短編小説 『エレベーター裁判🍀罪無き人々』
ここは郊外にある大型複合商業施設。日曜ともなれば かなりの人で混雑する。事件は そんな商業施設の建物内で起こった。
3階の西側、フードコートで食事を終えて友達と別れたばかりの女子大生 ユキコ。他の家族連れ、カップルなど数名とエレベーターを待っていた。
扉が開く。今日はポイント還元セールの日。1階の食品売場から乗った客で混んでいたが、まだ若干、スペースは空いていた。
だがユキコが他の客と一緒にエレベーターに入った瞬間、
ブブッ、ブーッ!
〈ヤバい。重量オーバーのアラームだわ〉
ユキコは焦って 申し訳無い事をしたかのようにエレベーターから降りようとした。背が高くないから 実際の体重は それほど重くはないのだ。だが見た目が丸顔のポッチャリ体型なので、こういう場面では犯人扱いされやすい。
《あのポッチャリした女のせいで、重量オーバーの警報が鳴ったぞ》そんな周りの視線が怖いのだ。
これはきっと読者の皆さんも感じておられることだろう。人はエレベーター内では よそよそしい態度を取りがちだ。
周囲からの冷たい視線を感じながら ユキコはエレベーターから出ようした。
《とにかく早く この場から離れたい》
焦る思いで振り返り体半分が外に出たくらいのタイミングで、予想外の事態が起こった。
「待ってください、あなたは悪くない」
低く落ち着いた男性の声がエレベーター内に響いた。
「待ってください。あなたがが赤面しながら降りる必要は無いのです」
男性は 落ち着いた小さな声で言葉を続けた。
「悪いのは そこの御婦人です。あなたが降りなさい」
男性は自分の斜め前に立っていた女性を指差して降りるように伝え、ユキコには エレベーターから出ないよう目で合図を送った。
男性に指を差されたのは、指輪やネックレスなど高価なアクセサリーを身に付けて 華やかに着飾った御婦人であった。いきなりエレベーター内が張り詰めた空気になり、しかも突然 自分が降りるように指図されたので その御婦人は酷く混乱した様子である。
「なぜ私が降りなきゃいけないのよ。見ず知らずの人に いきなり指図するなんて。あなた ホント失礼ね!」
ヒステリックに 成金人間に特有のキツイ言葉遣いで応えて、男性の顔を睨みつけた。
しかし男性は冷静沈着。ネクタイの僅かな乱れを整えながらすぐさま こう反論した。
「あなたが降りるべき理由は2つあります。1つは あなたは先ほどからシャネルの香水の香りを嫌味なほど放出してるからです。
そして2つ目の理由は 恐る恐るエレベーターに入って来たポッチャリしたお嬢さんに冷たい視線を浴びせたからです。これは良くない態度でしょう。あなたも肥満なのに。そう、あなたは いわゆる〈隠れ肥満〉だというのに。
プロの私の目から見て こちらのお嬢さんに比べて、あなたの方が確実に3.5kgは重い。嫌味な香水に関しての迷惑度で言えば、5倍以上の不快さがある。」
「あなた、本当に失礼ね! 一体、何様のつもりなの?私、あなたよりも たくさんお金を持ってるのよ。偉そうに指図しないで。馬鹿!」
怒りを剥き出しにしたシャネル婦人は、持っていた紙袋を床に投げつけた。紙袋の中には商品券が数十万円分も入っていたのだが、強く投げ過ぎたためにエレベーターの外へ勢い良く出ていってしまった。今日は夫の誕生日で、そのプレゼントだったのだ。
《ジュウリョウ オーバー キケンデス
ダレカ ヒトリダケ オリテクダサイ》
警告ブザー音が 音声警告に切り替わった。
完全に エレベーター内はピリピリした雰囲気である。〈見て見ぬふり〉をしたいのだが、狭い空間で起こってることなので逃げられない乗客たち。怖くて うつむく者、喧嘩が始まれば止めようと身構える者、我が子を守ろうとグッと強く抱きしめる者。
混乱や緊張の姿は 様々である。
重量オーバーを警告する音声は、鳴り続けている。何者なのかと身分を問われた男性は、胸ポケットから名刺を取り出しながら こう答えた。
「申し遅れました。私はエレベーター裁判官の登屋 下郎(ノボリヤ サガロウ)です。
皆さん、お聞きください。私は本日、非番では有りますが。ただいまの状況を見てエレベーター内の秩序が乱された【緊急事態】と判断し、特別に司法権を発動。裁判を始める事になりました」
文字にして5行ほどあるこのセリフをノボリヤは大きな声で、滑舌良くエレベーター内の乗客たちに伝えた。
反論の体勢を整えていたシャネル婦人だったが。始めて聞く《エレベーター裁判官》《司法権の発動》という硬い言葉に驚き、猫に威嚇されたネズミのように縮こまってしまった。成金人間は権力や権威には弱い。
《キケンデス キケンデス!
