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『象は静かに座っている』をみた

@川崎市アートセンター。初めて訪れた。立派な建物、小劇場と映像館とがある。寡聞にして知らなかった。
日頃、住んでいる区内からほとんど出ない。それで仕事も生活も娯楽もだいたい間に合ってしまうからなのだが、30分程度でも電車に乗れば、意外と広い世界があるのだった。
今回この作品を観ようと思った最大の理由は、作家の平野啓一郎さんがFacebookで詩人の田原(ティエン・ユアン)さんのコメントを紹介されていたから。「普通の映画との最大の違いは、詩人の想像力、詩人の言葉、詩人の視線、詩の跳躍と不確定性があるということだ」…この世界の片隅でこそこそと詩まがいをものしている程度のワタクシではあるけれど、それなら尚更観に行かねばなるまい。
ついでに最小の理由は、冬休みに入った我が息子が友達を家に泊めると言い出したから。ただでさえ狭小な我が家に男子高校生が4人…酸欠になるのは明白。「じゃ、あとは若い人同士でごゆっくり、ニヤニヤ」と気を利かせた体で、実は逃げ出したというのが正確である。

映画に登場する主だった4人にも、心安らげる居場所はなかった。
親子や兄弟・友人との確執であったり、報われぬ恋情であったり、老いた自己の処遇であったり、それらが決して広いとは言えない共同住宅や学校や荒んだ街中で、逃げ場もなく煮詰められている日々。とにかく出てくる誰も彼もが、皆一様に不機嫌で投げやりで無愛想で、明るさの欠片もない。にもかかわらず、人と人との距離が近い。と言っても親密ではない、暴力的に不躾で唐突な近さ、野生、と呼びたいような。
独特のカメラワーク、人物の背中から後頭部にかけてを、ひたっと一定の距離で追い続ける。それは人物が移動し続けているということでもある。会話したり関わり合う相手や風景にはピントが合わないまま、後ろ姿もしくは横顔にのみ焦点を絞った画面が続く。観ているうちにちょっと気持ちが悪くなった、歩くのにつれてカメラも揺れるので、少し酔ってしまったらしい。
風景もストーリーも人々も鬱々としている、この鬱屈がすっきりと晴れるような出来事やエピソードをずっと期待している自分に気付かされる。しかし延々続く長回しのうちにわかってくる、「普通の映画」で観客が期待するようなドラマはまずないだろうと。なんとなれば、この映画が描いている世界は、この世界のどうにもならない現実そのものだから。
揃いも揃って俳優たちがとてもいい。佇まい、眼差し、そして横顔。なんて美しい横顔だろうかと、見惚れてしまった。横顔オーディションでもしたのかと思うくらい。あと個人的には章宇(チャン・ユー)さん。はい、カッコいいのひと言です。演技も申し分ない、手下を引き連れているギャング、きっとあくどいことにも手を染めているのだろうけれど、内に秘めた純粋さと諦めからの寂寥を厭味なく滲ませるその加減が絶妙だった。
そしてやはり監督のことに触れないわけにはいかないだろう。既に知られていることだが、監督である胡波(フー・ボー)さんは、この作品を完成させた後に自ら命を絶った。享年29歳。プロデューサーとのトラブルなどもあったらしいが、3時間54分というこの映画の時間とその世界に、きっとすべてを捧げてしまったのだと思う。ときおり現れる、傑作と呼ばれる作品を生み出すためだけに神様が遣わした人のひとりではなかったか。
映画の中の彼らは、「ずっと座っている象」を見に行くために出発するが、目的地である満州里への列車は運休で、途中の街までしか行かない長距離バスに乗り込む。それは旅ではない。旅は最後に帰るから旅と呼ばれる。彼らは帰らない、少なくとも帰る気はない。そしておそらく、目的地へ辿り着くこともないのだ。
行きたい場所と生きたい場所、行ける場所と生きられる場所。「どこも同じだ」とわかる、実は知ってもいる、それでもどこかで期待をしている。自分であることをやめられない限りは。

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