沖縄と日本の新しい関係 - 映画『返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す』によせて
大学時代から大好きな先輩であるレイさんから久しぶりの連絡。太秦で働くレイさんが宣伝を担当している映画「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」が那覇市の桜坂劇場でも上映されるとのことで、上映初日の舞台挨拶の日に合わせてFM那覇の私の番組でも取材に伺うことになった。
この映画は、宮川徹志さん著「僕は沖縄を取り戻したい 異色の外交官・千葉一夫」を原案に、沖縄返還問題に尽力した日本政府の実在の外交官、千葉一夫氏を描いた作品だ。柳川強監督、千葉さんを演じる井浦新さん、妻の惠子さんを演じる戸田菜穂さんにインタビューさせていただいたのだけど、私にとって正式なインタビューらしいインタビューは初、しかも沖縄返還は個人的にちょっと思い入れがあるトピックでもあり、作品を拝見したらいろんな思いが去来した。うまく気持ちも纏められないままインタビューに臨んだ私はまるで慣れない面接を受ける就活生さながらの頼りなさだったと思うが、お三方ともとても丁寧に応じてくださった。
さらに、せっかくなので放送丸々1回分この映画を特集したいと思い音楽を担当された大友良英さんにも電話インタビューを依頼したところ、お忙しいなか急なお願いにも拘らず快諾してくださった。みなさんに感謝しかない。
この作品は千葉さんのドキュメンリー的な性格も持つが、インタビューでの私の新米感が助長する生々しさもある意味ドキュメンタリーっぽいかもしれない……という、その特集放送のアーカイブ映像・音源は記事の最下部に。ご視聴いただけると幸いです。
「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世」と嘉手苅林昌さんが歌った沖縄は、アメリカ世からさらに大和の世になって45年経つ。今では日本本土に限らず沖縄でも、沖縄がアメリカ軍の統治下にあって、日本から行くのにパスポートが必要な時代があったことを知らないひとは多い。かくいう私も返還後生まれなので、車が右側通行だったのも、通貨がドルだったのも、リアルタイムでは経験していない。
沖縄の施政権がアメリカ軍から日本に移行したいわゆる「沖縄返還」「本土復帰」の1972年5月15日、私の父は那覇市民会館での沖縄復帰記念式典の会場をセッティングしていた。沖縄出身の父は台湾に疎開し12歳で終戦を迎えたが、のちに東京に渡り、そして吉田嗣延さんに拾われて総理府(現在の内閣府)の南方連絡事務局に入職、以後沖縄返還に向かう総理府の片隅で、月200時間超過勤務・残業手当なし、ビートルズそれ何?、という激務ルートの5、60年代をひた走ることになったようだ。復帰後は沖縄が日本の一部になったため沖縄開発庁ができ、沖縄県総合事務局ができた。父が帰沖し総合事務局にいる頃に私は生まれた。
「返還交渉人」のなかで千葉さんが「ヤマトゥンチュに何がわかる」と言われる場面を観ると、父が「政府の犬」と沖縄側の某要人に言われた話を思い出す。国から来ているため、敵意を向けられたり中傷されたりすることもあったようだ。沖縄出身で、沖縄のより良い未来を想い願って働きながらも、立場が違う政府側にいることで感じる忸怩たる思いも胸に秘めていたはずだ。その矛盾を自分の中に閉じ込め、時に同郷の人間に敵意を向けられながら生きるのは厳しいなあと思うし、私にはできそうにない。これは私から見える、マクロでありミクロな「沖縄と日本本土の溝」だ。
