【生きていくという事】持病との付き合い
持病とどう向き合っていくか
完全完治を望む?
持病は敵?味方?
・生まれつき全く機能しない奇形の腎臓を一つ持っている身体
・難病ベーチェット病
・あることがきっかけで発症したパニック障害
これが、私の大きな持病です。
死を覚悟する恐怖や不安、絶望、
生きていく事を諦めそうになった事、
最終的に私は、選んだ道があった
それは
「生きていきたい」
という事
だから私は今でも生きている
今日のお話は、
2012年に、ある方とのお手紙のやりとりから意を決して情報発信した記事をそのままお伝えし、
あれから、また更に約10年経った今の状況をお話いたします。
持病は、
難病、基礎疾患、腰痛、頭痛、心の病・・・
重症度の違いは関係なく、
その人にとっては、
非常に辛いもの
私の今回のお話で、
少しでも生きるヒントになってくれる方がいらっしゃいましたら幸いです。
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2012年11月28日
持病とのつきあい
今回この記事を書く事にとても勇気を必要としています。
そして、私の持病に対する記事は後にも先にも今回1回限りとします。
その理由と、この様にこの記事をUPする決断をしたことは記事の最後に書きます。
1回しか書かない長文なので、持病などで気が落ちている方などに読んでいただき、私の文章の中のどこかに、一言でも「生きていく希望」を見出して頂ければ本望です。
誰でも人間ですから、身体だって皆それぞれ個性があります。
生まれつきの特色もあれば、生きていくうちについた特色もあります。
私の生まれつきのものは腎臓が一つ奇形で全然機能していない、というものがあります。
お医者さんによく「疲れやすいでしょう」と聞かれますが、生まれつきなので、皆がどれくらいの状態が「疲れる」ということに値しているのか基準を知り様にもないのでわかりません。
ただ、塩分は相当気をつけないとならないのでお漬物は食べない、とか、そういう食べ物の制限はありますが、一つの腎臓は今のところ機能ているので、この一つを大切にしていこうと思い生活しています。
この様に生まれつきのものは、私の場合そんなに大したことではないので、それ程精神的にも支障は来たしておりません。
私の中で、少々厄介な持病が2つあります。
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ベーチェット病
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一つは難病指定されている「ベーチェット病」であること。
発症は10代。
ベーチェット病の症状は約10種類程度ありますが、初めに出てきた症状は、私は「目」でした。
突き刺さるような目の痛み。
真っ赤に腫れ膨れ上がる白目。
太陽の光の元では痛くて目を開けていられません。
この腫れと痛みが数日続いた後に目が真っ白になって、白い色紙を張られた様な濃厚な白で辺りが見えません。
片目だけなら、何とかもう片方の目で見るので動けます。
しかし、いつもう片方の目も同じ様になるか、という恐怖感があり怖いのです。
私の場合、ベーチェット病という病名に辿り着く場でまで訪ねた病院は10件以上。
年数も10年くらいかかってしまいました。
それぞれの病院でそれぞれの病名を言われ、それでも一向に完治しない病状に不安と落胆がさまよう10年間でした。
そんな時、私にとっては非常に苦しい時が来ました。
両目とも見えなくなってしまったのです。
反狂乱状態になり、病院自体も今までの事があるので、病院へ行けば何とかなる、という希望が全く持てず、本当に恐怖心で気が狂いそうになりました。
いったい、どこの病院へ行ったらよいのか・・
神様はうまく導いてくれるもので、この時初めて一発でこの病名を口にした先生のいる病院へ行けました。
たくさんの精密検査をして、今まで聞いたことのない「ベーチェット病」という病名を宣言されましたが、聞きなれないだけに私にとっては、やっと病名がわかった、というだけで安堵したのでした。
しかし、苦しみはここから。
両目が見えない状態が一向に改善されません。
もちろん、生活はできません。
子供もいます。まだ赤ちゃんです。
「要介護」と言われ、この言葉が私にとって生きる気力を一時失うものとなりました。
まだこんなに若いのに、子供も赤ちゃんで、私はどの様に生きていったら良いのか、子供を育てることすら私には出来ないのか、私は一体これから何の楽しみや生き甲斐を持てるというのか、、
そしてこの目が見えてくる日が本当に来るのだろうか・・・
この時初めて死んでしまいたい、と思ってしまいました。
今までも、生活や仕事などを軌道に乗せるまでも色々と苦労はしてきたのですが、もともと生きることに関しては相当ポジティブな思考の持ち主なので、病気になった時、私は一気にこの思考が停止してしまった自分に対しても苛立ちを覚えました。
