【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか167】12月(10)日本語教育①
12月、オンライン日本語教室は3回行った。教科書を進めつつ、「『は」と『が』」、「名詞を動詞にする『の』『こと』」、「動詞の可能形」を取り上げた。
多分、このラインナップは、まっとうな日本語教師の方が見たら、無茶しよる、と思うんじゃないかな。初級の学習者に対して、初心者の教員が取り上げるには、重すぎる。もうちょい別のことはできなかったの?と突っ込まれそうだ。
本当にねえ、私も避けて通りたかったテーマではあるんですよ、特に「は」と「が」。それから、動詞の可能形の教材も、まずは動詞の種類とそれぞれの活用の確認から始めたら、そりゃもう重すぎるやろ。
ただ、どうしてもこうなっちゃったの。私の中にネタがないから、Aさんが宿題の中で間違えたこととか、教科書で扱うけどそれだけでは不足だろうと思われることとかをやるしかないのよね。今までにあんまり文法をやっていないようなので(教科書が場面ごとに使える表現をやっていくというシラバスだから)、ちょっと整理した方がいいと思うところもあったし。
自分の中に、これをやるなら、その前にこっち、ここでついでにこれも取り上げた方がいい、という、体系を持たないから、行き当たりばったりになっているのは否めない。お金をもらっている以上、これはいかん。できないことはできないとしても、今できることは精一杯頑張ろう。
で、結果的に、なかなかに勉強しました、私が。ほんと、人に教えるというのが、間違いなく一番の勉強になる。
人を見ながら「あの人は誰ですか」と聞くことはあっても、「あの人が誰ですか」とは普通は聞かない。返事も「あの人は先生です」だ。一方、人の集団を見ながらなら「誰が校長先生ですか」と聞く。「誰は校長先生ですか」とは聞かない。返事は「あの人が校長先生です」または「校長先生はあの人です」だ。
家に帰ってきた子どもが「お父さんは?」と聞いたら、「(お父さんは)台所でご飯を作ってるよ」と答える。「今日のご飯は?」と聞いたら、「(ご飯は)お父さんが台所で作ってるよ」と答える。
ネイティブスピーカーなら当たり前のことを、非ネイティブに教えようと思ったら、自分が今までに持っていない視点が必要になる。つまり、ネイティブとしては当たり前すぎて、意識したことがない視点だ。
中高一貫校だったおかげで、中学校で口語文法、文語文法を叩き込まれた。しかし、国語として日本語を考えるときの文法と、外国語として考える文法は異なる。国文法の知識は助けになっても、それだけでは足りない。
しかも、私は、この違いを「全く異なる」と言うべきか「似て非なる」と言うべきか、迷う。それは、理解が十分でなく、自分の中に落とし込めていないからだ。
20代の頃とか、仕事でこんな感じだった気がする。自分でちゃんと分かっていないこと、全体像など見えていないことを、授業のたびに取り敢えず付け焼き刃で教える。いやいや、あの頃の生徒の皆さん、申し訳ないことをしました。
でもね、そうやって、どの先生も、生徒に、教壇に鍛えられて一人前になっていくのよ。「3月のライオン」のおじいちゃんの台詞、「恥なんてかいてナンボだ/『失敗した』って事は『挑戦した』って事だからな/何もやんねーで他人の事笑っている人生よりずっとマトモだ」を思い出す。うん、恥の多い生涯を送って来ましたと、笑って言える。
と、大昔の自分を顧みながら、目の前の教材作りに勤しむ。60歳を過ぎてもまだ恥をかく余地があるのは、きっといいことだ。