いまさら、いまなお
サブレーとは、フランス語で「砂」という意味があり、そのサクサクと崩れる食感に由来するとか。
日本語で「砂を噛むような」と言えば、味気なさに情けなさも加味されて、決して良い意味では用いられない。
砂にも美味しい砂とそうでない砂がある。
ちなみにSugar、砂糖の語源も砂であるとかなんとかどこかでちらっと見たような気もする。砂漠の砂がすべて砂糖だったら、吸湿効果でさらに空気が乾燥するんだろうか。そんでさらに気温上昇、やがて溶け始め、シロップになりカラメルになり……その辺でやめとけ、自分。
リモートワークなど致しようのない職場で、感染症対策のためにかえって忙しさの増した残業の日々、「……今日はもう無理ィィ!キーッ!!」という心の叫びと裏腹に、疲労でのったりとしか動けない体で帰り支度をしながら、空きっ腹に頂きもののサブレーを放り込んだのだった。
砂を噛むような仕事と砂に例えられる焼き菓子。朝に淹れたきり、保温マグの中でぬるくなったコーヒーが、この上なく美味しく思える。これも天の配剤と思おうか。
幸い、むやみに忙しいことを除けば、人間関係も良く仕事もフォローし合える恵まれた環境である。しかし、辛いとか辛くないとかいうことは、相対評価ではない。誰かの辛さを他の誰かが判定することは不可能だ。あくまでも、その辛さは感じている当人だけのものである。
「やりがい!」があろうが、「仲間たち(^^)」がいようが、「誰にでも出来て稼げる簡単なお仕事☆」だろうが、それが仕事であるならばつらみはもれなく発生する。え?辛さは当人だけのものって、言ってるのと矛盾してる?
いや怪我や病気の症状としての痛みは存在するが、その痛みは当人だけのもの、というのと一緒よ。「やりたい仕事」?いやそんなもの存在しないのよ、この宇宙のどこにも!
それでも此度のコロナ禍により、「痛勤」という苦行からひとまず解放された方々は、「…働くって、何かね?」(←『北の国から』の菅原文太で読んでください)と、あらためて考えたり考えなかったりした向きもあろう。そのビフォーアフターで、価値観や固定観念がひっくり返るのが歴史の転換点ならば、今がまさにその時だろう。
仕事だけではない。人同士のコミュニケーションの基本が変わろうとしている。とにかく「接触しない」「距離を取る」こと、それってつまり、今までコミュニケーションとされていたものの真逆なわけだから。
集まる。会って話す。会って飲食する。触れ合う。それが危険な行為とされる人間社会。SFを超えた現実がいきなり来たよ。しかもあっという間に浸透した。命の危険に直面したときに身を守るいきものの本能は強力だ。
その素地はあった。インターネットで大抵のことは可能な世界を、既にわたしたちは得ていた。『ペスト』の時代ではなかった。
わたしの大好きな演劇も配信が可能である。劇場に行かなくても、いい。
いい。けど。
その日のその時間にその劇場へ行き、客席に座り、目の前の舞台で、その場その時その役を生きている俳優の姿を観る、わたしにとってはそれが演劇なのだ。一回一回の舞台は、真にあらゆる意味でその一回だけだ。わたしはそれを観に行く。その日、観る者と観られる者との間に生まれるそのときだけの時空、そのゆりかごが劇場である。わたしは、劇場に身を委ねる幸せを知ってしまっている者である。
この記事、実は2020年の6月頃に下書き保存されていたもの。
まさかそれから1年以上経った今もなお、緊急事態宣言下にいるだなんて。
今もなお、感染したたくさんの人が苦しい思いをし、回復しても後遺症に悩まされ、場合によっては命を落としているなんて。
今もなお、公演の延期や中止といったニュースに胸が潰れるような思いをするなんて。
痛みも辛さも当人だけのものである、とわたしは書いた。それは間違いない。けれど、痛む人、辛い人がいる、そのことをわたしは知っている、知ることが出来る。
今さらそんなことを、そう思われるようなことでも、言葉にして声に出して、伝えなければ失われてしまう。人と人が否応なく離されていく今、ここが分岐点のような気がする。
会えなくても、触れられなくても、わたしはあなたについて思っています。
今さらだけど、今もなお。
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