともしなかった。 
前から三番目の席に懐かしい顔があった。二十一世紀の恵だ。三十六歳になっても恵は十七歳のときと変わらず可愛かった。きちんとブローされた髪を肩まで伸ばし、サーモンピンクのセーターを着ている。ケンジは涙が出そうになった。 
恵の隣には見たこともないオヤジが座っていた。不健康に太り、顔は脂でも塗ったかのようにテカテカ光っている。後頭部がハゲていた。でも本人はハゲているという現実を認める気はないのかもしれない。ハゲを少ない髪で五線譜のように覆っていた。 
デブオヤジなのに若々しい格好をしているところが、ケンジの神経を逆なでした。ピッチリした白いセーターは出っ張ったおなかの肉の圧力でいまにも破れそうだ。
葉月から聞いてなければ、このオヤジが未来の小林だなんて到底気がつかなかっただろう。言われてみれば目元あたりに高校生の頃の面影が残っているが、あとはすべてが変わっていた。
無残だ、とケンジは思った。
小林はイヤなヤツだが見た目はカッコいいのだ。それなのに・・・・。大人になり、そして年をとるということはこんなにも醜悪なことなのか。ケンジは自分の未来を見せられているようで気分が悪くなった。

ノー・フューチャー・フォー・ユー

オヤジになったジョン・ロットンの歌声が頭の中で響き渡った。 
席はいちばん後ろしか空いてなかった。ケンジは乗客に見とがめられるかと心配だったが、なにが楽しいのか誰も彼もスマホに目を落としていてケンジたちに目を止めることはなかった。
トイレに行っていたらしき人たちが戻り、5分ほどしてバスは出発した。関越自動車道をしばらく走った後、渋川伊香保というインターで一般道に降りた。
このあたりまで来ると、いまが二十世紀だと言われても「ああそうか」と思ってしまうくらい未来度の低いのどかな風景が広がっている。 
目に映る風景が退屈になってくると、再び猛烈な睡魔に襲われた。恵の命を助けるという重要な任務がある前夜に、カラオケボックスなんていう魅惑的なところにケンジを連れて行った葉月が恨めしい。 


しばらくしてまた葉月に揺り起こされた。目を開けると外は完全に雪国になっていた。
雪が積もった山が両側から道路に迫り、その道路も真っ白だ。空は鉛色に曇り、粒の大きな雪が舞っている。さっきまで晴れていたのが嘘みたいだ。
「そろそろだよ、きっと」
葉月は背を伸ばして運転席のほうを見る。
「遠くて運転手の様子が分かりづらいな」 
車内はみんな寝ているのか話し声もせずに静かだ。道路が大きく左にカーブしたかと思うとトンネルに入った。しばらく暗闇のなかを走ってトンネルを抜けると、左側が崖になった。
「このあたりだよ、きっと」 
ケンジは窓際に座る葉月の前に顔を突き出して窓の外を見た。
崖のはるか下を川が流れている。河原まで落差五十メートルはあるだろうか。雪が積もった巨大な石を縫うようにして、いかにも冷たそうな川の水が白い波を立てながら勢いよく流れている。 
崖から転落するという事故がいきなり現実味を帯びてきた。下手をしたらケンジたちも転落事故に巻き込まれてしまう。行き当たりばったりでここまで来てしまったことを猛烈に後悔した。 
いますぐ恵に声をかけて、葉月と3人でバスを降りてしまいたかった。正直、ほかの乗客のことなど気にしている余裕はない。もちろん小林なんかシカトして死なせてしまっても、罪悪感など露とも覚えないだろう。 
バスの車体が左右に揺れた。葉月と顔を見合わせ、中腰になって運転手の様子を伺った。運転手の頭が下を向いている。
「やばいぞ葉月、行くぞ」 
ケンジは立ち上がって通路を急いだ。すぐにスピーカーのスイッチが入った音がした。「お客さん、走行中は危ないから立ち歩かないでください」 
見るとルームミラーに運転手の鋭い目が映っている。単に脇見運転をしていただけらしい。
「すみません」
頭を下げてUターンする。
「お客さん、所沢から乗ってた?」 
まずい、バレたか。ケンジは振り返らずに「もちろん乗ってましたよ」と応えた。
「おかしいな。なんだか人数が多い気がするしな。草津に到着したら確認させてもらいますわ」 
その草津にたどり着けないから、わざわざ二十世紀くんだりからやって来たのだ。 
しばらくは何事もなかった。もしかしたらこのバスにケンジたちが乗り込んだことで歴史が改変され、運転手の心臓発作もなくなったんじゃないか。 
ケンジと葉月がそんな希望的観測を話し合っていると、突然車体がガクンと揺れてスピードが急に上がった。中腰になって様子を見ると、運転手がハンドルに倒れこんでいる。
「来たぞ、葉月!」ケンジは立ち上がって通路を走った。 
運転席の脇まで行って運転手に声をかけて身体を揺すった。しかし完全に意識を失くしているようだった。意識を失ったときにハンドルを切らなかったのは不幸中の幸いだった。 
葉月にハンドルを抑えてもらい、覆いかぶさった身体を起してシートにもたれかけさせる。 
スピードメーターを見た。なんとデジタル表示だ。しかしいまは、そんなことに感心している場合じゃない。120キロも出ている。
「前を見てハンドルを調整しててくれ」 
葉月に声をかけてうずくまり、運転手の足元を見た。心臓発作を起こしたときに両脚が硬直したように伸びきったらしく、右足がアクセルを深く踏み込んでいる。 
両手で右足の脛をつかんでアクセルから放そうとするが、意識がないはずなのにビクともしない。
「ケンジ! やばいやばいやばいやばい」
葉月が悲鳴を上げた。 
前を見ると、ちょうど「右 急カーブ注意」の標識を通り過ぎたところだった。300メートルくらい先で道路が右に急カーブしているのが見える。ガードレールの先は崖に違いない。間違いなくあそこが事故現場だ。このスピードのままでは曲がり切れるはずがない。
親子3人で死ねるのならそれもいいかと思い込もうとしたが、やっぱり無理だ。思い残すことが多すぎる。小林が紛れ込んでいるし。 
もう一度、両手に思いきり力を入れて右足を手前に引くが、やはりビクともしなかった。
「ごめん!」
ケンジはそう言って立ち上がり、すねを思いきり蹴っ飛ばした。
右足がアクセルから外れた。意識があればメチャメチャ痛いはずだが、運転手は無反応だ。 
スピードが緩む。しかし、アクセルをオフにしたせいでタイヤのグリップ力が弱まり、バスが横滑りした。 
乗客から悲鳴が上がる。 
バスの後部が左側のガードレールにぶつかりそうになり、あわててハンドルを切ってカウンターを当てる。ずっと愛読しているマンガ『サーキットの狼』が役に立つ日が来るとは夢にも思わなかった。 
しかし、危機はまだ眼前にある。急カーブは100メートル先まで迫っている。ケンジは運転手の膝の上にのり、右足でゆっくりブレーキを踏んだ。フルブレーキングすると間違いなくスピンする。しかしあまり悠長なことをしているとガードレールに突っこんでしまう。 運転したことがないケンジにはその塩梅はよく分からないが、イチかバチか勘に頼るしかない。 
バスはゆっくり減速していく。急カーブの手前でスピードは70キロまで落ちていた。
ケンジはハンドルを右に切った。再びテールが流れ出したのでカウンターを当てた。リヤがガードレールにぶつかって大きな音をたてた。
また乗客の叫び声がした。 
バスは横滑りしたままカーブを曲がり切り、ケンジはカーブの先にあった路側帯にバスを止めた。 
思わず深いため息が出る。
車内で拍手が起こった。
「救急車、救急車」という声もする。
「ケンジ!」
運転手の膝にのったケンジに葉月が抱きついてきた。 
ケンジは自分の身体がガタガタ震えていることに気がついた。汗をびっしょりかいている。正直、気が小さいのだ。
ケンジは思わず葉月を強く抱きしめた。


