道徳と背徳のあいだ
皆さまこんにちは。坂竹 央です。
正月ってなぜかクラシックとか教養番組とかヒーリング音楽とか聞きたくなるんですよね。
子どもの頃はエネルギーが有り余っていますから、お笑いとかアッコさんのパチンコのやつとかみて正月籠りのストレスを発散させていたんですけど、人生三合目ともなるとテレビを見ると疲れてしまうようになりました。
そんなこんなで久しぶりにエンヤを聴いていたら「冷静と情熱のあいだ」のテーマソングである「Wild Child」が流れてきました。
映画の内容は全然記憶にないのにタイトルと曲だけはいつまでも記憶に残っています。(この映画が大好きな方スミマセン(汗))
さて、この映画のタイトルのような「相反するものの共存」という課題は実は身近なところにたくさん転がっていると思うのです。
今日お話しするのは、空き缶回収のホームレスさんのことです。
1月4日の早朝。仕事場に向かう途中に資源ごみの回収が再開されるからか年末年始に飲んだんだろうなぁというビール缶がいっぱい詰まったゴミ袋が集積所にあるのを見つけました。
資源ごみ回収日になると無防備に置かれた缶を、息を吸うように自然に持っていく人々がいます。資源ごみは、条例によりけりとは思いますが、たいていは「集積所の資源ごみは条例を制定している自治体に帰属する」となっており、端的に言えば自治体の財産なわけです。
「家庭ごみが財産とはおおげさな」と大抵の方は思うのでしょうが、なかなか実はこの資源ごみは結構な経済価値を有します。
資源ごみも為替のようにレートが変動するらしい、というのは経済学士として興味深いですが、どうやら空き缶は1kgにつき100円程度、空き瓶は1本につきお店によっては5円程度の価値を有するそうです。
瓶は重たい割には費用対効果が悪いので、同じ重さなら空き缶の方が持ち運びやすく金になる、ということでホームレスさんたちが空き缶を重点的に狙うのはなるほど理にかなっております。
「道徳的」に考えれば、資源ごみの抜き取りは条例違反、場合によっては刑法に抵触する恐れもあり実際に検挙された事例もあります。
当然に大手を振って許して良いわけではありませんし、元公人としても私人としても「度を越えた抜き取り行為」に対しては厳しく取り締まりをすべきと考えます。
しかし、実は私は彼らに助けてもらったことがあるのです。
間接的に、ではありますが。
私は大学生のころ、警備員のアルバイトをしていました。
それはある年の大きい都立公園のお花見シーズンの見回り警備の仕事をもらったときです。
当時はコロナもなにもなく、昼間から大声で話し、飲み、大いに桜を愛でても何も言われない良い時代でした。
ビールをはじめ出店もにぎわっておりひと時の花見特需で経済が潤うのはとても良いことですが、問題はその後でした。
ゴミをみんなが公園に捨てて帰るのです。
一部の良心的なグループはちゃんとブルーシートやらゴミやらを持って帰るのですが、大半のグループはお酒が入っていることもあり、公園のごみ箱付近にどさっと捨てるならまだなしな方でひどいグループはポイ捨てしたまま家路につく始末です。
これが花見の最後の日というならまだいいのですが、明日も明後日も花見は続きます。
悪いことに気の大きくなった花見客は汚れた公園の文句を見回りをしているだけの我々警備員にぶつけてくるのです。
本音を言えばこちらだって掃除はしたいのですが、資源ごみですし公園の清掃管理は別の団体が引き受けていますので越権行為をするわけにはいきません。
とても憂鬱でした。
たとえ掃除をすることを許されたとしても、山ほどの量のゴミをどう処理すればいいのでしょうか。このまま明日も理不尽に文句を言われるのだろうか。情けない気持ちで次の日の朝を迎えました。
ところがどうでしょう。
あんなにあったゴミの山がほとんどきれいになっているのです。
特にごみ箱から溢れていた空き缶が重点的に無くなっていて、いつも通りにきちんと使える状態だったのです。
答えはすぐにわかりました。その都立公園の端っこに住まうホームレスたちの「家」に昨日の空き缶などがうず高く積まれていたからです。
おかげで「公園が汚い」だの「ごみ箱が溢れている」だのといったクレームはほとんどなく平和に花見期間中のアルバイトを終えることができました。
私も皆さんもおそらくはホームレスの経験などしたことがなく、経済的に安定した家庭に育って今こうやってネットの情報を見ることができる環境にいます。
正直に言うと、この出来事があるまではホームレスさんたちのことを不潔で社会のお荷物と考えていました。
しかしこの出来事が私の固定概念を変えてくれました。
彼らは社会のお荷物なのでしょうか。
それとも若き日の私を助けたヒーローなのでしょうか。
どちらでもないのでしょう。彼らにとっては世間の風評などどうでもよく、ただ自分たちがホームレス生活することに幸福を感じていて、その生計の手段であったからたまたま花見シーズンの空き缶特需を狙っただけだと思います。
こういうコロナの時代ということもあり、もし望まずにホームレス生活を送っている方が一日の食事を得るために資源ごみを抜き取ったとします。
それを道徳的にあまりにも厳しく取り締まれば行き場をなくした彼らがもっと過激な行為に走る場合もあります。
さながら『レ・ミゼラブル』のジャンバルジャンのように。
彼らの行為を見逃すことは「背徳」行為なのかもしれません。
しかし、場合によっては彼らは人知れず誰かを助けているのかもしれないのです。誰にも分らないその因果を無視して、画一的に「ああだこうだ」と断じるのは果たして良いことなのでしょうか。いい世の中なのでしょうか。
往年の名作ヤクザ映画「県警対組織暴力」では、菅原文太演じる久能刑事が杓子定規に取り締まりを強化する若きエリート警部補・海田に対してこんなセリフを吐きました。
「あの頃はのぉ。上は天皇陛下から下は赤ん坊まで横流しの闇米くろうて生きとったんでえ。あんたもその米で育ったんじゃろうが。おう。きれいづらして法の番人じゃなんじゃ言うんじゃったら、18年前、われがおかした罪(つまり海田が幼いころ闇米を食べて育ったこと)、清算してから、うまい飯くうてみいや」と。
清濁併せ吞む、という言葉もあります。コロナ禍という有事の状態ではありますが何事も「白は白。黒は黒。」と決めてかかるような心構えはやっぱり良くないと思います。
冷静と情熱
道徳と背徳
理性と感情
集積所の空き缶から、経済と法律のあいだで世を治めることの難しさを感じた令和4年1月の仕事始めです。