枯野
昨年英国ケンブリッジにて発見されたアーサー・ウェーリーの草稿ノートに、東北院霞野(とうほくいんかすみの)「枯野記」の英訳が記述されているとの研究論文が、先日イギリスの学会誌に発表された。
東北院霞野はその名から、紫式部、和泉式部ら日本古典文学を代表する女流文学者を従えた一条天皇皇后、藤原彰子の晩年期の女官とされている。しかし現存する彼女の記録は、一つは藤原通俊の日記で彼女の歌集「霞野四十二首」を読んだという記述、もう一つは源経信の日記にある、彼女が亡くなったおり当初冷淡だった彼女の愛人の公家が、彼女の遺稿「枯野記」を読んだ後慌てて盛大な葬儀を行ったという、いささか皮肉めいた記述だけである。
この論文によれば、ウェーリーのノートに「低い身分の出自ながら文才を認められて上東門院(藤原彰子の出家後の名、東北院の別名)に仕え、後に公家の愛人となった女性の作」との但し書きが原書にあったとの記載があり、 冬枯の野原を主題にした随筆文であることから、この翻訳の原書が「枯野記」である可能性が高いとしている。
ノートの他の記述から、1930年代後半に「枯野記」の翻訳が行われとみられるが、原書はウェーリーの遺品にはなく、どのような経緯で「枯野記」がウェーリーのもとに渡ったのか全くの不明である。「枯野記」を保有していた別の人物の依頼でウェーリーが試訳した可能性もあり、日本の平安時代の謎の女流歌人が残した作品が英国に存在するかもしれないとあって、学者だけでなく古文書収集家の間でも話題となっている。
「何十年もご無沙汰していて、いきなりこんな連絡するのはとても残念です。実は北野香澄が一昨日亡くなりました。遺族の意向で葬儀は行わず、また告知も近しい人のみとのことです。」
白川啓吾が、藤沢晶子からこのメールを受け取ったのは、しっとりとした雨が降る六月の土曜日の昼下がりだった。ちょうど大手町から東京駅に向かう途中の交差点を渡ろうとしていた時で、香澄は彼が十九歳から三年間交際した女性で藤沢晶子はその親友、と思い出すのに十数秒ほどの時間がかかった。彼は既に五十歳を超えて、その頃から既に三十年も経過している。今は無縁の人の事と、このメールを無視しようかとも考えたが、『葬儀は行わず、また告知も近しい人だけ』という文面がどうしても気になった。あまり気の乗らないメールのやり取りを交わした後、啓吾は一週間後の夕刻、藤沢晶子と会う約束をした。
約束の日は、六月にしては真夏を思わせる晴れた暑い土曜日だった。晶子が指定した場所は、香澄と交際していた頃、晶子とその友達がよく使っていたカフェを兼ねた洋食レストランだ。香澄と別れてから行くことがなくなり、結婚して隣町に引っ越してからは、啓吾はその店のことをすっかり忘れていた。今も残っているなんて奇跡だと思った。だが約束の日にその店へ向かうと、その道中の様子も店の周囲も店の外装も当時とは異なり、啓吾には別な店のように思えた。しかし彼が店内入った時、窓際のテーブルの席から立ち上がって手を振った、青い夏服の小柄な女性が藤沢晶子だとすぐにわかった。
「久しぶり。前回会ったの、いつだろう?」
「香澄さんと北野先輩との結婚式以来だと思います。あと数年で三十年になりますか。」
「白川君は変わらないね。」
「藤沢さんもです。」
晶子はアイスミルクティー、啓吾はホットコーヒーをオーダーした。
「雰囲気が変わって別な店みたいですね。こんな音楽をかける店でしたっけ?」
啓吾はゆっくりと店内を見回しながら言った。
晶子は天井を見上げ店内に流れる音楽をしばらく聴いた。
「昔聴いたことがある歌ね、タイトルも歌手もわからないけど。」
「トレイシー・チャップマン、『ファスト・カー』という曲ですね。香澄と付き合ってたころ流行っていました。」