第13話「葉月は21世紀の女の子なんだよ」 

ドアを開けるスイッチを探して押し、バスを降りた。外は一瞬のうちに身体が凍りついてしまいそうなほど寒かった。相変わらず雪が舞っている。
「ケンジ、すんごくカッコ良かったよ!」
「イエーイ!」 
葉月とハイタッチをする。 
ほかの乗客もバスから降りてきてスマホを耳に当てて誰かと話している。スマホが電話だといつか葉月が言っていたが、それは嘘ではなかったらしい。
「葉月!」 
葉月を呼ぶ女性の声がした。振り返ると恵が立っていた。
恵はサングラスをかけているケンジを一瞬いぶかしげに見たが、すぐに視線を葉月のほうに戻した。
「なんで葉月がここにいるのよ」
声がとがっている。
「だってお母さん、バスの事故で死んじゃうから助けに来たんだよ」
「あなた、タイムワープの能力のこと・・・・」
恵は絶句した。
「おばあちゃんから聞いたよ」
「あれほど言わないでって頼んでおいたのに・・・・」
「もしかしてこの子、恵の娘さん?」
小林が寄って来た。
「お母さんに似てすんごく可愛いね」 
その目つきがあまりに気持ち悪く、ついケンジは「スケベオヤジの小林なんか用はねえよ」と口走った。
「なんだと?」
小林が顔色を変えてケンジに近づいて来た。
「なんだテメエは。このクソガキ!」 
とても市会議員とは思えない口調だ。その暴言にケンジもかっとなる。
「卑怯者のお前にクソガキ呼ばわりされる筋合いはないわ。恵をだまして二人きりで温泉旅行を楽しもうとしてたんだってな。不良に金払って気に入った広栄女子高の女に因縁つけさせてよ。で、自分がさっそうと助けに入るなんてくだらないことをやっていたお前らしいわ。ホント、死ぬまで卑怯なヤツめ」
「なんだあ? なんでお前が知ってんだよ」
小林は顔を真っ赤にしてつかみかかってきた。
「そもそも離婚する気なんてないんだろ? 家族と仲良く飛んでる寿司屋に行ってるらしいじゃねえか」
「なんだよ、その飛んでる寿司屋ってのは」
「飛んでる寿司屋じゃなくて回転寿司だよ」
葉月が小声で訂正する。
「飛ぶ寿司だって回る寿司だってどっちだっていいわ。こそこそ所沢から出発しやがって」
「黙れ、クソガキ」 
高校生にしては小柄なケンジは体躯のいい大人の小林の敵ではなかった。思いきり突き飛ばされて雪が積もる道路に倒れ込んだ。
「ケンジ!」 
葉月が声を上げた。そしてすぐにしまったという顔をして自分の口を手でふさいだ。
「ケンジ?」
恵はキョトンとした顔をして起き上がったケンジを見た。そしてその顔がみるみる引きつった。 
気がつけば視界がクリアになっていた。突き飛ばされたはずみでサングラスが外れたらしい。
「あれ、もしかしてこのガキも恵の知り合い?」
小林が恵にへつらった声を出す。
「ケンジ・・・・ほんとにケンジなの?」
恵の声は震えていた。
「ああ」
ケンジは恵から目をそらして服についた雪を払った。
「なんで・・・・なんでケンジがここにいるのよ」
「一緒に助けに来てもらったんだよ」
隣で葉月が大きな声を出した。
「葉月、あなたケンジのこと・・・・」
「ようやく見つけたんだ。この人、あたしのお父さんなんでしょ?」
「ケンジ、いま何歳なの?」
恵は葉月の問いかけを無視してケンジを見た。
「十八、高3だよ」
「そうなんだ・・・・」
恵はつぶやくように言って目を伏せた。
「葉月から全部聞いたよ。恵、なんで俺に黙って未来なんかに行っちゃったんだよ。子どもができたんなら言ってくれれば・・・・」
「だってケンジ、連絡が取れなかったじゃん」
恵の顔がくしゃくしゃになり、突然、女子高生の頃の恵に戻ったかのような口調になった。
「オーストラリアの住所に何度も手紙を送ったんだよ。でも全部、あて先不明で返ってきちゃったんだよ」
「ごめん、ホームステイ先が変わっちゃってさ」
「だったらすぐに連絡くれればいいじゃん。それなのに連絡くれなかったじゃん」
「それは・・・・ホントごめん」
謝るしかなかった。
「ケンジがオーストラリアに行ってすぐに妊娠がわかったんだよ。でもケンジは全然連絡つかないし、お母さんもお父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも、みんなみんな子どもを産むには若すぎるっていうし。だけど・・・・だけど私、産みたかったんだよ。だから、『じゃあ、何歳になったら産んでいいの?』って聞いたんだ。そしたら『せめて二十五歳くらいになったら』って。それなら8年後の1986年に行けば産めると思ったんだ。でも、タイムワープするの、その時が初めてで、混乱してたから間違って1998年に行っちゃって・・・・」 
そこまで言うと恵は鼻をすすってハンカチを目に当てた。
「着いたのは夜だった。私、自分がそんな先の時代に行っちゃったなんてまったく気づかないで、着いてからひと晩、ずっと川越の街を歩き回ってた。ちょうどクリスマスイブの夜で街がすっごくきれいだった。自分の間違いに気づいたときには、もうワープしてから8時間以上たっていたんだよ」 
恵は子どもみたいに声を上げて泣き出した。 
葉月は走り寄って恵の肩を抱いた。並ぶと葉月のほうが少しだけ背が高い。その横ではデブオヤジの小林がぽかんとした顔をして突っ立っている。
「早まり過ぎだよ」
ケンジがつぶやく。
「衝動的にワープしちゃったんだよ。だって私、見ちゃったから・・・・」 
顔を上げた恵の頬に涙が伝わり、そこに大粒の雪が吸い寄せられるようにくっついた。
「見たってなにを?」
「あの年の学園祭の頃、ケンジ、私に内緒でオーストラリアから日本に帰って来たでしょう?」
「帰って来てないよ」 
なにを言い出すのか見当もつかない。
「いまさらとぼけなくてもいいんだよ」
恵は静かに笑った。
「とぼけてないって」
「学園祭の前の夜、軽音楽部のみんなと晩ご飯を食べに行って部室に戻ってきたとき、見ちゃったんだよ。ケンジ、オーストラリアから戻って来たばかりみたいで、涼しいのにTシャツ一枚だった」 
ケンジと葉月は顔を見合わせた。
「プールのそばのベンチで女の子と一緒にいた。私、びっくりして身体が動かなかった。そしたら・・・・そしたらキスをしたんだ。私、もうなにがなんだかわからなくて、なんとか頑張って学園祭のライブはこなしたんだけど、耐えられなくてワープしちゃったんだ」
「それ、あたしじゃん!」
恵の肩を抱いていた葉月が大声を上げて恵から飛び退いた。
「なんのこと?」
恵はポカンとした顔をした。 
ケンジが事情を説明すると恵は激しくショックを受けたようだった。 
しかしケンジは訳がわからなかった。恵が消えたきっかけを作ったのは、恵の行方を葉月と探しに行ったこの前のタイムワープだというのか。
「時間の流れがおかしくないか? いや、そもそもタイムワープ自体、時間の流れを無視してるけどさ。それにしても話が逆な気がするんだけどな」
ケンジは誰に言うとでもなくつぶやいた。
「ふたりを目撃して衝動的にタイムワープしたのは事実だけど・・・・」
恵が前髪をかき上げるようにしながら口を開いた。
「でも、それがなくても私はタイムワープをするつもりだった。葉月を産むためにはそうするしかないと思っていたから。多分、タイムワープする日が2、3日早まっただけなんだと思う」 
