【第15話】駅伝主将として臨んだ箱根駅伝予選会。
どうも、川瀬です。この時を思い出すと苦しくてなかなか上手にまとめられなかったのですが、苦しさを思い出せたからこそ当時の心境が書けたかもしれません。
前回は上手くいかなかった関東インカレ、なんとかまとめた全日本大学駅伝予選会について書きました。
今回は夏合宿、そして箱根駅伝予選会です。
7月中頃、春シーズン不調であったり、故障であったりしていた選手なども復帰し、本当の意味でチームみんなの足並みが久しぶりに揃いました。
そして始まった7月合宿。
5月の関東インカレ、6月の全日本大学駅伝予選会、そして7月上旬に全日本インカレの標準記録を狙って3000mSCに出場(9'03"99と9'09"99で標準は切れなかった)していた僕は疲労困憊でした。
それでも過去3年間とは覚悟が違います。インターバルも距離走もしっかり引っ張り切り、繋ぎの日のジョグもかなり頑張りました。この夏は本当に暑く、合宿地でも暑かったですが、弱音は吐かない、チームを鼓舞できるよう発言には気を付けました。
おそらく自分が最初から最後まできちんとこなせた初めての合宿でした。
それでもまだこの合宿は走り込みがメイン。
キツかったですが、いよいよ夏の始まりでした。
8月、2次合宿に突入します。8月合宿は走り込みの中で実戦に近い練習を挟み、筑波大でも僕が入学してから初めての登り坂タイムトライアルを行いました。相馬の圧倒的強さを目にし、相馬に5区を走らせたら面白いことになるんじゃないかと話しながら練習を積み上げました。
試験の都合で僕は行けませんでしたが、ついに選抜メンバーのみの3次合宿、そして9月の全日本インカレを挟んで最後の合宿へと臨みます。
春シーズン不調だった相馬、池田、村上、児玉、2年ぶりに復調してきた金丸、着実に力をつけてきた西、猿橋、渡辺、杉山、伊藤、彗星のごとく現れ練習に参加し始めた山口など、徐々にチームの歯車はかみ合い始め、練習がどんどんと充実していく7月、8月、9月でした。
そう、春シーズンの復調していったチームの流れを汲んで箱根駅伝予選会に臨めたのです。(たった一人を除いて)
そして迎えた箱根駅伝予選会。
チームは17位。箱根駅伝までは8分56秒でした。
個人タイムは65’37。(この年から20㎞からハーフマラソンに変わった)
20㎞換算で25秒ほどしかタイムを伸ばせませんでした。
前年の19位、13分09秒からチームは成長したかもしれませんが、僕には箱根駅伝が近づいた気はしませんでした。結果を求めた1年間でしたが、筑波大から見える箱根駅伝の背中は変わりませんでした。そして駅伝主将、長距離の中で筑波の先頭に立つものとして、死に物狂いで走った1年は25秒しか世界を変えることできませんでした。
変わらぬ遠さ、そして25秒、、、こんなにも中身のない努力があるのかと自分の才能の無さに絶望し、幕を閉じました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・振り返り
駅伝主将としての箱根駅伝予選会でしたが、またしても惨敗です。
この年はかなりバランスよくチームのメンバーがそろったと思います。
エース相馬、準エース池田と金丸、中間層、底上げ組と。
だから思ったより成績が伸びなかったのは一人ひとりのあと少しの一伸びと、4年の川瀬・村上が65分台で終わってしまったことでした。
実際1年間、一生懸命チームを引っ張りました。チームとしては上手くいかないことの方が多かったですが、個人としては意地を見せ続けた1年間でした。駅伝主将になった秋・冬の記録会、みんなが不調の春シーズン、関東インカレ、全日本駅伝予選会、7月の記録会とチームの最前線で走りました。8月末に医学生の全国共通の試験がありましたが、7月の合宿も8月の合宿も休み時間に勉強をしながら、しっかり練習を引っ張りました。チーム全員が練習の目的を達成できるよう声を掛けながら、ペースが荒れないようにしながら。
しかし、9月になり思うように走れなくなりました。朝練習の集団走で自分だけ離れ、ポイント練習の2回に1回をチームの最後尾で一人走っていました。それでも意地で予選会と同じペースで走る練習だけはチームの5番手で走りました。最後は意地しか見せられず、池田に「4年生がもっと練習でちゃんとしてくれないと」なんて言われた記憶もあります。ただ一人、自分だけが走れなくなっていました。
そして予選会での凡走。自分と同様上手くいかなかった同期の村上。
9月以降の後輩たちを見ていると次の年のチームには期待できますし、僕は毎年20秒程度しか伸ばせない選手で、燃え尽きる覚悟1年やって最後65分37秒。もう頑張ってもしょうがないという気持ちになりました。限界だったんだと思います。
箱根駅伝予選会、僕は引退を決意しました。
よろしければサポートよろしくお願いします!!