音楽教室をしばらくお休みすることとして、実家で息子と共にしばらくの間お世話になりました。
とにかく私一人では何も出来ないので仕方ありません。
毎日のように注射を打ちに病院へ行ったり、目薬も飲み薬もたくさん。
とても辛かったののは副作用。
何の薬の副作用なのかもうわかりませんが、頭が重くて、頭痛もひどくて、吐き気もあって、本当にとても普通の生活ができません。
しかしお医者さんは、症状と検査の数値を見て「落ち着いてきているから大丈夫。良かったですね」と言います。
もちろん数値が安定していることは喜ばしいことではあるのですが、毎日こんなに頭痛と吐き気が続いては、何にも出来なくて、この症状を何とか和らげる方法はないのか聞いてみても、この部分に関しては全く聞き入れてはくれませんでした。
何ヶ月も経過し、相変わらず目もあまり見えず、精神的には益々絶不調になっていきました。
実はこの時、仕事面では専門学校の非常勤講師への話が来ていて、春の新学期とともに通うことになっていました。
今は3月。もう断りの連絡を入れないとなりません。
しかし、私は心の奥底ではこの仕事をやりたかったのでしょう。
「自分はできない」という絶望感を持ちながらも、何人か友達へ電話しておしゃべりしながら、何とか希望を見つけ出したかったのだと思います。
しかし「無理しない方がいいよ」「まず体を大事にね」とか、「今までが頑張ってきたんだから、休めってことだよ」などと言われました。
ある夜、実家のリビングで何するわけでもなく、椅子に座ってぼーっとしていたところ、母が来ました。
「今、生きてるんだからさ、あんたがやりたい事やりなさいよ。出来なくてどこかに迷惑かける状態になったら、その時はその時よ! ごめんなさい、って言えばいいじゃない。やりたい事やらなきゃ損だよ」
私は母のこの一言で全てが変わりました。
今の私があるのは、全てこの母の言葉がきっかけです。
この日を境に、凄く気が楽になり、そうね、今、この瞬間、私は生きている、生きていれば何でも出来る、一体私は何を恐れていたのだろう、と思いました。
体に関しては、治療や薬に頼らなければならないのは仕方のないことだけど、自分でも出来ることはまだまだあるはず。
と、まずは自然治癒力や、免疫力など、自分でできる限りの事を勉強して、実践していこうと決めました。
仕事に関しても、あの当時の自分の体の状態を考えると、とてつもなく無謀な決断なのですが、そのまま引き受けることとし、うっすらとは見える様になってきた目を使って実家のリビングで夜中に新学期からの授業の準備を始めました。
父は見るに見かねて「もうやめた方が」と言ってきた事もありましたが、母は私のやっていることを止めることはしませんでしたね。
このことが、私にとってはすごく嬉しかったのです。
相変わらず、頭痛も吐き気もあり、目の状態も見えたり見えなかったりを繰り返しているのですが、気分は上々。
こんな状態でも、スポーツクラブへも通い始めました。
目が辛くて目を瞑りながらエアロビやってたな~、なんて、今でも時々ふと思い出す時があります。
食事も色々と勉強して、しばらくは母のお世話になりました。
実は春の専門学校の入学式直前でも目の状態は回復していなかったのです。
なので通勤のための車の運転が出来ません。
いよいよもうこれまでか、と思い、覚悟して学校に電話しました。
病名は言いませんでしたが、今ちょっと目の状態が悪くて運転が出来ないと。。
仕事の話は白紙になることを覚悟していたのですが、なんと家まで送り迎えをしてくれるというのです。
思ってもない展開でびっくりしましたが、本当にありがたく、新学期が始まってからも実は数ヶ月あまり目が見えていなかったのが正直な話。
教科書は、実家での夜な夜なした準備で暗記状態だったし、板書も書きたい内容は頭に入っているので、重なって書きさえしなければOK。
まぁ、何とか過ごす事ができ、なんとかなるものだな~、なんて、とにかく気分が上がってきた事が大きかったです。
1年もしないうちに、びっくりするぐらい症状は落ち着きました。
自分でも忘れるくらいにはなったのです。
しかし・・・
さすが、難病、というだけあって、これで奇跡的に完治というわけにはいかず・・
あれから15年くらい経過していますが、良し悪し繰り返しながら、症状も「目」だけに留まらず、皮膚や口内炎など他の症状も出てきました。
以前よりも重い症状が出る時もあります。
しかし、不思議なことに気分的には上々なのです。
これは、発症したことによって、
「今この瞬間に生きていられることに喜びを感じられる」様になったからかも知れません。
精一杯今を生きて行けば、私にとって一番ベストな時に命が終わる時が来る、と、思えるようになったからかも知れません。
それが、明日だろうが、100歳以上先だろうが。
