発信したことが、あなたにとどいたら
日本語講師業を続けていると
日本語という言語学的な視点と社会からの要請で変わっていく教育に求められる内容を、俯瞰的に見られるようになってきたか。。とひよっこながら、思う。
そして、数年かけて輪郭がはっきりしてきたものー
それは、外国語教育の場はコミュニケーション教育の場であるということだ。
もっとも、言葉はコミュニケーションツールの一つなのでいうまでもないと感じる人もいるだろうが、コミュニケーションは人と人の対話なのであり、対話を通し、関係を構築し、私たちはつながりを形成している。
コロナ禍で鎖国状態が続く日本だが、外国人財の受け入れが急速に進められてきた日本において、日本語教育の大切さが声高に叫ばれる昨今、コミュニケーションの観点から見れば、これはコミュニケーションに携わる外国人側が努力しなければいけないことであり、外国人との日本語のコミュニケーションが円滑に進まない理由も「外国人側の日本語力」とも捉えられがちであると言えるのではないか。
しかし、である。
日本人しかいない日本語で働く職場でも同じことは起こる。「あの人とコミュニケーション通じないなー」「もうーはなしたくない!」「何考えてんの!あの人」という発話をいくつかの現場で耳にしてきた。
果たしてこの状況で、コミュニケーションをしたいという気持ちが沸き起こるか。言葉を発する、それ以前に「ここでは、安心して話せる」その環境を整えていくことへ力も注ぐことが必要だと考えるようになった。
これは日本語のクラスでも同じで、何を教えるか、どう教えるかは言うまでもない、大事。トライアンドエラーの繰り返し。それと同時に、「クラスでの発話が安全になされると学習者が感じられること」「話したい気持ちになる仕掛けを作ること」「タスクを通して話す機会を設けること」といった場作りにも同じくらい、トライアンドエラーをしながら実践しているのだ。
つまり、コミュニケーションの失敗ができるクラス環境を作り、失敗しても許せる関係を育むことを志向した場作りである。
広義の「日本語教育」と私自身は言っているが、文法や言葉を教えることと同じくらい大事だと思っている。特に、昨今の外国人財受け入れにおいては職場の環境整備がまず先、と思うほどだ。
だが、思っているだけでは伝わらなくて、研究をして根拠を示してみたり、実践をしてみたり。クラウドファンディングで資金を集めたこともある。
また、実践にあたり、以前の勤め先では、このような活動が認められなかったり、コロナ禍でどう動くことができるのか見えなくなったり。いろいろなことにつまづき、挫け、ときに無理かもという思いに駆られたことも。個人でやっているからダメなんだとか、法人化することによる社会的信用や社会的責任を担うこと、活動資金となる補助金の獲得が必要なんじゃないかというのもいろいろ考えてみた。
一方で、活動が広がること、集客が大事なんだろうかという思いがずっとあった。何をしたいのか、という根本に通じることだ。
もちろん、自分の思い・考えに賛同してくれる人がいるのは嬉しい
しかし、物事を成す道はいくつもあり、いろいろな方法の一つを私は提示しているに過ぎない。
わたしは、発信をし続けて、「これ、いいよね!」と共感してくれる人を増やしたいんじゃない。
出会いたいのである。一緒に笑いたいのである。
そうやって、現場が元気になり、変わっていくこと。多様性、当たり前!と感じられること(もうその段階では「多様性」なんて概念も必要ないだろうか)
しごとってそういうこと、はたらくってそういうこと。
わたしがしたことが、だれかのこころにポッと、あかりがともせること。
多分効率や生産性などの問題ではないのだ。
一生のうちに出会える人が限られているのは当たり前で、限られた時間で一人一人につたえる。
そういうつながりを、作っていくことが、自分の希望なんだと知る。
あなたに、とどけ!私の活動(対象が限られているんですが。。)