ハヤク ヒマンガ オリテクダサイ!》
最高レベルにまで上がった警告音声が鳴り響くエレベーター内。緊迫感が緩む状況にはない。
だが、どんな場面でも大勢の人が集まる所には、勇気ある者がいるものである。真面目な学生なのだろう、分厚い法律のテキストを持った眼鏡の男子大学生が声を出した。
「す、す、推定の無罪は? ど、どうなるんですか?」
大学の法学の講義で習った推定無罪。分かりやすく解説すると、怪しくて悪人だと思われる被告でも 有罪だと決めつけて裁判してはならないという意味である。つまり、この男子学生はシャネル婦人の無罪の可能性を指摘しているのだ。
男子大学生は緊張からか声が上擦っている。着古して色褪せた野暮ったい服装であるが、きちんと身なりを整えれば今風の爽やかな青年である。本人にその自覚は無いだろうが、工夫をすれば きっと女子学生にモテるだろう。
勇気を振り絞って法の正義を守ろうとするこの男子大学生を ノボリヤは一目で気に入った。上擦っているものの声が綺麗なので 即座に頭の中で『ウグイス坊や』と名付けた。
ウグイス坊や君は拳を握って〈過ちが有ってはならない〉という思いを必死でこちらに伝えようとしているのだ。だが法論争しても、この道30年以上のノボリヤと大学生ではプロ野球選手と高校球児くらいの差がある。
議論をするには無理があり、滑稽ですらあるのだ。だがノボリヤは、ウグイス坊や君と法論争をしたくなった。何事にも真っ直ぐに取り組んでいた若き日の自分を見ているように思えたからだ。エレベーター裁判官の座は、学生時代から失敗や挫折を繰り返して掴んだのである。
ノボリヤは 一呼吸を置いてから優しく法律の解釈を説明した。
「確かに 無罪の推定は裁判の原則ではあります。そして私は、この張り詰めた状況の中で発言をした君の勇気に敬意を払いたいとも思う。
ですが このシャネル婦人の強い香りは県の【悪臭及び成金に関する迷惑禁止条例】に触れてるのは明らかでありますし。身なりの80%以上を高級ブランドで占める者。これが罪人である確率と隠れ肥満である確率は、どちらもWFHO(世界"不"健康保健機関)の公表データによれば95%以上と高いのです。
ここまで有罪だと信ずるに足る状況が有る以上、エレベーターからシャネル婦人を強制的に降ろすという判決に至るのは仕方が無い事なのです。」
ウグイス坊や君は 1つ2つ反論を試みた。だが本筋とは関係の無い質問であったため、ノボリヤはその質問のズレを的確に指摘した上で、最終的な結論を少し強めの口調で伝えた。
「考えていただきたい。大学のテキストで習う理想も大切ですが、我々プロの法律家が向き合うのは厳しい現実なのです。状況証拠に基づく判決は 決して悪ではありません。
ペナルティを受けるべきは、ポッチャリ体型の女性を見て体重が重いと決め付け睨んだ御婦人なのです」
論争にはならなかったのだ。
〈バタッ!〉男子学生は脱力して、持っていた法律のテキストを床に落とした。《なるほど、これがプロ法律家の論理の立て方か。隙が無く見事だ。それに比べて自分は、まだまだ勉強不足...》
弁論能力だけではなく、弱い女子大生を守ろうとするノボリヤの優しさも感じ取ってウグイス坊や君は、元の位置に下がって行った。彼の落としたテキストを 母親にしがみついていた男の子がプロ野球選手のマネをして外に放り投げた。
シーンと静まり返ったエレベーター内。その静寂を打ち破ったのは 意外にもシャネル婦人の泣き声であった。
傲慢で成金趣味、魔女のような目をした女性。そんなシャネル婦人が 皆の予想に反してシクシクと泣き始めたのだ。ここまで真っ直ぐに自身の短所を指摘された経験が無かったから 強い衝撃を受けたのだろう。
「うう...ううっ... 私だって本当は素直な女でいたかったのよ。でも 世間がそれを許さなかったの。
子供の頃に父の会社が倒産。その翌年に父は失踪。その後は母と幼い弟と私で、夜逃げをして... 16で夜の店に出たのよ。家族を食べさせる為なら何だってした。
ううっ...私だって普通の青春を過ごしたかった...普通の高校生活、大学生活を過ごしたかったのよ。ううっ...」
シャネル婦人の鳴き声だけ聞こえるエレベーター内。〈悪女には悪女の事情がある〉と知って、これまで平凡極まりない人生を過ごしてきた主婦らは貰い泣きをした。そして突然、シャネル婦人の背後にいた会社員風の男性が婦人にハンカチを差し出しながら 勢いをつけてノボリヤに声をかけた。
「エレベーター裁判官、聞いてください。確かに この御婦人の態度は傲慢だったようですし。裸になれば お腹がプヨプヨの隠れ肥満であるかも知れません。
でも幼い頃から辛い事情がお有りだったようですし。今はこうして反省もしておられるのですから。ここは体重70kgの軽肥満の私が降りますので、皆さんを上階まで速やかに行かせてあげてください。もうこれ以上は時間の無駄を...」
ウイーン!