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パニック障害
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もう一つ、私の生活に大きく支障をきたし、時折コントロールが効かなくて厄介なのが「パニック障害」があります。
今思えば、元から私自身こういうものを発症しそうなタイプではあったんだろうな、とは思いますが、
初めて発症した日のことは鮮明に覚えています。
遡るは1995年。
この年の1月に阪神淡路大震災がありました。
私は仕事で大阪のホテル47階にいたので、この時も「私死んでしまうのかな」と思うくらいの恐怖を体験してしまいました。
この状況はあまり詳しくは書けないのですが(精神的に辛いので)、1週間後に東京に戻ってきてからも、すぐまた仕事で大阪に行かないとならない状態へなりました。
東京の方は「大阪なんだから、大丈夫でしょ」と、軽く言ってられましたが、私は相当怖い思いをしたので、まだ余震が続いている中わざわざ行きたくなかったのです。
昨年の東日本大震災の事を考えると、余震が続く中、皆復興活動に精を出されていて、あの頃の自分を思い出すと、「私は意気地が無いな」と思うのですが、当時の私は怖い気分でいっぱいのまま大阪に向かった感じとなってしまいました。
案の定、時折来る大きな余震にビクビクしながら、私は、大阪の楽器店に知り合いがいたので、滞在期間ずっとお世話になっていました。
東京に戻って来て、この頃から精神面での変化はあった様に思われます。
常に不安感があり、仕事をしている時だけは唯一心の安定を保つことが出来ていたのです。
そんな中、3月、地下鉄でのあの事件がありました。
この時の事は本当に今まだ書く事は出来ないので詳細を書く事は省かさせていただきますが、この直後にパニック障害は発症いたしました。
この時から、私の生活は一変してしまいました。
電車にも乗れない、
人ごみにも行けない、
エレベーターにも乗れない、
親しい友人とお茶の時間をも取れない、
一番ひどかった時は、一人暮らしである自分の部屋から一歩も外へ出ることが出来なくなってしまったことです。
こんな状態ですから、病院へも行けません。
やっと行っても、待合室で待っていることもできません。
それでも薬をいただいて日々を過ごさなければなりません。
生活をしないとなりませんから、生きていくために仕事はしないとならないのです。
それでも自分でもなかなかこの症状のコントロールが出来なくて、一時期仕事が全部無くなってしまったこともありました。
というより、もう出来なかったんですね、私。
じゃあ、どうする。。
このまま、何もしなければ、家賃も払えず、食べ物も食べられず、命果てるのか・・・
この時、考えたこと。
色々な事を見送り癖があった私は、
本当の意味での「今」を生きていなかった
今は辛抱、今は我慢、今は勉強中、今は修行中・・・
本当に挑戦してみたい事から、
肝心の所では逃げていたと思う
初めてわいてきた感情がありました。
イヤ・・私は今まで何のためにいろんな事を見送ってきたのか・・
まだ、私この人生ぜんぜん楽しんでいない・・
せっかくこんなに恵まれた日本で、しかも何でも出来る東京に生まれてきているのに、
悔しい!
と、思ったのでした。
こういう時に何を思うかで、今後の生き方がきっと変わってくるのだろうと思いますが、
もともと私は負けず嫌いなので、この世に生まれてきて「まだ心底楽しんでいる実感が持てない自分」に悔しいと思ったのです。
だから、生きていこうと決めました。
今、外には出れないけど、部屋の中なら何とか何かは出来る。
この状態で出来る仕事を考えようと思ったのです。
ITが目まぐるしく発達した現在なら、この環境でいくらでも稼ぐ方法がありますが、
当時はまだ世の中がそこまでは行っていなかったので、様々な今までの仕事のつながりを頼りに、むりやり自宅での仕事での提案をあらゆる会社に電話して交渉したりしました。
もちろん病気のこと等話してしまったら、仕事なんて取れないので話せませんが、
たくさんそんなことをしているうちに1件ぐらいは私の話を聞いてくれる会社もあり、
その1件での仕事を大成功させて、そこから他からも依頼が来るようになった感じがあります。
不思議なもので、生活を普通に送れるくらいの稼ぎが出来てくれば、心の安定感も増し、この状態とどう向き合って生きていこうか、と、前向きに考えていく気にもなります。
ベーチェットもそうですが、パニックの症状も「波」があります。
忘れるくらい普通になる時期もあるのですが、忘れた頃にいきなり発症することもあり、一番怖いのは、そういう時ほど、ショックで落ち込み、以前よりももっと悪化してしまう、ということです。
私もそんな状態をこの17年何度も繰り返してきました。
