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【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか192】1月(7)日本語教室①

 1月に4回、オンラインでなんちゃって日本語教室を行った。予定外の追加授業で、4回だけだと教科書の1つの課を終わることはできないと思ったので、教科書は進めず、オリジナルの教材で、生徒のAさんに必要だと思ったことに絞って教えた。
 …というと、なんだか厳選した教材で、緻密に授業を組み立てたみたいに聞こえるかもしれない。だったら、すみません、大嘘つきです。ここまで体系的に、計画的に進めてきたわけじゃないので、4回という限られた時間を、取り敢えずやっておいた方がいいだろ、と思うことで埋めてみた、というのが正直なところだ。

 1度目は、動詞の種類と活用を確認することに費やした。というのは、年末に教科書で動詞の可能形について勉強したときに、十分に基礎から確認することができなくて、ぱたぱたと終わらせてすっきりしなかったからだ。

 日本語を教えるとき、文法を重視してはいけないというのは、よく言われることである。私たちが外国語を学ぶときも、文法ばかり教えられたら嫌になってしまうだろうから、それはダメだと容易に想像できる。今、自分がフランス語の初歩をやっていて、先生と話すときには「名詞が男性か女性かとか、動詞の活用とか、気にしないで、まずはしゃべっちゃいなさい!」と励まされる。自分もAさんには「あなたが話すときには、間違えても私は止めません。とにかくいっぱい口から日本語を出すことが上達への早道!」と言っている。

 しかし、一方で、ルールを知っているのは大事だと思う。過去形の作り方とか受け身形の作り方とか、知らないとわけわかんない文になっちゃって、伝わらないもの。
 私が高校英語教員の免許を取ったのは、定年の2年前のことだ。通信制の大学で単位を集めた(社会科の免許を持っているおかげで、教育実習も含め、全ての教科に共通する単位は取得する必要がなかったので、比較的容易に取れた)。そのときに指導していただいた先生に提出したレポートで、「学校で習う英語は役に立たないと言う人がいるけれど、私の今の英語の基礎を作ってくれたのは間違いなく学校英語だと思う」と書いたら「totally agree」というコメントをもらった。学校で習うだけでは話せるようにはならないけど、基礎的な文法を(学校で)学ぶことなしに、そこから発展させることは難しい。

 私が英会話を習っているマイク先生は、私と話すとき、ほとんど止めない。私が通じないことを言ったら、聞き返すことはある。書いたものには赤ペンを入れてくれる(いつもいつもいつまでも冠詞の使い方で引っかかる)。
 それに倣って、私もAさんが書いたものには赤ペンを入れる。そこで、間違えているところを説明するのに、やはり文法=ルールを共有することが必要になるときがある。

 というわけで、日本語教育界のちゃんとした人たちから批判されるんだろうか、びくびく、と思いつつ、一度がっつり文法、動詞と形容詞の活用をやろう。
 …と思ったら、そりゃもう私自身が勉強する必要がある。今まで彼女がやってきたはずの教科書の、文法解説書をざざーっと読んで、これとこれは習ってるんだ、で、こっちはまだね、そうか、外国語としての日本語文法と国文法ではここが違うんだ、というのを確認していく。
 それでも多分、見る人が見たら弥縫策候の教材しか作れない。まあ、今の私のベストってことで許してもらおう。

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