日本の「捨て石作戦」を受け、結果的にアメリカ軍が上陸し民間人を巻き込んだ過酷な地上戦の舞台となる、その「ありったけの地獄を一つにまとめた」と評される沖縄戦で県民の4人に1人が命を落としている沖縄では、親族が犠牲になっていない人を探すのが難しい。終戦後も、沖縄の住民の土地は米軍に強制接収・基地の建設がすすめられ、事実上沖縄は米軍の統治下に置かれることになる。日本にとっては、アメリカに日本の一部であった沖縄を抑えられた状態だ。そして、在日米軍基地の大半が集中する沖縄は日米関係を安定させる杭のひとつのような格好になる。沖縄からすれば、日本に捨て石にされ沖縄戦の苦渋を味わった挙句、土地を奪われ、終戦してなお戦中のような戦闘機の轟音と事件と事故にまみれた時間が続くわけで、この理不尽を改善すべく基地の撤去・軽減などを交渉の窓口である日本政府に訴える。しかし、単に日本政府からアメリカに訴えれば事が動くわけでもない。アメリカからすれば、犠牲になったたくさんの自国の兵士の尊い命と引き換えに勝ち取ったアジアの要衝の話に「そこまで言うなら仕方ないなあ」とやすやすと譲歩できない。そんな難しい関係性のなか、結局沖縄は捨て石の位置付けを引きずったまま現代まで時が流れた。本当は日本全体で共有されるはずだった国の問題が、共有の機会が長らく失われたことで地域間の溝を深めた、沖縄と日本本土の溝が深まっていったのはそんな構造の上で、だと私自身は認識している。
しかし何年か前、2014年の沖縄県知事選あたりから、東京に居ながらにして沖縄の話がだんだんできるようになっていく空気を感じていた。数十年のスパンで見ると普天間基地移設問題が紛糾し続けてきた結果なのだろうか。あれは、小さな変化だけど大きな流れの始まりだったのかもしれない。
今回「返還交渉人」初日の舞台挨拶で、井浦さん自ら会場から挙がった声にマイクを渡すべく会場を回られていた。県外から移り住んで来た方や学生さんの声もあり、声を震わせながら語る方もいた。沖縄とのそれぞれの関係性を抱えたひとたちが、同じ空間で同じ映画を観て、より深く沖縄を知り、より広い視野を獲得する。そしてズキズキするような沖縄への想いも含めて正直な感覚を言葉にし(でき)、みんなでそれを聴く。これって凄いことだと思う。共有する空間は前向きなエネルギーに満ちていた。柳川監督、井浦さん、戸田さんへのインタビュー、あの舞台挨拶の空気、そして大友さんへのインタビューを経て、私は、沖縄と日本本土の哀しい溝にちゃんとみんなで向き合える日が来るのだな、と感じた。そう思わせてもらえたことは私にとっての宝だ。この映画は私にとってそんな作品になった。
ひとことでは到底言い表せない壮絶な戦中戦後を送り、抱えきれない思いを胸にしまったまま亡くなった方はたくさんおられる。そういった無数の記憶は、掬い上げられ後世のフィルターを通ったものだけを残し否応無しに消えてゆく。沖縄戦のトラウマは社会構造や県民の精神衛生に未だ根深く影響を与えている。基地も相変わらず物理的にそこに存在している。太平洋戦争を経て残った有形無形のこれらに向き合うことができれば、日本と沖縄の関係性は新しいゾーンに入っていけるんだろうなと前向きな気持ちでいる。
ところで、今回大友さんに映像音楽のことでお話を聴けたのは音楽家として個人的にとても嬉しかった。劇伴の音作りの考え方、「返還交渉人」の音楽を担当するにあたっての音楽的キャスティング、ノイズの捉え方、いろんな視点からお話が聴けて興味深かった(放送のアーカイブで聴くことができる)。
そして、じつは「返還交渉人」のインタビュー以外にも、あまちゃんをほぼ毎日観ていた者として、大河ドラマのオープニング曲好きとして、それらの話をたくさんしていただいたり、赤塚不二夫先生の話題で盛り上がったりしたのがまたすごく感慨深くて楽しかったのだけど、その話題はいつかの機会に。
ありきたりなことも多分に含まれているけど、今一度、と思い長々と書いてしまった。
最後に、「沖縄」と一口に言うけどたくさんの島々地域からなり事情や意見は千差万別。私の言う「沖縄」は基本的にひとりの那覇市民目線であることを付記しておきます。
FM那覇「ナライブサンプラス 」返還交渉人特集 アーカイブ音源・映像
「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」チラシビジュアル (C)NHK