「そう言われてみると、ここでかかっていた音楽、昔はクラシック音楽だった気がする。」
「代替わりしてお店の人の趣味も変わりましたか。」
「うん、でも建物の構造は当時と変わってない。ここは昔よく使ってた、みんなのお気に入りの窓際の席だよ。」
「そうですか。すっかり忘れてます。」
「まあそれは仕方ない。ここに来るのも久しぶりでしょう?」
「香澄と別れて以来ですから、ここも約三十年ぶりです。」
店員がオーダした飲み物を二人の前に置いている間、啓吾は窓の外を見た。二人の横の大きな窓から、夕刻の日差しに照らされ、背後の空から浮き立つように建っている、三十階ぐらいありそうなタワー型の高層マンションが見えた。
「あのマンションが出来てもう十年かな。ここからは見えないけど、もう3つくらいあれと同じくらい高さのマンションが反対側にも出来てて、この辺りの景色もだいぶ変わったよ。」
窓の外を眺める啓吾の穏やかな横顔に向かって晶子は言った。そしてアイスミルクティーを一口飲むと、彼女は軽く息を吐いて背筋を伸ばした。
「まずはつらいことを先に片付けよう。香澄ちゃんのことだけど、白川君はどこまで知っているのかな。」
「北野先輩との結婚式の後は、型通りの年賀状を交換しているだけで、結婚生活が続いていること以上のことは何も。」
「そう。香澄ちゃん、高校の教師になって、最初に赴任した高校ではそれなりに上手くいっていたの。でも別の高校に転任してからうまく仕事に馴染なくなってね。もうかれこれ二十年になるかな。うつ病と診断され休職して、それからは復帰しては再発、休職を何度か繰り返してたの。これ、聞いてたかな?」
「いえ、全く。」
「これ以上無理してもと四年前に教師を辞めたのだけど、二年くらい前からさらに悪化して、日常生活も難しくなっていたそうでね。たびたび死にたいと口にするようなって、実際何度か自殺未遂を起こしていたらしいの。それで、とうとう、先週、ついにというか…」
言葉を詰まらせ言い澱む晶子を見て、啓吾はゆっくりと息を吐いた。
「そうでしたか。」
啓吾は沈んだ眼差しを、再び窓の外の夕陽の光での淡いオレンジ色に染まった高層マンションに向けた。
「亡くなった時の様子、もっと詳しく知りたい?」
啓吾は晶子に向き直り、彼女の哀しげな眼差しをしばらく受け止めて、目を伏せた。
「いえ、十分です。」
「いや、実は私もあまり詳しくは聞いてないんだ。そんな事をした彼女を想像するのが怖くて。」
「北野先輩とうまくやってると、すっかり思い込んでました。」
「香澄ちゃんの転任の時期に仕事の愚痴を聞いたり、私もサポートできればよかったのだけどね。その頃は、私も泉ちゃんも出産やら育児やら自分のことで手一杯で、彼女の話を聞いてあげられなかったのが、今でも本当に悔しい。彼女のことを聞かされた時は、もう仕事を休んで休養中でね。それからは、年に一度か二度、香澄の調子の良い時に、泉ちゃんやここに集まっていたメンバーと北野君の所に集まって会ってはいたけれど、彼女のためになったのか今となっては疑問だらけね。」
啓吾は、ストローでゆっくりとアイスミルクティーに浮かぶ氷を回す晶子の手を見ていた。「香澄と最後に会ったのはいつですか?」
「二年ほど前に泉ちゃんと北野夫婦、長広夫婦と都内へクラシックのコンサートに行ったのが最後。香澄ちゃんはあまり会話に参加しなかったけれど、終始笑顔で調子が良さそうでね。まさかそれから三、四ヶ月で会えない状態になるまで悪化するとは思わなかった。」
啓吾は黙って頷くと、コーヒーを一口呑んだ。店内の音楽はシンプリーレッドの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」に変わった。