会社員風の男性の言葉には説得力があった。おそらく職場でも優秀な人材なのであろう。しかし彼の言葉が終る前に 不自然な現象が起こってしまった。エレベーターの扉が勝手に閉まって 中は完全な密閉空間となってしまったのだ。
更なる緊張感がエレベーター内に張り詰める。だがウグイス坊や君に続いて 更にこの男性がシャネル婦人を助けようとしたからだろう。不思議とエレベーター内の緊迫感に、解れ(ほつれ)のようなものが出始めたのである。
驚くべきことに。〈臆病で冷ややかな群衆〉が我が身の危険を忘れて、次々に優しい言葉を口にし始めたのである。
「いえ、扉の近くの私がシャネル婦人の代わりに降ります」
「いや、僕が降りますよ。高校の陸上部ですから階段でも平気です」
「いえ フードコートでこの子にドーナツを食べさせたいので。私たち親子がここで降りましょう」
「私が」「僕が」「私達が」
「僕も」「私も」「みんなで」「手を繋いで」
密閉空間に〈自分自身が犠牲となって、シャネル婦人を庇ってあげたい〉声が広がったのだ。
愛に満ちた声の広がり。
そこは まるでクラシックのコンサートホールのようであった。
エレベーター内の十数名に連帯感が生まれて、商業施設全体が倒壊せんばかりの慈愛の声が響き始めたのだ。
🎵 愛のために僕が降りよう〜 自己犠牲の花が咲く〜!
🎵 愛のために私が降りるわ〜 実は私も隠れ肥満〜!
🎵 安全運行のため皆で始める〜 ゆるやか我流のライザップ〜!
🎵 愛のため シャネル婦人のため 僕らは互いに譲り合う〜
年末恒例、ベートーベンの第九の大合唱の如く
乗客たちは愛を歌い始めた。
「皆さん、ありがとう... 私、感動です、感動です...」
大粒の涙を落とすシャネル婦人。
「ノボリヤさん、さっきは取り乱した私が悪かったわ。ぽっちゃりした愛くるしいお嬢さんを冷ややかな目で睨んだのも、私が悪かったのです。ここはあなたの判決に従い、私が降ります」
そう言って 泣きながらシャネル婦人が《開》のボタンを押そうとした時に、そっとノボリヤが婦人の手を止めた。そして小さな声で こう伝えた。
「もう十分です。あなたは、もう罪を償った。過ちに気付いてくれたのなら それで良い。
先ほど冷ややかな視線で傷つけたお嬢さんも、もう許してくれている筈です。ほら、ご覧なさい。ニッコリ笑っておられるではありませんか。」
ユキコは笑顔を作って小さく頷いた。そしてノボリヤは、シャネル婦人の肩を2度 軽く叩いた後、天を指差して力強い声で こう叫んだ。
「全員無罪! エレベーターは愛を運ぶ!」
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カンの良い読者は既にお気付きだと思うのですが。念のために ここで解説を入れておきましょう。
重量オーバーで停止したエレベーターでしたが。既に原因は解消されており正常に動く状態に戻っていたのです。(既に重量オーバーのアラームも消えている)
そうです。エレベーター裁判の最中に、ノボリヤの機転でエレベーター内の軽量化が進められていたのです。
1、シャネル婦人が怒って投げた商品券の束
2、男子大学生が落として、男の子に投げ捨てられた法律のテキスト
3、シャネル婦人や他の乗客たちが流した多くの涙(蒸発済み)
4、裁判官ノボリヤが 正義を貫くために流した汗(同じく蒸発済み)
エレベーター内に、乗客たちの安堵の声が広がった。
「これで問題なく我が家に帰れるわ。トイプードルのモカちゃんが待ってるから急がなきゃ!」
「帰ったら子供たちとサッカー中継を観よう。ワールドカップ予選、今日は日本対パプアニューギニア戦だ。厳しい試合になるぞ!」
「ワテは野球を観まんねん。阪神ファンでっせ。今夜はバースはんと、カケフはんと オカダはんがホームラン打つかも知れまへんで」