救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
「葉月、もう10時すぎだけど時間は大丈夫なの?」恵が聞いた。
「こっちに来たのか昨日の夜9時だから・・・・もう3時間切ってるじゃん!」 
1時までに鳥居を潜らないと二十世紀に戻れなくなってしまう。
「クルマをつかまえて帰ろう」
葉月がケンジの腕を引っ張る。
「私も川越に帰る」
恵もついてくる。
「俺も!」
道路を渡るケンジたちを小林が追いかけて来た。
「ついてくんな! Aコードも弾けないくせにギタリストぶってるんじゃねえ」 
ケンジが怒鳴ると小林はハッとした顔をして、まじまじとケンジの顔を見た。
「お前、そういや旭高にいたケンジに似てるな。ケンジの息子か?」 
ケンジは小林を無視して走ってくるクルマに手を挙げた。しかし、どのクルマの運転手も道路の反対側に停められたバスに気を取られてケンジたちに気がつかない。 
やがて救急車、パトカーも到着して、あたりは騒然としてきた。
「ここじゃ無理だ。場所を移動しよう」 
ケンジたちは道路を下り方向に歩いて行った。ついさっき必死の思いで曲がった急カーブを通り過ぎてしばらく行ったところで、後ろから走ってきた赤いクルマに手をあげた。 
クルマは目の前で止まった。乗っていたのは二十代後半くらいのカップルで、幸いにも後部座席には誰もいない。聞くと、東松山まで帰るのでそこまでなら乗せて行ってもいいと言う。
東松山は川越の手前で川越までまだ20キロ近くある。それでもせっかく止まってくれたクルマを逃す気にならなかったので乗せてもらうことにした。 
クルマの屋根の上にスキー板が載っているのかと思ったが、よく見るとものすごく太くて短い板だ。ケンジはその正体を知りたくてウズウズしたが、バカにされそうな気がして質問するのを我慢した。 
後部座席にケンジを真ん中にして座る。クルマに付いたデジタルの時計を見ると10時半だ。タイムリミットまでジャスト2時間半。ここまで来るのにかかった時間を考えると、このまま川越に直行してももう無理かもしれない。東松山で降ろされたら間違いなくアウトだ。 
ケンジは気持ちが焦りながらも、一方で間に合わなければいいのに、と思う自分もいた。間に合わずにこのまま二十一世紀で恵と葉月と一緒に暮らす。もしかしたら二十世紀で暮らすよりずっと楽しいかもしれない。この時代のどこかに小林みたいに醜いオヤジになった自分が住んでいるだろうが、そんなヤツは放っておけばいい。 
しかし恵はどうだろう。自分の娘と同い年のケンジがいて、果たして恵は幸せだろうか。
「いっそのこと、こっちで暮らす?」
ケンジの気持ちの逡巡を見透かしたかのように葉月が言う。
「こっちにインベーダーゲームがあればな」
わざと軽口で返す。
「マジ? あきれた。インベーダーゲームごときで決めるわけ?」
「ほかの時代で生きていくのって、すごくしんどいんだよ」
恵が静かに言った。 
きっと、二十一世紀でつらい思いをたくさんしてきたに違いない。ケンジは思わず恵の手を握った。その温かくて小さな手は、ケンジの手が記憶している高校生の恵の手とまったく変わっていなかった。
「インベーダーゲームならあるよ」
運転していた男が振り返って、話に割り込んできた。
「昔のゲームばかり集めたサイトでやったことあるわ。まあ、超かったるいゲームだけどな」 
ケンジはなにも言わなかった。二十世紀のことをバカにされるのにはもう慣れた。
「3人はどういう関係?」
男が探りを入れてくる。
「どういう関係に見える?」
葉月がはしゃいだ声で質問を返す。
「絶対当たらないと思うけど」
「うーん」
ルームミラー越しに男と目が合う。 
助手席の女が振り返ってしばらくケンジたちを眺めてから言った。
「大学のサークル仲間とそのサークルのOGとか・・・・」
「実はなんと・・・・」 
調子に乗って話そうとする葉月の脇腹を思い切り突っついた。 
葉月と前席のカップルは音楽の話で盛り上がり始めた。知らないと言う2人に、葉月はセックス・ピストルズの素晴らしさをとうとうと語っている。
「なあ、一緒に帰らないか」
恵に小声でささやく。
「私はもう戻れないの。もうタイムワープする能力がないんだよ」
恵は窓の外を見たまま言う。
「葉月と一緒なら戻れるだろう?」 
ケンジが言うと、恵はケンジに振り向いて首を横に振った。
「そういう問題じゃないの。1998年のクリスマスの朝、私、決めたんだ。自分で選んだ時代なんだからこの時代で生きていこうって。生きる時代なんて誰も選べないのに、私は自分で選んだんだよ。だから私はこの時代で生きていかなければならないし、この時代で葉月を育てる義務があるの。葉月は二十一世紀の女の子なんだよ」
恵はそう言うとかすかに微笑んだ。
「人生はやり直しはきかないんだ。まだ若いケンジ君も、そのことだけは覚えておいて」 
そう言われてしまうと返す言葉がなかった。 
隣では葉月がおしゃべりを続けている。
「実はあたしのお父さん、高校時代からタバコたくさん吸っててタバコの吸いすぎで肺がんになっちゃってさ」
「なんだよ、話が超飛ぶな」
運転している男があきれた声を上げる。
「まあ、聞いてよ」
「いまどき珍しいヘビースモーカーってわけか」
「で、さっき危篤だって連絡が入ったの。だから急いでるの。悪いけど川越まで飛ばしてくれないかな」
「そうなんだ・・・・」
男の口調が変わった。 葉月の適当な嘘を信じたらしい。男はリアクションに困った顔をしている。
「行ってあげようよ、川越まで」
隣の女が言う。
「じゃあ川越まで飛ばすか!」
「ありがとー!」
葉月が歓声を上げる。とても父親が危篤だという人間のノリではない。 
しばらくして関越にのるとクルマはスピードを上げた。 
右手のあたりがもぞもぞしたかと思うと葉月が手を握ってきた。ケンジは左手を恵と、右手を葉月と手をつなぐ格好になった。 
親子3人で手をつなぐなんてよくやることだろう。でもケンジは複雑な気持ちだった。指を絡ませた葉月の手の握り方は、父親に対する握り方ではなかったからだ。 
川越公園の入口に着いたのは1時3分前だった。病院ではなく公園の前で降りたケンジたちをカップルはいぶかしげに見ていたが、そんなことより昼を過ぎて空腹に耐えられなかったらしく、挨拶もそこそこに走り去って行った。
「じゃあケンジ、元気でね」
恵が軽く手を挙げる。
「ちょっと待てよ。やっぱ恵も来いよ!」
ケンジは恵の腕をつかんだ。
「痛いって」
恵は大げさに顔をしかめて腕を振り払った。
「無理だって言ってるでしょ? だいたい私、年下って興味ないんだ。あきらめて」
「ケンジやめなよ、嫌がってるじゃん。お母さんにひどいことしないでよ」
「うるせえな。関係ないヤツは黙ってろよ」
ケンジはカチンとして言った。
「ひどい」
葉月は一瞬ひどく悲しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直して「また話し合う機会はあるよ。とにかく行くよ」と静かに言った。 
後ろ髪引かれる思いで恵を残して公園を走った。真冬の公園は人影はなく寒々としている。 
葉月に腕を引っ張られるようにして鳥居を潜った。 
途端に世界はブラックアウトしてケンジたちは風に舞った。