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2つの持病と接しながら、今私はどの様に過ごしているか。
いくつか自分で決めてしまったことがあります。
まず、私は「完治」という言葉を諦めました。
「完治」を求めると、どんなに良い状態が数ヶ月、数年続いたとしても、「またいつか発作がくるのでは」という恐怖心を常に持ってしまうのです。
そして、発作が起きた時に相当落ち込み悪化してしまうのです。
そこで考えました。
いつ来るかわからないもの・・
例えば、頭痛や下痢痛や胃痛。
この3つは私にとってはかなりの痛みを伴うものなので、この3つを考えてみました。
この3つの症状が来た時は耐え難い痛みを経験してしまいますが、
では果たして、この状況を想像して、毎日常に不安に感じながら生活しているかどうか・・・
幸いにも私はそこまででは無い。
ならば、ベーチェットもパニックもこの3つと同じカテゴリーに入れてしまえ、と思ったのです。
そう思ったら、発作が来ることがそんなに怖くなくなりました。
それはそれは、発症時は辛くてたまりませんが、
「また来たね、パニックちゃん、私今ちょっと忙しいから、速やかにお暇してちょうだい」と、話しかけています。
これが想像以上に効果てきめんで、発作時間がかなり短くなりました。
これはいい、と他の頭痛などにも使っています。
さすがに薬無しで魔法の様に症状が緩和するくらいの精神力は残念ながら持ち合わせていないので、薬は飲みますが、以前よりはかなり速く治ります。
もちろん、ベーチェットもパニックも、どうしたら発作が出やすい状況になるのか、は、自分なりにある程度把握しているので、
生活上、人知れずの工夫はたくさんしています。
時には人にとってはワガママになってしまう行動もあります。
それでも、そういうことを自分で気にしない様にしようと決めました。
何かの私の行動で誰かに嫌われても、ある程度仕方がない、と思ってます。
でも、だからといって開き直ってワガママで良い、とは思っていません。
体質改善に伴う食事や運動や生活の仕方、ストレスとの付き合い方など、自分で出来る事は最大限、勉強しながら行います。
それで何かがあれば仕方がないです。
今は、漢方の良い先生に出会えたので、漢方薬をベースとし、発作時に対応する薬としては西洋薬を処方していただいています。
しかし、以前よりも薬を飲む回数はぐっと減りました。
よく言われる「行動療法」も、上手く取り入れています。
無理のしすぎは返ってまた悪化の道を辿りますが、私自身は、年数の経過とともに、取り入れるタイミングやコツ等を掴んできたので、今はかなり行動範囲は広がりました。
電車も乗れるし、普通の生活も殆ど支障ありません。
ただ、完治した、という感覚ではありません。
でもこの状態で辛い、ということは無いです。
一番ひどかった時のことを思うと、今のこの状態が本当に嬉しいです。
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発症したからこその利点
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成人してからの2つの発症ですので、以前と比べる状態でもあり、
利点もたくさんあります。
通常でしたら、制限がたくさん出来てしまって、生きにくくなった様に思われますが、
精神的には、逆で、「こうだから出来ない」「この環境だからできない」などという考えが無くなり、
「生きている限り何でも出来る」と、返って自由になりました。
何かやって失敗しても、”生きてるし!また次やればいいし・・”
などと、考えるようになったのは、以前の自分とは全く違うので、だいぶ気が楽になりました。
また、この様に幾度となく「生と死」と対面する機会があったからなのかどうかはわかりませんが、
命のあるものは、何でも愛おしく思えるようになりました。
人間でもそうです。
人に対しての好き嫌いはびっくりするくらい無くなりました。
「こういう人は苦手」や「頭にくるくらいむかつく」という気持ちはもちろんありますが、その気持ちに普段執着していることは全く無くなりました。
それは楽です。
絡んでいるときは辛いですけどね。。人間ですから、ある程度の「喜怒哀楽」は自然なことでしょう。
感情に対して、とてもシンプルでいられる様になりました。
この精神面が備わったことは、私が音楽をやる上で、そして、たくさんの方と接する仕事をする上で、非常に幸運な事と思います。
今を この瞬間生きていることに幸せを感じ、感謝すること。
日々これに付きます。
なので、私は以前よりも「幸せ」を感じている時間が長くなったと思います。
少しでも多く幸せや感動を感じ、少しでも多く人と分け合いたいです。
そして感謝の気持ちで一杯の状態でこの世を去ることが出来たら嬉しいです。
