日本人がキリスト教に馴染まない、もうひとつの理由。
日本人がキリスト教に馴染まない、
もうひとつの理由に「隣人愛」があると思う。
「キリスト教徒は、隣人愛を説くが、
なぜ彼らは戦争ばかりしているのか?
本当に相手を想う心があるならば、
争いごとなどないはずではないか」
もっともな疑問である。
キリスト教国だから戦争が多いのか
悪名高き「十字軍遠征」をはじめ、
ヨーロッパ史は戦争の歴史でもある。
敬虔なキリスト教徒が理想に燃えて建国した「アメリカ合衆国」が、
どれだけの血を犠牲にしてきたのかは、
説明するまでもないだろう。
キリスト教には「自分が絶対に正しい」という自信があるからかもしれない。
「正義のために戦う」という
考えがあり、
「戦わなければ正義が守れない」と本気で思っている。
元クリスチャンの立場からすると、
この隣人愛は素晴らしい面もある
私は14歳で、一度キリスト教徒を続ける道を選んだ(ドイツでは、14歳で宗教を選ぶ。)
それは、生まれたときから
キリスト教徒で、
家族もキリスト教徒で、
友人や知り合いもほとんど
キリスト教徒という状況下で、
キリスト教を破棄するだけの
理由がなかったからである。
それでも、イエス・キリストの
いちばんの教え、隣人愛には、
共感を覚えるとともに、
価値があるものだと思っていた。
イエスの言葉は愛にあふれ、
キリスト教もそんなに
悪いものではないと実感していた。
問題は、「キリスト教徒が、なぜ隣人愛を説き続けなければならないか」である。
それは、誤解を恐れずに言えば、
彼らの中に愛がないからだ。
愛にあふれていれば、
他人に向かって愛を説く必要はない。
それがないからこそ、
あえて「敵を愛せよ!」と説くわけだ。
旧約聖書には、怒りっぽい父親、
なかなか良いと言ってくれない父親、
そんなイメージそのままの
厳しい神がいる。
しかし、イエスが
十字架に傑にされるという出来事があってからは、「許しの存在」に変わっていく。
まず、厳格さがあって、愛がある。
つまり、キリスト教の「隣人愛」は、「憎しみ」の裏返しなのだ。