第14話「このダウン、記念にもらってもいい?」 

着いた先は夜だった。相変わらず寒い。しかも雪まで降っている。思わず身震いした。
「おい、なんだこの寒さは? 思いっきりずれただろ?」
「ずれてないもんね。最近あたし、タイムワープの能力が格段に上がったんだ」
「じゃあなんで雪が降っているんだよ」
「冬なんだから雪だって降るでしょ」
「1979年の8月に戻って来たんじゃないのかよ」
「ぶっぶ〜、ハズレ」
ケンジをからかうように笑う。
「いまは1998年の12月24日なのです!」
「なんだそれ? なんでそんな中途半端な戻り方をすんだよ」 
葉月は腕を組み、あきれた顔をしてケンジを見た。
「ケンジったら、やっぱバカじゃね? 1998年12月24日はお母さんがタイムワープして来た日だってさっき言ってたじゃん」
「そうか・・・・」
「ここで待っていれば、もうすぐお母さんがやって来るよ」
「でも2日、3日ずれてるだろ?」
「大丈夫。間違いなく今日は12月24日、クリスマスイブだよ」
「なんでわかる?」 
ケンジが言うと葉月は「ほら」と言って指差した。指差したほうを見ると、公園の脇にこじんまりした一軒家があった。その窓越しにイルミネーションが点滅しているのが見える。クリスマスツリーらしい。きっといまは、家族でパーティーをしているのだろう。
「もうすぐ来るよ、お母さん。ケンジ、きちんと謝って仲直りしなきゃ。それで1979年の夏に連れ帰っちゃいなよ。お母さん、明日の朝になったら帰らないって決めちゃうんだから、それまでが勝負だよ」 
クルマのなかの恵との会話を聞いていたらしい。
「でも、恵の親もじいちゃんもばあちゃんも、みんな恵が子どもを産むのを反対してんだろ?」
「あたしだって、ケンジの時代に行って遊び回っていただけじゃないんだから。この前、火縄銃の練習の前に実家に行ってみたんだよね。その本殿の奥に実家が建っているんだけどさ」
そう言って葉月は本殿を指差す。
「ひいおばあちゃん、ひいおじいちゃんに会ったよ。ひ孫が突然現れてビックリされたけどさ」
「名乗ったのか? ひ孫だって」
ケンジは葉月の大胆な行動にビックリした。
「うん」
「信用したか?」
「したよ、もちろん。タイムワープの家系だからね」
「そうか」
「それでさ、あたしってやっぱ可愛いじゃん?」
「知らねえよ」
「ひいおばあちゃんもひいおじいちゃんもあたしが産まれる前に死んじゃうから、将来あたしに会えないんだよって言ってやったんだ。かわいそうだけど」
「ひでえな。なんでそんなひどいこと言うんだよ?」
「ケンジはホント理解力ないよな」葉月が舌打ちする。
「もったいつけないで早く言えよ。寒くてしょうがないんだからよ」
ケンジは足踏みをしながら言った。
「可愛いあたしを見ちゃったからさ、死ぬ前にひ孫に会いたくなっているんだよ、2人とも。だからさ、いまからお母さんが来るでしょ? ケンジは謝って、すぐにお母さんを連れ帰ればいいんだよ。家族も納得させたって言えば大丈夫だよ。みんな許してくれるはずだよ。ひいおばあちゃんもひいおじいちゃんも、お母さんの親を説得しとくって言ってたし。だいたいケンジの時代に帰ったって、お母さん、すでに十か月も家出してたことになるんだから、みんな懲りてるはずだよ」 
葉月はそう言うと参道を歩き出した。
「おい、どこ行くんだよ?」
「戻るときはせっかくだからお母さんとふたりで帰んなよ。あたし、先に行って待ってるから」
「だって恵はタイムワープできないだろ?」
「今夜は大丈夫だよ。8時間たつまでは」 
言われてみればそうだった。
葉月はケンジに背を向け、参道を歩いて行く。
「でも、どうやってここに来たって恵に説明すればいいんだよ」 
葉月は再び振り返ってあきれた顔をする。
「ホント、世話が焼けるね。タイムワープできる人はうちの家系以外にも結構いるんだよ。そういう人に偶然出会って連れて来てもらったって言えばいいじゃん。あ、キスしてるのを見られてるからすぐに許してくれないかもしれないけど、その子から一方的にされたって言えばいいよ。実際そうなんだし」 
葉月はそう言うと目を伏せたまま声を出さずに笑った。 
ケンジは未来にひとり取り残される不安に押しつぶされそうになりながら葉月を見送った。葉月は両方の手のひらを口に添えて「がんばれ、お父さん」と言うと、鳥居に向かって走り出した。そして鳥居を潜った瞬間、突風が吹き、姿を消した。
 