「先週は金曜の夜に、北野君から第一報を受けた長広君から電話があって、土曜日に私も泉ちゃんも源さんも北野君のところへ押しかけた感じでね。葬式をしないことが香澄ちゃんの遺言で、一応お通夜みたいな感じになったけど、祭壇もなく棺がポツンとあるだけ、長広くんの奥さん除けば、ここによく集まってた高校時代からの馴染みのメンバーだけで、ほんとうに侘しかった。日曜日に火葬したんだけど、まさかこの歳で彼女の骨を拾うとは思いもしなかったよ。」
「そうでしたか。」
「香澄ちゃん、これまでも太ったり痩せたり激しかった時期もあったけれど、この2年でかなりやせ衰えてたのもなんか痛々しくてね。たぶん白川君が見たら香澄ちゃんとは思えなかったかもしれないよ。」
晶子は潤んだ目を窓の外の空に向けた。
「源さんが昔の写真を持ってきてくれてね、長広くんの奥さんは病気になってからの香澄しか知らないから、昔の写真見て、こんなに綺麗な人だったんですか、ってびっくりしてて、泣けてくるやらでね。実はその中には白川君が写ってるのもあって、この件について知らせるかちょっと話題になって、それで私が連絡してこうして君に会っているわけ。」
「驚きましたけど、中途半端な噂話で知らされるよりはいいです。ありがとうございました。」
啓吾はテーブルに手を置き頭を下げた。
「いや、そっちも忙しいのにここまで来てもらって申し訳ない。泉ちゃんも会いたがっていたが、彼女は今旦那さんの仕事の都合で秋田でね。よろしく、と言ってたよ。」
窓の外の高層マンションはほのかに赤味を増していた。晶子は窓の外から店内を見回した。
「ここでみんなと集まってた頃がまるで夢のよう。天体観測会の帰りに香澄ちゃんから、一学年後輩の男子から声かけられたって話をここで聞いたのが懐かしいよ。」
「ああ、僕が初めてOBとして参加した天文観測部のイベントですね。皆さんコーラス部なのに2年連続で参加してたから驚いて、卒業しても仲良いですね、と香澄に声かけたのがそもそもの始まりでしたね。」
「髪型変えて明るい服を着れば絶対どんな人からも美人て言われますよ、僕も付き合いたいぐらいです、って言われて、訊かれるままつい電話番号教えてしまったけどどうしよう?って、そんな内容だったね。」
「そんな相談をしていたとは聞いてなかったな。」
啓吾は穏やかに微笑んだ。
「実は彼女が病気になってから、白川君と香澄ちゃんがあのままうまくいけばよかったのにとつい考えてしまう時があってね。」
「それは、どうでしょう。」
「白川君に出会う前の香澄ちゃんには、どこか取っつきにくい殻のようなものがあってね。私たち、そりゃ仲良くしてたし、香澄ちゃんのこと美人だって言ってたけれど、ほとんど相手にされなくて。でも白川君と出会ってから劇的に華やかな明るい女性に変わったんだよ。」
「ただずっとおだててただけで、特別なことをしたわけでないです。」
「じゃあ聞くけど、いいかな。香澄ちゃんの葬式、私たちのグループしか来てなかったって言ったじゃない。さりげなく聞き流してたけど白川君はどう思う?」
晶子の眼差し受け止めると、啓吾は微笑みを消し目を合わせたまま黙っていた。
「それってね、結婚後香澄の両親が離婚したときに一悶着あって絶縁状態になって、北野くんの両親ともうまくいかなくなってこれも絶縁状態になったという背景があるんだけどさ、ねえ、これ、どう思う?」
「それ本当ですか?」
「うん。」
店内にはスタイル・カウンシルの「マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ」が流れていた。啓吾は険しい表情で自分の手にあるコーヒーカップに目を落とし、数秒俯いたまま動かなかった。そしてゆっくりと息を吐いて顔をあげ、曇った表情を晶子にむけた。
「彼女なら、ありえることだと思います。」
