タイムスリップ 79年前の伯父とお盆
お盆の中日、久々に父方の実家本家に。
80歳をゆうに超える伯父も伯母も元気そうで、たわいもない話に花が咲く。「お互い耳が遠くなったから、何を言っているのかわからなくて喧嘩が成立しない」という話には笑ったが、この後、79年前の伯父のお盆を知ることになる。
正午のラジオと追悼式
お仏壇に手を合わせたあとおしゃべりしていると、こちらの話が聞き取りづらいのか、話半分でテレビに気を取られていた伯父が「そうだなぁ。ラジオ、このぐらいの時間に流れたからなぁ」とつぶやいた。
伯父の視線の先に映るのは、戦没者追悼式。私もつられてテレビに目をやる。「ラジオって、玉音放送のこと?」と聞くと、「そうだ」と伯父。黙祷を捧げる場面を見ながら、玉音放送は正午だったのか、だから戦没者追悼式は正午に行うのか、と内心驚きながら、そんなことも知らずに四十云年生きてきた自分が恥ずかしくなる。
「おっちゃん(伯父の呼称)は、ラジオ聞いてたの?」
「聞いてたさ。よくわからなかったけど。」
そういうと、伯父はテレビに目をやったまま「お前は知らないだろうけど、長野にも空襲があったんだ」と、8歳当時のお盆の話をしてくれた。
あの日。
8月13日。ちょうどその夏は祖父(私の曽祖父)の新盆で、伯父は5キロほど離れた親戚の家までひとりで皆を迎えに行ったという。着いてすぐ、いとこと遊んでいると、突如バリバリバリバリとものすごい音がした。米軍機が飛来したのだ。
それが、長野空襲だった。
伯父はすぐに庭先にある防空壕に逃げ込んだという。隣で話を聞いていた伯母が、「防空壕、あったの?」と聞く。「あぁ、その家にはあったんだ。うちにはなかったけれど」。そのまま、どの家には防空壕があった、なかった、の話が続く。
ドラマや映画をみて”防空壕は地域にひとつ”と思っていた私は、庭にあることに驚きながら、ふたりの会話から当時の感覚や気風を感じた気がした。今とそう大きく変わらないであろう景色の中に、今と全く違う概念が横たわっているのが見える。
それにしても、その空襲は一体どれだけの衝撃だったろう。戦時中、多くの人の疎開先でもあった長野。田舎ゆえ、米軍機なんてほとんど飛来しないし、子どもたちは頭上を通過する軍用機をみては「おーい」と両手をかざしていたという。つまり、子どもたちには軍用機は怖いという認識はなかったのだ。それが、突如牙を剥いてくるなんて。
長野空襲のあった地域は、田んぼが軍用機の飛行場に改められたエリアだそうだ。
飛行場近くに生まれ育った伯母は、当時3歳ながらも轟音と共に滑走路を飛び立つ軍用機の姿を覚えているという。やはり長野も、のどかな田舎という側面だけではなかったのかもしれない。
「新盆だから」と親戚を迎えに行ったはずの伯父はその後どうしたか。
爆撃がおさまると、大人たちにすぐ帰るよう促されたという。家族が心配しているだろうし、家の方が親戚宅より飛行場からわずかながら離れている。
「こんな爆撃の後にひとりで帰る方がよっぽど怖いと思ったけれど、仕方ない。走って帰ったよ」。
まだ8歳。道中、どんなに不安だったろう。その心細さや不安を思うと、胸がギュッとする。
タイムスリップ
結局その年、新盆の供養をしたかどうか、伯父の記憶は定かでない。
けれど、迎え盆の日の朝、空襲を目の当たりにしたこと、防空壕に逃げ込んだこと、不安の中ひとりで帰ったこと、その2日後にラジオで戦争の終わりを告げられたことは、驚くほど記憶が鮮明だ。それだけ、伯父の中に深く刻まれたということか。
日常と戦争が入り混じる、79年前の伯父の夏。
見慣れた風景、風習の中にそういう記憶を重ねると、自分自身がタイムスリップしたような感覚になる。
戦後生まれの両親からも、すでに天国に旅立った祖父母からも、戦争の話を聞くことはない。たまたまついていたテレビをきっかけに、身近な戦争の記憶に触れることになった。知れて、よかった。話してくれてありがとう。