ケンジは本殿の階段に座って震えながら恵が現れるのを待った。 
一時間もたった頃、音もなく降っていた雪が、突然鳥居のあたりだけ吹雪のように舞い上がったかと思うとすぐに収まった。 
そこに恵が立っていた。高校生の恵だ。ライトブラウンのダッフルコートはケンジにも見覚えがあった。思いつめた顔をしている。 
恵はしばらく雪が降ってくる夜空を見上げていたが、身体の向きを変えて公園の出口に向かって参道を歩き出した。
「恵!」
その背中に呼びかけた。 
恵はビクンと身体を震わせて振り返った。ケンジは恵に走り寄った。
「ケンジ・・・・なんでケンジがここにいるの?」 
驚く恵にケンジは葉月に言われたように説明した。そしていままで連絡しなかったことを謝った。 
恵はすぐに泣き出した。そして妊娠したことを告げた。
「一緒に戻ろう。ふたりで子どもを育てよう」 
ケンジと恵、そして葉月の3人で暮らすのだ。もちろん大変なことも多いだろうけど、3人なら乗り越えられるはずだ。 
恵はケンジに抱きついて子どもみたいに泣き続けた。その泣き顔はさっき見た2017年の恵の泣き顔とまったく同じだった。
何歳になっても泣き顔は変わらないんだなと、ケンジは恵を抱きしめながら思った。 

恵と一緒にワープして着いた先も夜だった。しかし一転して暑い。 
1979年の夏、ここはケンジの時代だ。そして今日からは恵と葉月の時代になる。
「知り合い?」 
恵の視線を追うとブランコに座っていた葉月が立ち上がって手を振った。
恵は本当はタイムワープの才能があるのかもしれない。まだ2回目のはずなのに、ピタリと目指す日に着いた。
「彼女が俺を未来に連れてってくれたんだ」
「そうなんだ」
恵は葉月に軽く会釈する。
「ケンジにキスした子ね」 
恵は複雑そうな顔をして近づいて来る葉月を眺めていたが、
「じゃあ、まずはおじいちゃん、おばあちゃんに会って来る。ケンジはここで待ってて。後で呼ぶから」
それだけ言うと神社に向かった。
「あーっ、ちょっと待って!」
葉月が駆け寄ってきた。
「なんですか」
恵がいぶかしげな顔をして振り返る。 
葉月は斜め掛けバッグからステンレス製らしき棒を取り出してスマホに取り付けている。
「なんなんだよ? 恵はいまそれどころじゃないんだ」
「恵さん、記念に3人でジドリさせてもらっていいですか」
「地鶏だと? なんで鶏が出てくるんだよ」
「もう、ケンジは最後まで訳わかんないって」
「あなたがケンジをタイムワープさせてくれたのね。どうもありがとう」 
恵が頭を下げると葉月は「全然大したことないっす」と言って照れた。
「あなたは何年の人?」
「あたしは2017年の高校3年生」 
葉月がそう言うと恵は複雑な顔をしてケンジを見た。
「ケンジももう高3なんだよね。私だけひとつ下か・・・・」
「ひとつくらいあってないようなもん。じゃあ撮りますよ」 
葉月はそう言うとケンジと恵の間に立ち、スマホが先端に付いた棒を前に突き出した。シャッター音がする。画面を見ると、葉月を真ん中にしてケンジと恵のスリーショットが写し出されている。画面の中のケンジと恵は困惑顔をしているが、葉月だけが満面の笑みでピースサインをしている。 
知らない人が見たら高校生の友だち同士で撮った写真にしか見えないだろうが、れっきとした家族写真だ。
「あたし、こうやって写真を撮るのが夢だったんだよね」
葉月はうつむいて写真を見つめている。
「じゃあ私、行くから」
恵が背を向けた。