「やっぱりそう思うんだ。」
「あの人ってちょっとした意見の違いでも厳しいところがあるから」
「ねぇ、なんで香澄ちゃんと別れちゃったの?」
「いろいろと細かい意見の相違があって、言い争うことが増えて、そういうことを積み重ねた結果です。」
「彼女も同じことを言っていたよ。でも聞きたいのはそんなことじゃない。ねえ、何があったの?」
夕暮れの日差しがマンションの窓に反射し、ゆるやかな赤みを帯びた光が二人を照らした。啓吾と晶子は互いにその光を受けた顔をしばらく黙って見つめていた。
「誰にも言わずに済むと思ってたのに。」
啓吾は深いため息をつくと、目の前のカップを取りコーヒーを飲み、きらめくマンションに目を移した。
「僕らはセックスをしていないんです。」
晶子は黙ったまま、啓吾の横顔を見ていた。
「別な言いかたすると、交互に手や口で行かせ合うことが僕らのそれでした。」
啓吾は晶子に向き直り、力のない微笑みを返した。
「香澄は普段の大人びた聡明な雰囲気と違って、そちらの方は大変奥手でした。キスは神の前で永遠の愛を誓った後にするのがファーストキスよ、とか言い張って、唇にキスするのも大変でしたし、キスをクリアして舌を絡ませると、激しすぎて怖いって泣いたりして、僕も最初は驚いてばかりでした。でも性的なことに興味がなかったわけではないんです。表面的にはバージニティへのこだわりになってたけれど、香澄はあの行為に対して何かとても根深い恐怖感を持っていました。はっきりした理由はわかりません。」
啓吾は寂しげに手に持ったコーヒーカップに目を落とした。
「あの、香澄のお父さんって、たいそうな会社の偉い人でしたよね。」
「うん」
「酔うと香澄のお母さんをよく殴ってたそうです。そんな家庭の事情とか幼児体験とかそのレベルの影響と僕は思ってました。」
晶子は深いため息をついて、両手のひらに顔を埋めるように俯いた。
「でも人を好きになれば体を求めあうのは自然のことと話し合って、少しずつ関係を深めることは出来きて、そんな彼女を愛おしく思ってました。でも次第に好みや考え方の違いも明らかになってきて。香澄って、気に入らないもの、理解できないことが少しでもあると拒絶反応が強く、過剰に辛辣なところがあって、僕好みの音楽や映画のことでよく言い合いをするようになりました。それで僕が就職し結婚が現実的になった3年目になると、些細なことでも言い合いになることもあって、このままやっていけるのか不安ばかりでした。無論それには僕の方にも満たされない不満があったのは確かです。それで冷却期間を置いてしばらく会わないことにしたんです。本当は自分の覚悟を決めるための期間にするつもりでした。」
晶子は涙をにじませた目で、啓吾が両手で包むように持ってこねるようにゆっくりと揺らすコーヒーカップを見ていた。
「ところがその間に予想してなかったことが起きてしまって。」
啓吾は夕日を反射しきらめくマンションに再び目を向けた。
「相手はバイト仲間のガールフレンドでした。なんの気なしにそのバイト先の居酒屋に一人で飲みにいったら偶然彼女も一人で来ていて、なんとなく話しているうちに、彼女から友達と別れたいって相談され、こちらも香澄のことを聞いてもらって話ている間に妙な空気になって。それまで数回しか会ったことしかなく会話らしい会話もしたことなかったのに、彼女に惹かれる気持ちを抑えることがどうしてもできなかった。これから僕らが付き合うことにすれば、お互いそれぞれの相手と別れるいい理由になる、と冗談のつもりで言ったらうまく笑えず黙ってしまって。なにかスイッチのようなものが入って、もう止まらなかった。その夜のうちに彼女のアパートに行って、そういう関係になってしまったんです。それが僕の初体験でした。」
