ごめんなさい
飯田美子は歩道橋を登りながら、化粧をしてこなかった自分を少しだけ悔やんだ。
化粧をしてこの男を向かい入れること自体、今回の男女のゲームにおいては負けだと思い、ほとんどすっぴんで男を迎えにきた。と言っても、美子は今回の男に限らず、男女のゲームに勝ったことなど一度たりともなかった。
歩道橋の真ん中で、しばらく男を待った。まだ大学生の男だ。看護師をしている美子に、何度か金を借りに来ている。今日もそんな感じになるのだろうか、と思うと美子は胸が苦しくなった。あまり残念に思われたくもない。財布にいくら入ってたか確認しようとしたところで、男が歩道橋の反対側から現れた。
軽く挨拶をすると、2人で歩道橋を降りた。
男のテンションが上がっていないのが伝わってくる。近くのスーパーでお酒とおつまみを買って、家に戻った。
阿佐ヶ谷から15分以上歩かないと美子の自宅にはつかない。男は歩き疲れたという風に何度かため息をついた。
「ごめんね、遠くて」
「いや、ぜんぜん大丈夫」
「うん、ごめん」
美子の口癖は「ごめん」だった。看護師になってからその口癖はさらに強固なものになった。同僚や先輩の看護師や医者に対してもごめんなさいはいつだって効果を発揮するし、老人の患者に対しても効果てきめん。一日に20回ぐらいは使うのではないだろうか。逆にいうと、それぐらい美子は仕事ができなかった。
ついでに、美子はブスでもあった。だから、この大学生と何度かセックスした時も、尻の穴にディルドーのようなものをぶち込まれて、全く気持ちよくなかったものの、一生懸命喘いだ。それぐらいのサービス精神がないと、男にそっぽを剥かれることが、美子の長い負け戦的人生の中で、分かりきっていることだったのである。
部屋に戻ると、テレビをつけて、2人でベッドに横になった。しばらくすると、意を決したように男が襲いかかってくる。どうしてもしないといけない宿題の教科書を開くように、無理やり美子の股を広げる。その義務というか、やりたいことをやっているという感覚ではなく、やらなければいけないことをやっているという感覚が伝わってきて、美子は自分の体温が少しだけ下がったような気がした。
男は半ば無理やり腰を振っている。美子はそのリズムに合わせて喘ぎ声を出している。お互いそういう風にやれと誰かに言われているような、安定的かつ労働的な動きだった。美子は男の顔を見て、目を瞑っていることを確認すると、心の中で「やっぱりね」と密かに思った。
男は美子の腹の上に放ったそれを拭こうとはしなかった。美子は自分で手を持ち上げ、ティッシュを手に取り、腹にかかったそれを拭いた。
「お腹すいたな」
タバコを吸いながら男がそう言ったので、美子はデリバリーでちらし寿司をたのんであげることにした。でも、そこら辺の高校生のアルバイトぐらいの賃金で働いている美子にデリバリーアプリの金額は高すぎて、二人前はさすがに頼めなかった。
「一人前頼んだから、2人でわけっこしよ」
美子はそう笑ったが、男はテレビを見ているだけで男の反応もしてくれなかった。しばらくの沈黙の後、「なぁ、金、貸してくれない?」と男から打診があった。分かってはいたが、また胸が苦しくなった。さっきのデリバリーだって2200円ぐらいした。財布には5000円しかない。というか、彼氏になってくれるわけでもないこの年下の大学生に、なぜ私はお金を貸さないといけないのだろう。そんなことを考えていると、インターフォンが鳴り、ちらし寿司が届いた。
ちらし寿司を前に、美子と男は沈黙していた。美子はすでにこの男に2万円ほど貸していた。返してもらうつもりはないが、男も返すつもりもさらさらなさそうだった。
「お金、やっぱり君のためにならないと思うんだ」
勇気を振り絞ってそう言った。私にだってプライドがあるんだ。お金を借りにセックスしにくる男に、一矢報いたかった。「そう、わかった」男は食い下がるわけでもなくそう言って、ちらし寿司を1人で食べきった。美子には一口も渡さず、1人できれいに食べきった。そしてもう一本タバコを吸ってから、家を出て行った。
ちらし寿司が貼ったプラスチックの箱を捨てながら、美子は明日の仕事を思った。今日の悲しいセックスのことや、返ってこないお金のこと、もうあの男から連絡が来ることはないだろうという予想や、一口のちらし寿司が食べられなくて悲しかったことなどを全て頭から取り除きたかった。しかし、仕事のことをを考えても、明日も20回以上は「ごめんなさい」と色々な人に謝らないといけないと思うと、美子は少しだけ泣きそうになってしまった。
どうしても人生は続けなければいけないものなのだろうか。
「お母さんが死んだら、私ももういいかな」
そう独り言を呟いた時、腹の表面に残っていた精液と、少しだけ生えているへその下の毛がくっついていることに気づき、美子はシャワーを捻った。
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