「良かったねケンジ、お母さんとよりを戻せて」
離れて行く恵の背中を見送りながら葉月が言う。
「まだわかんないけどな」
「大丈夫だって。きっとすべてうまく行くよ。でも、お母さんのこと、これからは大切にしなきゃだめだよ。幸せって、いい加減に付き合っているとすぐに遠くに行っちゃうんだからね。そう、二十一世紀の彼方まで」
「ああ、わかったよ」
「じゃああたしはとりあえず二十一世紀に帰るわ」
「じゃあ、またな」
ケンジは軽く右手を上げた。 
葉月は参道を歩いていき、ケンジは腰を下ろして恵を待つつもりでさっきまで葉月が座っていたブランコに向かった。
「ねえ、ケンジ」 
葉月に呼び止められて振り返った。
「このダウン、記念にもらってもいい?」
葉月は暑いのにケンジのダウンを着たままだった。
「ああいいよ。二十世紀の土産にしろよ」 
暗くてよく見えなかったが、葉月は泣いているみたいだった。子どもみたいにしゃくりあげている。
「なんだよお前、泣いてんのかよ。泣き虫だな。もうこれでオールオッケーだって。これからはみんなで楽しくバンドやりながら暮らそうぜ」
葉月はなにも言わずにうなずいた。
「とりあえずは明日のEAST WESTだ。優勝目指してがんばろうぜ」
ケンジは手を振って、再びブランコに向かった。 
ブランコのところまで来て、ケンジは急に不安に襲われて振り返って葉月を見た。 
葉月はスタートラインに立つ短距離走者のように鳥居に向かって立っていた。
「なあ、葉月」
ケンジは大声で呼びかけた。
「恵がこの時代に戻ってきちゃったら葉月はどうなるんだよ? ちゃんとこの世界にいられるんだよな?」
「じゃあねー、ケンジ!」
葉月が叫んだ。そして鳥居に向かって走り出す。
「葉月!」 
いてもたってもいられずにケンジも鳥居に向かって駆け出した。 
葉月は走りながらケンジのほうを向き、静かに微笑んだ。 
それは、本当に信じられないくらい優しい微笑みだった。旭高校のプール脇のベンチで、ケンジにキスしたときに浮かべていた微笑みと一緒だった。
あのときは葉月を恵と間違えてしまった。でも、いまならわかる。葉月の微笑みは恵とは違う魅力があった。
「葉月ーっ!」 
ケンジは鳥居をくぐる前に葉月をつかまえようと、右腕を葉月のほうに思いきり突き出した。 
その瞬間、走っていた葉月の姿が消えた。鳥居までまだ3メートル以上あった。風はそよとも吹かなかった。
「葉月!」 
叫びながら葉月が消えた場所に駆け寄った。あたりを見渡しても葉月の姿はない。 
きっとタイムワープするタイミングが早かっただけだ。ケンジはそう自分に言い聞かせたが、心臓が破裂しそうなほど高鳴っていた。 
足元になにか落ちているのに気がついた。かがんで拾い上げると葉月のスマホだった。落ちたときの衝撃だろう、画面にヒビが入っている。 
画面にはさっき撮ったばかりの写真が写し出されていた。しかし、写っているのはケンジと恵だけで真ん中にいるはずの葉月の姿はなかった。
「葉月、明日はEAST WESTなんだよ!」 
ケンジはスマホの画面を顔に近づけて叫んだ。しかし、恵とケンジの間に、葉月の姿が浮かび上がってくることはなかった。
〈もう、ケンジは最後まで訳わかんないって〉 
この写真を撮るとき、ケンジが「ジドリ」のことを突っ込むと、葉月がそう言い返したことを思い出した。
「葉月、お前、最後ってどういう意味だよ・・・・」 
ケンジはスマホを強く握りしめた。 
葉月の手を握り締めるように。


第15話 Hazuki did it her way.

「ケンジ!」 
葉月の呼ぶ声がした。 
あわてて立ち上がり、あたりを見回した。恵が駆け寄ってきた。ケンジを呼んだのは葉月ではなく恵だったらしい。
「ケンジ、許してもらえたよ。お父さん、お母さんも一緒にいて、みんな産んでいいって。なんだか拍子抜けしちゃった」
恵は目に涙を浮かべている。
「一緒に来て」 
ケンジは葉月のスマホをそっとポケットに入れて、恵とともにその場を離れた。
神社の本殿には恵の両親、祖父母がそろっていた。恵の祖父母に会うのは初めてだったが、祖父は見た目も話し方もまったく普通の、気のいいおじいさんという印象だった。 
一方、神主が着るような形をした真っ赤な装束をまとった祖母は、普通じゃないオーラが出ていた。 
4人とも「私たちは了解したから早いところそちらのご両親に報告を」と口を揃えて言うので、ケンジは停めていた自転車の荷台に恵を乗せて自宅に向かった。
「ケンジのご両親、大丈夫かな」
後ろで恵が不安そうな声を出す。 
街灯が少ない川沿いの道は騒がしいくらい虫の声がした。
「大丈夫だよ。心配するな」 
そう言いながらもケンジはまだ気持ちの整理がついていなかった。ちょっと前まで、こうやって自転車の2人乗りをしてケンジの腰に腕を回していたのは葉月だったのだ。 
ケンジの家族も、当然驚きはしたけれど拍子抜けするほどあっさりと二人の結婚と出産を承諾した。 
ばあちゃんは「可愛いひ孫に会えたと思ったらケンジの嫁さんにも会えるなんて、長生きして良かった」と言って泣いた。みんな、ばあちゃんのボケがまた進行したか、と顔をしかめたけれど、ケンジだけはばあちゃんの言葉が胸に響いた。 

翌日。
ついにEAST WESTの日がやって来た。 
バンドのみんなとは会場の市民会館に9時に待ち合わせをしていたが、ケンジはギターケースをしょって6時に家を出た。前の晩はベッドのなかで寝返りを打つばかりで、一睡も出来なかった。 
昨夜恵を乗せて走った川沿いの道をひとり自転車で走り、川越公園に向かった。 
早朝の公園は誰もいなかった。裏山に登り、ギターを弾きながら葉月を待った。 
あれだけ楽しみにしていて、あれだけ熱心に練習したのだから、葉月がEAST WESTに来ないなんて考えられなかった。 
ヒグラシが静かに鳴いていた。空は高く晴れ渡り、心地よい風がかすかに吹いている。夏が密かに立ち去ろうとしているようだった。
9時になっても葉月は現れなかった。ケンジはあきらめて自転車にまたがった。二十分遅刻して会場の市民会館に着いた。 
入口で清水、岩澤、国井が座り込んでいた。
「おせーよ!」
清水が口を尖らせた。 
清水はギターケースを持っていなかった。
「おい、エクスプローラーはどうした? やっぱり親父から返してもらえなかったのか?」 
ケンジが聞くと、清水は「なんだよ、エクスプローラーってよ?」ときょとんとした顔をした。
「じゃあ、行こうぜ」 
岩澤がベースをしょって立ち上がり、清水、国井も立ち上がった。 
どうやら火縄銃のメンバーは全員そろったらしい。ケンジはみんなの後を歩きながら、たまらない気持ちになった。自分が間違った時代の間違った世界にいるような気分だった。
「大丈夫か、ケンジ? 顔色が悪いぞ」
国井が振り返って顔をのぞきこむ。
「ああ」
「緊張してんだろ? パンクじゃねえな、ケンジは」
清水が茶化す。 
プログラムを見ると、コンテストに出場するバンドは全部で十組、火縄銃の出番は七番目だ。 
火縄銃の演目には「踏切」「MY WAY」と書いてある。葉月が詞を書いた「インスタLOVE」は清水が詞を作って「踏切」という曲になったのだろう。 
もう、この世界に葉月がいないことは明らかだった。それでもケンジは舞台裏で来るはずもない葉月を待ち続けた。


