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対話の場づくりやグラフィックファシリテーションの「実践」とはどういうことか考えてみた

こんばんは!昨日は疲れて寝てしまい、連続は途絶えたけれど意味のあるふり返りを大事にしたいのでOK~

さすがに今日は書きたいとおもいます。

今年あと100日のカウントダウンを機に、自分の学び「独学」ができるように、そして人生がもっと楽しめるように、経験の差分をふり返る記録をはじめました。

このnoteのたてつけ

最近の差分
「この出来事は自分にとってどんな意味があったのか?経験前後の自分のちがいは一体何か?」

ー経験と気づき 
わたしは普段、ビジュアルプラクティス(見える化を必要な時に必要な方法で活用すること)をしながら場づくりに関わっています。グラフィックファシリテーションやグラフィックレコーディングは見たり聞いたりしたことある方も増えているように思います。ワークショップで使うことはもちろん、プロジェクトの会議や打ち合わせなどでも使います。

同じ業界の方が投げかけていました。「ファシリテーションやグラフィックなどワークショップの手法は、それらが当初解こうとした問題の一部になりつつあるのではないかと感じます。」

わたしの現場経験は2年ほどで、まだあまり多くの場は知らないけれど、その中で少なからず社会の中で貢献の可能性を感じているからビジュアライズの手段を使い場づくりの実践をしています。その中でこの問いと出会って、問題の一部であるかどうか判別はできないものの、特に話し合いの場を想定し「この時代にグラフィックファシリテーションを使う意義は何か」なんとなく考えながら過ごしています。

グラフィックファシリテーションとは、描いたものが場を活性化するように、話されたことを絵や文字でリアルタイムで目の前で描くことです。場にとって必要な話がなされるように言葉での関わり・問いかけも含みます。

・この時代にあえて記号化する良さはなにか
・手法の影響力の強さから失われやすいものはなにか
・「人」がリアルタイムで対話を可視化することの必要性はあるのか

上記のようなことをポヤポヤと考えていたそんな折、現場に向かう道中にきいていたポッドキャストで、おもしろい表現に出会いました。

実践とは人が責任をもってする行為によって現実の初層が引き出されることである

超相対性理論#175で紹介された哲学者の言葉

哲学でも「実践」という言葉はよく使われてきたようですが、場づくりにおいても「実践」という表現をよく聞きます。

これまでは「実践」は感覚的に、机上の空論ではなく身をもって行うこととして捉えてきました。しかし、場づくりにおける実践はとても哲学よりなのではないかと気づきました。

実践(読み)ジッセン

デジタル大辞泉 「実践」の意味・読み・例文・類語

じっ‐せん【実践】
主義・理論などを実際に自分で行うこと。「理論を実践に移す」
哲学で、
㋐人間の倫理的行為アリストテレスの用法で、カントなどもこの意味で用いる。
人間が外界についてもっている自らの知識に基づき、これに働きかけて変革していく行為マルクスエンゲルスによって明らかにされた意味。

デジタル大辞泉

上記の表現は㋑を言い換えられたものとして捉えました。「場」は、社会の中で何かしら目的があり、必要に駆られてつくられるものだから。そして「場」では話し合いが何らかの形(議論や対話など)でされるけれど、最初の入り口は決まって各人の現実の初層が引き出されあうことからはじめられるのではないか。

複雑といわれる現代においては、現実がどう見えているか、できる限り個人の視点から具体的に話され、多角的に見えてきて初めて、本質的な話し合いのスタート地点に立てるように感じています。

でも、バックグラウンド、価値観、経験値、情報量、立場、言語化のしやすさ、声の大きさ、安心の感じやすさ、考えるスピードなどいろんな差を持ち合わせていることが当たり前の中で、時間に限りがある中で、多角的に現実の初層を「これが初層だね」と共通認識を持つことはなかなか容易ではないと捉えています。

いろんなアプローチ方法が生まれ活用されている中で、グラフィックファシリテーションは、「あなたの現実の初層はこうみえていますか?」「あなたたち・わたしたちの現実の初層は実はこのようです、違和感や、もっとこう、ということはありませんか?」とその場で評価や判断をせず、共有・確認し、合意をとりながらすすめていく。

この時、ただ描くのではなく、事実や感情、価値観や解釈、まだ言葉になっていないものまでどのレベルで話されているのかを押さえて描いたり、目的に合わせて(作為的ではなく脱線しないため、ホールドするために)描くことで解像度が上がっていきます。

結果的に、リアルタイムにレベルを行き来しながら網羅的に話し、合意のうえで進むから納得感のあるスタート地点に立てる。保留事項があったとしても、それが保留であることが合意されている。それゆえに後戻りが少なく、「今、わたしたちが真に話す必要があることはなにか」の対話を始められ、場の立ち上げ人以外の参加者も主体的に目的につながっていきやすい。

そう捉えてみると、グラフィックファシリテーションは、参加者にとっての現実の初層が引き出されることをアフォードする手法のひとつであり、グラフィックファシリテーションを活用した場づくりの実践とは、責任をもって手法がアフォーダンスとなるように行為するということ、と言い換えられそうです。

新しい気づきではないけれど、新しい表現を通じて自分の中で場づくりの解釈、とりわけ対話の場づくりの実践への理解が深まり、現時点での自分の取り組みの意味づけができたように思います。(アフォーダンスはなんとなくいいなという捉え方なのだけど、日本語に言い換えれるといいな)

都合の良い意味付けばかりになっていないかは気になりつつ・・・それはきっと気づくべき時に気づくので、今は主体的な意味づけを優先!
そして「実践」(言い換えると場数を踏む)をこう捉えると、ちゃんと社会の中に身を投じているな~一部だな~と実感。問いについては今後も考えながら実践を積みたいです。

ではまた。

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