晶子は涙を拭うと、マンションからの柔らかい反射光を受けた啓吾の横顔を見た。
「その夜から次の日の昼過ぎまで、ほとんど飲まず食わずで抱き合っていました。溺れるように、って言ってもいいぐらい。今日のような爽やかな夏の土曜日で、合間合間に裸で抱き合い窓から見える空を眺めながら話してみると、お互いの感性も近いことがわかって。それからはできうる限り彼女と一緒でした。映画、現代アートの美術館、野外ライブ、海沿いのドライブ、クラシックのコンサートやクラブ巡り、全てが刺激的で楽しかった。それに香澄と違って重石や足枷のない解放感たっぷりの彼女との、なんというか、あれは、本当に強烈でした。これほど気持ち良くて楽しいものなのかと。それに好きな人からストレートに欲望されることの心地良さもありました。香澄のことなんて吹き飛ぶくらいの。罪悪感なんて微塵も無かった。」
夕陽は地平線の上の雲に徐々に沈み、マンションのきらめきは少しずつ衰えていた。啓吾は晶子に顔を向けた。
「でも10月の初めに電話一本で一方的に別れを告げられ彼女とは突然終わってしまうんです。」
「それはまたどうして?」
啓吾は力なく首をふった。
「ごめんなさい、もう会えない、アパートも引き払った、あなたと出会えて嬉しかったしとても楽しかった、頑張って生きていて、そんな電話でしたね。」
「それはひどい。」
「本当に衝撃でした。その後の自分が何をどうしてたのか今もよく覚えてないんです。確か十二月の初めごろかと思うんですけど、コーラス部OBの合唱コンサートで香澄に再会した時、ホールの片隅呼ばれて、約束の日が過ぎてもなんで連絡くれないの?待ってたのに!私にはあなたしかいないのに!と涙目で怒りをぶつける彼女を前にしても上の空で、もう終わりなの?という彼女に、そうだねってぶっきらぼうに答えてしまって。香澄にはひどいことをしました。」
「あのときは香澄を慰めるの、本当に大変だったよ。」
「申し訳ないです。彼女には様々な葛藤があったのはわかっていたのに、全て台無しにした上に傷つけてしまった。気づいたときには全て手遅れでした。」
「白川君にそんなことがあったとはね。」
「だからなんですけと、香澄が北野さんと結婚すると知ったときは、ちょっとホッとしました。」
「君と別れてから、たった七ヶ月後だよ。」
「まあ、たしかに驚きました。でも北野さんなら自分より全然いい人だし、しっかりしてるし大丈夫って思いました。結婚式では香澄もとても幸せそうだったし。」
「結婚式、白川君、よく来たよね、って泉ちゃんと話してたよ。」
「そりゃ複雑な気持ちだったけれど、送られてきた招待状を断るのもどうかなとも思って。まあ、プロポーズをオーケーした理由が、初めて会った時からずっと好きでした、と北野さんに告白されたから、っていうのにはホントびっくりで正直どういう顔したらいいか困りましたけど。北野さんにはほんと申し訳ないことをしました。でも二人の結婚式、行ってよかったと思ってます。幸せそうな香澄を見たら、こっも頑張らなくてはとポジティブな気持ちになりましたし。」
晶子は深いため息をついた。
「あの時のウェディングドレスの香澄はとても綺麗でしたね。」
晶子の目に涙が溢れていた。
「思い出すと切ないね。悪いね泣いたりして。」
「構いませんよ。」
「まるで、白川君に振られた女みたいだね。」
藤沢さんはバッグからハンカチを取り出し何度か深呼吸しながら涙を拭った。啓吾はその様子をじっと見ていた。
「あの、聞いていいですか?」
「何?」
「あの頃、ここに集まってたグループのことですけど、藤沢さんと泉さんが中学から一緒でなんでしたよね。」
「うん、その頃は顔見知り程度だったけど、高校をに入ったら、コーラス部と図書委員会とか気がつけば一緒で、話をしてるうちに親しくなってね。」