葉月が現れないまま、ついに出番がやって来た。
司会者が「火縄銃!」と声を上げる。ケンジたちは走ってステージに出て行く。国井がスティックでカウントを取り、「踏切」がスタートする。 
やはり「踏切」は歌詞以外すべて「インスタLOVE」そのままだった。 
清水はいつ買ったのか黒のレザーパンツを履いている。ケンジと岩澤はスリムのGパン、国井は相変わらずベルボトムジーンズだ。 
ギターを弾きながら観客席に目をやった。広い客席は出場するバンドの知り合いがいるばかりでガラガラだった。
恵が手を振っているのが見える。 
この曲を清水が歌うのを初めて聴いたが、かなり練習したのだろう、なかなか上手い。でも、葉月のほうがいいと思う。歌詞も「インスタLOVE」のほうがかっこ良かった。 
2曲目は「MY WAY」だ。 
ギターのアルペジオだけで歌う冒頭のパートで、緊張しているのか清水は音程を外して会場から失笑が漏れた。清水は悪ぶってはいるが、小心者なのだ。 
ケンジはその失笑をかき消すように派手にピックスクラッチを決めてから、激しくリズムを刻む。国井がスネアドラムを連打して岩澤のベースがそれに絡んだ。 
清水が飛び跳ねた。 

その瞬間、清水の姿に葉月が重なった。 

葉月はジョニー・ロットンの顔がプリントされた長袖の白いTシャツに黒いエナメルのミニスカートを履いている。足元は赤いピンヒールだ。
さっきまで歌っていた清水は、いつの間にか葉月の向こう側でエクスプローラーを弾いている。
「I did it my way」
「way」を「ウェイ」ではなく「ワイ」と発音するのがシド・ヴィシャスバージョンだ。
葉月は「マイワイ!」と叫んでから高く飛び跳ねた。
いままで見たことがない高さだった。
葉月は自分がこの世界から消えてしまうのがわかっていて、ケンジと恵の仲を取り持ったのだろうか。
「I did it my way」
葉月が繰り返す。


それが葉月のやり方、か。


気がつくと葉月は消え、清水が座り込んで歌っていた。
客席がぼやけて来た。 
泣きながらパンクを演奏するなんてすごく間違っていると思う。でも、ケンジは涙を抑えることが出来なかった。


           エピローグ・・・・1999年・・・・ 

1979年の夏、僕たち火縄銃はEAST WESTの川越大会に出場して審査員特別賞をもらった。優勝したわけではないので、埼玉大会に進むことはかなわず、僕たちの高校時代最後の夏は終わった。 
僕の両親は恵とのことをあっさり認めてくれたけれど、唯一出された条件は、大学は出ること、そして、授業料は出すけれど、生活費は自分で稼ぐということだった。
親にしてみれば、恵の妊娠はダラダラと毎日を過ごしている息子が立ち直る絶好のチャンスに見えたのかもしれない。 
僕たちはEAST WESTの翌日に婚姻届を出した。一緒に暮らすのは高校を卒業してからということにした。 
恵の出産予定日は8月ではなく翌年の4月だった。恵は子育てが一段落したら大学に進学するかどうか考えると言って、高校卒業後はしばらく育児に専念する道を選んだ。 
彼女はもともと僕とは比べものにならないくらい勉強ができたが、高校2年の2学期の途中から高校3年の1学期までをタイムワープしてすっ飛ばしていたので、実際問題、彼女も勉強が追い付いていない状況だった。 
僕はすぐに猛勉強を始めた。浪人なんかしている場合じゃない。わからないことはすべて恵に聞いた。恵にもわからなければ二人で参考書を調べた。そしてなんとかそこそこの大学に合格することが出来た。
 僕が大学生になった春に恵は出産した。生まれて来たのは男の子だった。もしかしたら、という僕のかすかな期待はもろくも崩れ去った。もちろん息子は可愛かったけれど。 
なぜ、女の子ではなく男の子が生まれたのだろう。恵が1998年にとどまることなく1979年に戻ってきたことで、彼女の身体のなかでも歴史の改変が起きたということだろうか。
葉月はやはり二十一世紀の女の子だったのかもしれない。 
タイムワープしてきた葉月に会って、死ぬ前にひ孫に会いたくなった恵のおじいちゃん、おばあちゃんは、生まれてきた子を見て「男の子は可愛いねえ」と大喜びした。 
僕のばあちゃんは恵が出産する二日前に風邪をこじらせて入院し、恵が出産した三日後にこの世を去った。 
僕は恵の出産に立ち会った後、その足でばあちゃんが入院している病院に男の子が生まれたことを報告に行ったけれど、意識が混濁していたばあちゃんに反応はなかった。 
生まれて来た息子に僕は「発起」と名づけた。普通は「ほっき」と読むけれど、「はつき」と読ませる。 
僕と恵は発起の妹が欲しいと思ったけれど、残念ながら2人目は授からなかった。 
こうして、恵の家系の特殊な能力は恵の代で途絶えることになった。
葉月のことはみんなの記憶から消えてしまった。葉月を産む前に僕の時代に戻ってきた恵はもちろん、葉月に会ったことがある恵の祖父母、そして葉月とバンドを組んでいた火縄銃のメンバーも、みんな葉月のことを忘れてしまった。それなのに僕の頭のなかの葉月は時がたっても決して色あせることはない。 
僕は・・・・僕は、葉月がいる世界を改変して葉月がいない世界を作った当事者だということなのだろう。

