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【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか154】11月(17)日本語レッスン①

 スイス人のAさんを生徒にした、雇われ日本語オンラインレッスンは、11月に4回行った。国際交流基金が提供している教科書をスライドにしたものが、ネット上で無料で公開されているので、それをありがたく使わせてもらっている。
 その教科書とは別に、自分でも毎回、1つのテーマを決めて教材を用意している。11月の4回は、まず日本語の拍、次に「したい」と「してみたい」、3回目は場所を表す「に」と「で」、4回目は対象を示す「を」と「が」を取り上げた。いずれも、教科書に出てくる表現、または宿題でAさんが間違えたポイントを踏まえたものだ。

 と書くと、いかにも生徒に合わせて授業を組み立てているようだが、実は全然そんなことはない。
 今、Aさんがやっているのは、「初級2」の教科書、第6課だ。その前に、「入門」と「初級1」がある。私は、ここまでにAさんが習った文型や文法、語彙などの知識を把握していない。教科書や付随する教材を確認すれば分かるのだが、自分が教材を作るときに、一つ一つの表現、文型や語彙について、これは使ってもいいか、もう習っているかを十分に確認しているかといえば、手抜きし放題である。オンラインでレッスンしている最中に、「これ知ってる?」と本人に確認したりする。

 本来、これは御法度だ。日本語で日本語を教えるときには、既に習った文型しか使わないのがお約束である(と、日本教育能力検定に向けて勉強しているときに教わった)。
 何を学ぶときでも、既習知識の上に新しいことを重ねていくというのが基本だろう。もし、その重ねるものの高さが高すぎたら、ちょっと脚立を用意するなど、計算した上で新しい知識を導入しないといけない。ときには背伸びをさせることもあるが、それも計算尽くでないと、教える側の独りよがりの押しつけになってしまう。その結果、、学習者を無駄に混乱させたり、やる気を失わせたりしたら最悪だ。

 これでも教えるということを職業にして長年やってきたのだから、そんな基本は知っている(つもりである)。が、ここで気づくのだ、経験値って、本当に大事。「知っている」だけでは、実際には何もできない。
 教科書を見れば、ネットで検索すれば、大抵のことは分かる。それは裏を返せば、見ないと、調べないと、分からないということだ。その状態では、生徒の現状に合わせた教材をさくさく作ることなんかできない。自分の中に血肉になっていないから。改めて、教えるということの奥の深さを思う。

 手抜きし放題ではあるが、何とか1つでも2つでも、Aさんの日本語学習に手助けになるものを残したくて、火曜日の夜にレッスンが終わると、翌日からは次の教材のネタを考える。べべさんの守りの合間を縫って、Googleスライドを作っていく。イラストを入れたりアニメーションを加えたりといった工夫が楽しい。
 授業自体は週に一回50分、一回につき15ユーロ、日本円で2400円ぐらいだ。準備に掛けている時間は細切れを合わせると6時間は超えると思う。時給にして400円を切る。自分の勉強代を払って、プラマイでプラスならOKか。

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