「ああ、これで帰ったらジャスチン ヒーハーの歌をYou Tubeで ゆっくり視聴できるわ。楽しみにしてたの!」
シャネル婦人は少し顔を強張らせて
「さっきは冷ややかな視線で威圧して、ごめんなさい...」
シャネル婦人は女子大生 ユキコに謝りながら、駐車場がある屋上《R》のボタンを押そうとした。
「良いんです。ダイエットをサボっていて、ポッチャリしてる私も悪いから」
そう爽やかな笑顔でユキコが答えて、なぜか彼女も同じように《R》のボタンに指を伸ばした。
高級ネイルサロンで彩られたシャネル婦人の人差し指と、肌に張りのあるユキコの人差し指が触れた。2人で押したボタン《R》の文字は おそらくはRestartのRだったであろう。
よく見ればシャネル婦人の指は
他の乗客たちよりも優しかった。
〈チーン!〉
屋上階に到着したエレベーター。客たちは思い思いに自分の車へと歩いて行く。
ユキコと別れてシャネル婦人を待っていたのは やはり2千万円ほどもする高級車であった。そして その横には貧しき男子大学生 ウグイス坊や君のポンコツの車があった。
シャネル婦人の方から ウグイス坊や君に声をかける。
「先ほどは 助けようとしてくれたのね。ありがとう」
「いえ、ほんの少し法律の知識が有るものですから」
ウグイス坊や君は モジモジした態度で応えた。
「ちゃんと勉強して偉いわね。そんな真面目なあなたに 最後にお願いがあるの。聞いてくれるかしら?」
「何ですか?僕にできる事であれば協力しますけど...」
「明日 ここの1階のサービスカウンターに行って欲しいのよ。そして私がさっき投げた紙袋を〈落し物〉として受け取って欲しいの」
〈これを見せれば受け取れる筈だから〉とシャネル婦人はウグイス坊や君にレシートを渡した。
「それくらいのことなら簡単です。僕は家が近いですから。でも その受け取った紙袋は いつお渡しすれば?受け取った時点で御自宅か携帯に電話すれば良いのですか?」
「いいえ、あの紙袋は あなたにプレゼントしたいのよ。あなたに使って欲しいの」
「えっ!そんなの駄目ですよ。プレゼントか何かでしょう?僕は受け取れませんよ」
「違うのよ。真面目なあなたに使って欲しいの。頑張って勉強して 立派な法律家になってね。」
貧しくて真面目なウグイス坊や君。彼はシャネル婦人に また上擦った声でプレゼント受け取りの辞退を伝えたが。シャネル婦人は運転手が開けた後部座席にサッと乗り込み、呆然とする彼を残して去って行った。
駐車場に人の気配が無くなってからも女子大生 ユキコは、そこに留まっていた。その表情は朗らかである。
たくさんの乗客たちの前でノボリヤに〈ポッチャリ体型〉を明言されたのは恥ずかしかったが。先入観を持たずに、かばって貰えた事が嬉しかったのだ。
ユキコは最後に御礼を言いたくて、ノボリヤの姿を探していたのだが。いくら見回しても駐車場にその姿は無い。
《もしかして...》
ユキコはエレベーターの方を振り向いた。思った通りである。扉が開いたエレベーター内に、ノボリヤの姿はあった。
エレベーターまでの数十メートル。ユキコは素早く歩みを進めて、辺りを気にせず大きな声で話しかける。
「ノボリヤさん。私、少し戸惑ったけれど... 今回の件で体型のことだけでなく、なんだか自分に自信が持てました。
実は私、就職活動で良い結果が出なくて。何十社も失敗しちゃってるんです... ついでに先月、大好きな人にフラレたりもして。本当に もう何もかも嫌になってたんですけど...」
何も言わずに相手を見つめるエレベーター裁判官と
涙を浮かべて思いを伝える傷付いてばかりの女子大生。
この時、2人の間に結ばれたモノは一体 何だったであろう?