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病気のことは、普段殆ど口にしていないので、知っている人は少ないです。
教室の生徒さんなどは知っている人はいないでしょう。
いつでも元気でタフでパワフルな先生、というイメージもある様です。
もしかしたら、こんな軟弱だったなんてイメージダウンかも知れませんね。
親しい関係の人はもちろん私の病気のことを知っています。
そして今までの年月の中で、何度も「どうやって病気と向き合っているのか話をしてほしい」という依頼を受けていました。
しかし、私はそれを受けることは出来ません。
なぜなら、私自身、普段からこの病気のことに執着して生活していないからです。
このことは非常に私にとって大きな事です。
この話をする、ということは、私自身、非常に苦痛を伴ってしまうので、身を守るために避けたいのです。
しかし・・・
1年ほど前に、ある方のご家族で難病を抱え生きる気力を失っているる方がいて、どうか、話を聞かせてあげたいのですが、お願いできないでしょうか、、
と言われました。
その時はお断りをしたのですが、その後交流は続き、
今年の夏辺りに「良い案が浮かびました!ブログなどに書いてくだされば、読むことが出来ます。他の方にも読んでもらうことが出来ます!」
と言われ、「なるほど」と思いました。
私は、この1度きり。
後は、書いておけば、もしかしたらどこかでこの記事がどなたかの役に立つかも知れませんものね。
自分の体は自分で守るしかありません。
誰かに依存しても仕方ないです。
自分で守って自分で生きていくしかありません。
私の場合、このことを一番理解してくれているのはもちろん母です。
そして、母からは私が生きていくための力、希望をもらいました。
この様に誰かの一言で人生生きていける、という事もあります。
なので、私も私の書いた文章のどこかの一言が「生きる希望」と繋がる人がいるかも知れませんね。
この記事を書くきっかけを作ってくださったB・Mさん、大変感謝いたします。
ありがとうございました。
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2021年8月8日
この記事を書いてから約10年近くが経ちました。
まだ生きてます(笑))^o^(~♪
読み返してみると、
今はまた違った感覚を持っているな、と思います。
2012年当時は、
例えば、パニック障害にしても
私は「行動療法」を無理のない範囲で上手に取り入れられたので効果がありましたが、
失敗してしまうと、返って新たなトラウマも生み出してしまう、という感覚が容易に想像できるため、
今なら、もっと安全で負担が少ない心理法などがいくつか出てきていますので、選択肢はもっと広がっているでしょう。
また、この頃は、まだまだ、持病の話を外に出す事は大変勇気がいる事でした。
「私の持病に対する記事は後にも先にも今回1回限りとします。」
と書いてある通り、日常的にまだ自分でも触れる事へのコントロールが出来ていなかった為に、恐怖心がありましたね。
現在は、ちゃんと話が出来る様になりました。
私の今の状況はというと、
ベーチェット病も
パニック障害も
日常的に服用しているお薬は無くなりました。
ただ、定期健診はしています。
今は、生まれつき一つしか機能していない腎臓の負担の問題の方が大きくなってきましたので
こちらも、毎月の検診をしていただきながら
必要な薬は服用しています。
冒頭に
持病は、敵?味方?
と問いましたが、
今の私ならこう答えます。
間違えなく味方でしょう。
私を守ってくれてありがとう
私に、毎日毎瞬、生きている幸せを感じさせてくれてありがとう
感謝
ベーチェット病にしても
パニック障害にしても
腎臓負担にしても、
私がこの世で、
私にとっての最高に幸せな人生を楽しむために、
私にベストな身体、ベストな環境、ベストな考え方へ全力で導いてくれているんだなー
と、思うと、
感謝しかなく、涙が出てきた時がありました。
持病は、完治を求めるのかどうか、
に関しては、
今の心境は、
どっちでも良い、という感覚です。
この感覚は、とても自由になりました。
本当に、やってみたい事はやってみよう、という果てしなく広がった意識となりました。
持病があるので、身体的制限はあるのにも関わらず、不思議です。
今の私が自然に取り入れていることは、
「自分にとって自然に生きる」
ということ。
免疫力、自然治癒力を高める生活をしているのが心地よいし、
身体と会話しながら、
身体が喜ぶ事を選ぶ。
すると、
薬が必要な時は、
「今は必要!」とわかるし、
「今はいらない」もわかる。
「漢方薬が欲しい」「お水が飲みたい」「眠りたい」「運動がしたい」「散歩がしたい」「○○が食べたい」
耳を傾けてみると、よくわかる。
そして、身体と同じように、
心にも話しかけ、
楽しく、丁寧に、
「今」を味わいながら生きていきたいと思っています。