 もうすぐ1999年の夏がやって来る。僕は三十八歳で、立派な中年だ。おなかも出てきた。恵は三十七歳。僕と同い年だから今度の誕生日が来たら三十八歳になるが、タイムワープで一年近くすっ飛ばしているので、実際はまだ三十六歳ということになる。そう、恵はスキーバスの事故から僕と葉月が救ったときの年齢になったのだ。 
結婚して二十年。僕たちは高校生の頃と変わらずに仲がいい。いつか葉月に言われたように、恵のことはとても大切にしているつもりだ。もちろん浮気なんかしたことはない。
 息子の発起はなんともう十九歳だ。僕が火縄銃でギターを弾いていた年齢を超えてしまった。時がたつのは本当に速い。 
ちなみに、僕たちの娘だった葉月のことは恵に伝えていない。ひどく悲しむに決まっているから。恵を悲しませるのは僕だってつらい。 
しかし一方で、葉月のことを恵に知ってほしいと思う僕がいる。僕たちを結びつけるために自ら消えて行った僕たちの大切な娘のことを。 
悩んだ末に僕は決めた。いまから二十年後、葉月がハタチになるはずの2019年になったら、葉月のことを伝えよう、と。 
恵に伝えたら、葉月と一緒に火縄銃を組んでいたメンバーにも葉月のことを伝えたいと思う。みんなが忘れてしまった、火縄銃の5人目のメンバーのことを。
 1999年7月に人類は滅亡する。果たして、ノストラダムスのこの大予言は当たるのか。いま、ちまたではその話題で持ちきりだ。でも僕だけはそれが外れることを知っている。
僕にとって1999年の夏はノストラダムスの大予言の夏ではなく、葉月が生まれる記念すべき夏だ。
 ノストラダムスの大予言は外れるけれど、一方で僕の嫌な予感は当たってしまった。僕は結局銀行に就職した。嫌な予感通り、顧客の苦情にペコペコすることもしょっちゅうだ。でも、それなりにやりがいがある仕事なのでまあ良かったかなと思っている。 
狂乱のバブル時代が過ぎ、その傷に苦しんだ時代も終わった。僕はいつか葉月が解説してくれたおかげで、バブルに踊らされることなく過ごすことが出来たと思う。 
それは結果的に銀行員としての出世を放棄することに繋がったけれど、僕は後悔していない。去年死んだ僕の親父だって、出世街道からは外れていたけれど、きっと誇りを持って仕事をしていたのだろうと、いまならわかる。
 ドラムの国井は年賀状のやり取りをしているだけで高校卒業以来一度も会ってないが、テレビ局の制作会社に勤めている。奥さんに出て行かれてしばらく落ち込んでいた時期もあったらしいが、その後十歳以上年下の女の子と再婚して娘が二人生まれた。 
今年の正月に来た年賀状には家族写真が印刷され、「国井弘 優香(二十五歳) 亜里沙(三歳) 理央奈(一歳) ペス(一歳)」と書かれていた。 
ペットの名前を入れていることに笑い、芸能人みたいな娘の名前に笑い、奥さんにまで年齢を入れていることに大笑いした。 
ボーカルの清水は一浪して結局歯科大に進学したものの、3年で退学してしまった。
僕が付き合いがあったのはこの頃までで、そこから先はうわさ話でしかない。 
大学を辞めたことで親とは絶縁状態になったらしい。その後、いくつか職を転々とした後にコンピューター関連の会社に勤めていたらしいが、3年前に自殺してしまった。 
過労が原因らしいが、はっきりしたことはわからない。独身のままだった。僕がそのことを知ったのはごく最近のことだ。 
僕は社会人になってから何度か清水に連絡を取ろうと思ったことがある。でも結局忙しさにかまけて一度もしなかった。悔やんでももう遅い。僕には未来に行くことも過去に戻ることもできないのだから。
 清水が死んだことを僕に教えてくれたのはベースの岩澤だ。僕は今年の4月に飯能支店に転勤になり、そのおかげで岩澤との仲が復活した。 
岩澤は飯能にある実家の材木店を継いでいた。岩澤は僕の大切な顧客であると同時に、しょっちゅう飲みに行ってバカ話をし合う大切な友人になった。 
いや、飲みに行くと言っても飲むのは僕だけで岩澤は一滴も飲まない。高校時代は飲んでいたのに。
あるとき僕がその理由を聞くと、岩澤はこんな話をしてくれた。
「死んだ親父がさ、すごい酒が好きで、毎日たくさん飲んでいたんだけど、俺が高校3年生のとき、ぴたりと飲むのをやめたんだよ。それで、飲まなくなって1週間くらいたった頃だったかな。不思議だったから理由を聞いてみたんだ。そしたら・・・・」 
岩澤の親父は所沢駅で会った女の子の話をしたと言う。その子のおかげで盗難の被害を免れた、と。
「家族を養っているんだからしっかりしなさいって、そのとき酔っ払っていた親父はすごく怒られたらしいわ。自分の子どもの年齢くらいの女の子にね。大切な人のことをいちばんに考えて行動しなさいって。いいこと言うよね。それで酒をやめたんだって」 
僕はあっけに取られて笑いながら話す岩澤を見つめていた。信じられなかった。葉月がいなくなったこの世界に、葉月がいた痕跡が残っているなんて。
「ところがこのいい話にはものすごい落ちがあってさ」
岩澤はそう言って笑い、ウーロン茶のグラスに口をつけた。
「俺も親父に習って子どもが生まれたタイミングで酒をやめたんだけど、そのとき、所沢駅の女の子の話を親父にしたんだよ。そしたら親父、『なんだそれ?』ってポカンとしてさ、『そんな話は知らん』って。親父によると、俺が高校3年生のときに実際に所沢駅で盗難にあったんだそうだよ。心配かけないように俺には言わなかったらしいんだけど、それで金回りが厳しくなって泣く泣く酒を止めただけだって。意味わかんないよ。あのとき、確かに親父は女の子のことを言ってたんだけどな」 
葉月と僕の手で歴史が改変された所沢駅の盗難事件は復活してしまったけれど、葉月が消える前に親父から葉月の話を聞いた岩澤の記憶だけは消去されることなくそのまま残ったということだろうか。僕はその日ほど岩澤と再会できて良かったと思ったことはない。

大切な人のことをいちばんに考えて行動しなさい・・・・。

今日、僕は遅ればせながら携帯電話を手に入れた。今年の初め、携帯電話会社のドコモが、メールのやり取りやネット接続ができるという、画期的なiモードのサービスを始めたことで、誰もが我も我もと携帯電話を手にするようになった。 
ドコモショップで長い時間待たされた後、契約をして差し出された携帯を手にしたとき、あの二十年前の夏の、スマホを手に飛び跳ねていた葉月と、ピストルズになりきっていた田舎の間抜けな4人の男子高校生の姿がフラッシュバックのように脳裏によみがえり、涙があふれて止まらなくなった。
「お客さん、大丈夫ですか?」
目の前で嗚咽を漏らす僕に、若い女の子の店員はぎょっとした顔をした。
「いや、申し訳ない、みっともないところを。念願の携帯電話を手に入れて胸がいっぱいになったもんで・・・・」 
僕がそう言うと、その子は盛んにうなずいて「わかります、わかります。夢の機械ですもんね」と言ってほほ笑んだ。 
その携帯電話は、葉月が持っていたスマホに比べたら全然大したものじゃなかったけれど、僕は「二十一世紀の夜明けは近いですね」と言って笑顔で彼女にうなずき返した。
                                                                                        


                                                   了


        


        




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?