「生きてると きっと良いことも有りますよね... そう、きっと人生って小さな事の積み重ねなんですよね。
エレベーターに乗るだけでも素敵な時間が有るんだなって... 世の中には優しい人もいるんだなって 今日、ノボリヤさんのお蔭で気付く事が出来ました」
感情が昂っていて 声が震えるのが自分でも分かった。声を落ち着かせるためにトーンを落として、ユキコはノボリヤに こう問いかけた。
「ところでノボリヤさん、どうしてエレベーターから降りないんですか?もうすぐ8時になるから、この商業施設全体が閉まりますよ?」
エレベーター内で うつむいたままのノボリヤ。長い沈黙の後、彼は熱い眼差しで だが淡々とユキコに思いを伝えた。
「エレベーターの中でも外でも。どのような場所であっても、あなたは綺麗ですよ。長年、たくさんの人を見てきた私が言うんだから 間違いありません。
人生は まるでエレベーターです。アップする時も有れば、ダウンする時も有る。だから時には たくさん泣くのも良いでしょう。
でもあなたは泣き顔よりも笑顔の方が かわいい。これも間違いありません。もしも辛い時には、どうか今日の出来事を思い出してください。この世の中、必ず あなたのことを守ってくれる人がいるのです。」
こう言いながら ノボリヤは右手に持っていた1冊の本と小さく折り畳んだ紙をユキコに手渡した。
「ケイホウ ガイロン... 何ですか、これは?」
本の表紙を見ながらユキコが問うと ノボリヤは短く説明をした。
「大学の法学部のテキストですよ。先ほどウグイス坊や君が落として、子供に投げ捨てられたものです。見ていた清掃員が先ほど届けてくれました。
本には大学名と学部、そして彼のIDが記されています。すぐ近くの大学です、彼が困らないように明日にでも届けてあげてください。」
「分かりました。明日の朝、届けますね。それで この折り畳まれた紙は?これも彼に届ければ良いのですか?」
「いえ、それは僕から あなたへの手紙です。後でご覧ください。そしてウグイス坊や君にも内容を伝えてください。
それでは私は もう少しここに残って仕事をします。最後に皆さんの落とし物が無いかを確認するのも、エレベーター裁判官の重要な仕事なのでね。
よく落ちてるんですよ。人は皆、急ぎ足だ。大切なものをエレベーターにまで落として行く」
こう言った後、ノボリヤはエレベーターの扉を閉じた。
「待ってください、ノボリヤさん。そんな狭いエレベーターに落とし物なんか無いでしょう?それよりも私、訊きたかったんです。ノボリヤさんは なぜエレベーター裁判官の仕事をされてるんですか?
ノボリヤさん、扉を開けて最後に教えてください!」
ユキコはエレベーターに向かって 声をかけたが扉が開くことは無かった。その後しばらく、しゃがみこんだまま目を閉じて 瞼にノボリヤの残像を見ていた。
数分は経っただろうか。目を開けると、ただ銀色に輝く無機質なエレベーターの姿がそこには在った。
渡された紙に 意識が向く。
一体 どんな手紙を私に残したのだろう?
折り畳まれた紙を開けると そこにはノボリヤからの法律家らしいメッセージが記されていた。ユキコは、ドキドキしながら読み上げた。
『エレベーター内で 次の3点を紛失した者は重罪人として、終身刑を言い渡す。
【思いやり】 【勇気】 【恋心】
ただし...』
ここでユキコの声が止まった。ここから先の最後の1文に、 先ほどのノボリヤへの質問の答えが書かれてる予感がしたからである。
《ノボリヤさんは、なぜ裁判官の仕事をしているのか?》
目立ちもせず、お金にもならず、誰からも褒められもしないのに。
なぜ彼は 人を裁くのか?
ノボリヤからの手紙の最後には こう書かれていた。この最後の1文が 将来を絶望しかけていたユキコの胸を熱くした。
『君たち若者については将来性を考慮して
如何なる場合も無罪を推定する』
彼は責めるために人を裁いている訳ではない。むしろ許すために 人を裁いているのだ
《ノボリヤさん、 ありがとう...》
駐車場の閉鎖時刻を告げるアナウンスを聴きながら。ユキコは ウグイス坊や君の法学テキストをしっかりと握りしめた。
《あなたの無罪については、きっと真面目な彼が証明してくれますよ》
閉ざされたエレベーターの扉から、吹くはずの無い風が優しくユキコの耳元をくすぐった。
《完》
作・ひろまる愛理