『赤鬼』をみた
ヨガばかりしている間に、すっかり情報社会から遠ざかり、そもそもこのコロナ禍でどうせ(怒)演劇なんて(泣)やってないし(哀)、と油断していたら、そろりそろりと各劇場が再開しており、東京芸術劇場の再始動として芸術監督の野田秀樹氏作・演出で東京演劇道場の道場生による『赤鬼』が上演されることを知ったのは公演直前だった。
…マ・ジ・カ・ヨ……もうチケットなんて、ハハッ無理っすよね…と、やさぐれつつ探りを入れたら、なんと追加公演分がまだ残っていた!またこういうところで運を使ってしまうわたし、宝くじ…いや、言うまい。
わーい!久々の野田さんだ!演劇好き≒野田さん好きとわたしは思っているのだが、そうじゃない向きもいるかしら。少なくともわたしは大好きです。夢の遊眠社の終わり頃から、NODA・MAPもほぼ観ている、といってもここ数年はチケットが取れずに歯噛みすることが続いていた。嬉しい。
『赤鬼』を観るのは今回が初めてだ。←ほぼ観ているんじゃないのかい。初演が1996年。その後、タイ・英国・韓国バージョンなども作られて、東京でも何度か上演されている。もともとの登場人物は4人だったが、タイバージョンで17人になり、今公演で道場生が演じるのはそちらの方。さらに今回はA・B・C・Dの4チームで順番に上演される。わたしがチケットを取れたのはAチームの追加公演であった。若い役者さん達が集まって野田氏のもとで研鑽を積んできた、そのお披露目とも言えるのだろう。期待大。
わたしにとって東京芸術劇場は、小劇場や映画館に行くのとはちょっと違う気分になる場所だ。いつもより少しだけお洒落して行く。職場ではつけられない大振りのピアスして、なんならワンピースだって着ちゃう。へへへ。え?ひとりですが何か?
自由席で整理番号は100番台、客数も制限しているはずだし、あまりよい席は望めないかーと思いつつ、ドトールでテイクアウトしたホット豆乳ラテを飲みながら、劇場前の一人掛けソファで待つ。自分ひとりの時は芝居を観る前に食事はしない。上演中に眠くなったり、何かの加減でお腹が痛くなったりしたくないからだ。気分の高揚による嬉ションなのか、普段よりトイレも近くなりがち。その辺も踏まえての用心。
シアターイースト/ウエスト前のスペースは池袋駅の地下道に直結しているので、誰でも入れる。同好の士や無関係の士もそれぞれの時間を過ごしている。番号が呼ばれるとみな粛々と入場する。感染予防対策で、手と靴底の消毒はもちろんのこと、チケットの半券は自分で切って箱へ入れるセルフもぎり。当日フライヤーの束も壁際に積んであるのを自分で取る。
場内に入ると、白い床を貼った舞台が中央に、その四方を囲むように客席が配置されていた。さあ、舞台正面がひと目ではわからない、こうした配置の場合はどこに陣取るかが大事なところだ。芝居そのものは、きっとどこから観てもいいように作っているはずだが、なるべくシーン全体をしっかり捉えられる場所に座りたい。ひとまわり見渡して少し考え、入り口から見て下手側ブロック、最前列の奥の端にした。これが当たりだった。出はけの通路のすぐそばで、役者さんが間近を通る。しかも主だったシーンの概ね正面だったのだ。また運を使ってしまった。
客席と舞台の間には、感染予防のため今やあちこちでお馴染みの透明なシートが吊り下げられている。照明が入って反射しないか、揺れが気にならないか、などと少し心配したが、役者さんが出てきた瞬間に、そんなことはすっかり忘れて舞台上に集中することができた。
で、内容については、戯曲もとうの昔に出版されているし、現在上演中でもあるし、ここでは触れずにおく。は?これって観劇の感想じゃないの?と思われましたか?思われましたね?いやーだって『赤鬼』なんてさ、とっくにマスターピースなわけですよ、いまさらわたしがちゃちな感想を述べたところでねえ、あなた。
さあ、それなら今回わたしは何を述べたくてここまでつらつらと書いてきたのか。
わたしというひとりの観客が、演劇を観に行くということの、その細部を記しておきたかったからだ。
劇場で上演されている舞台、そこに集まる観客のひとりひとりにそこまでに至る細部がある。もちろん上演する側にも。そう、この数か月間、コロナによって失われていた細部だ。それらが、膨大なそれらが、今この場にある!わたしはその事実だけで涙が滲む思いだった。
そしてその舞台は、だれもマスクなどせず(時事ネタとしてちょこっと出てきた笑)、「ソーシャルディスタンス」など取らず、汗と飛び散る唾液にまみれながら、17人がくんずほぐれつする、まさに演劇でしかないものだったのだ。
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