「香澄とは、自転車通学の方向が途中まで一緒だったんですよね。」
「うん、いつのころからかコーラス部で三人で行動することが増えてね。それから源さんは、中学が一緒で泉ちゃんとは中二の時に同級生で、ほら美術部って音楽室の隣でしょ。泉ちゃんに連れられて、源さん今何描いてるのって冷やかしにいってるうちに馴染んできて。」
「コーラス部と天体観測部と掛け持ちしていた長広さんも源さんと意気投合して、それで天体観測部の北野さんと繋がったんですよね。」
「うん、自然と美術室やら音楽室や図書室や天体観測イベントで集まっては喋るようになってね。それで卒業後はこのカフェになったの。」
「ここでのみなさんの話してる様子を最初に見た時、どうして話題があれこれ多岐に切れ目なく出続けるのかと驚きましたよ」
「そう?。白川君は馴染むのが早いと思ったよ。」
「いやいや、それで皆さんその後どうしてたんですか?」
「香澄と北野君が結婚後、源さんはちょっと遠い所にある中学の美術の先生になって実家を出てね。それから教師を続けながら絵を描き続けている。最近ドイツの画商に認められて、あちらでも作品も売れているらしい。なぜか結婚はしてないが。」
「でも作品が海外で認められるなんてすごいですね。」
「うん。そして長広君は、まあいろいろとあったようだけど、15年前にコーラス部OB合唱団の後輩の女性と結婚した。10歳下には驚いたけれどね。」
「それはそれは。」
「私と泉ちゃんはパッとしないながらも独身生活を満喫すべく休みを合わせてよく旅行したよ。国内だけでなく海外も行った。そしたら二人同じころに仕事関係で知り合った人に交際を申し込まれる事態になってね。誠実以外取り柄がないタイプだけれど、私たちみたいな女はそれでもありがたく思わないと、と話を進めてね、結婚妊娠出産もほぼ同じ時期で、ママ友としても仲良く家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっている。今は住んでるとこが離れてるが、今スマホという便利なものがあるでしょう。ほぼ毎晩、今夜の献立から実父母、義父母の介護問題について深夜までやり取りして、亭主を呆れさせてるよ。」
啓吾が笑う姿を見て、残った涙を拭いながら、晶子も微笑んだ。夕日が雲に隠れ、高層マンションは青みがかった薄い影に覆われていた。
「実は、香澄と偶然会ったことがあるんです。二十年くらい前になるかな。香澄の住んでる所の、最寄りの駅ビルの食料品売り場で買い物してた時でした。お互いほぼ同時に気づいて、香澄さん、久しぶり、って声かけたら、彼女、少し戸惑ってたけど、ここで何してるの?、って怒った顔して睨むんですね。何してるのって買い物に決まってるじゃないですか、って笑って言ったら、どうしてここにいるのよ、ってまたムッとされて。たまにここで買い物してますよ、って答えたんですけど、不満そうに黙ってしまったから、仕方なく、ごめん、用があって急いでるんで、じゃあまた、ってその場を離れたんです。久しぶりに会ったのにずいぶんつれないなぁ、と不思議に思ったのを覚えてます。でもあれは調子が悪くなって仕事を休んでいた頃ですね。」
啓吾は窓の外の夕闇の濃さを少しずつ増していく空に眼を向けた。店内を流れる音楽は、シャーデーの「イッツ・オンリー・ラブ・ザット・ゲッツ・ユー・スルー」に変わっていた。
「僕と香澄がうまくいけば、という話ですけど。」
そう呟くように言うと、啓吾はしばらく黙ったまま空を見上げた。
「やはり無理かと思います。」
啓吾は、虚ろな笑みを晶子に向けた。
「あの人と出会ってない自分を想像できないんですよ。あの夏の前と後では、様々なことが大きく変わってしまいました。」
そう言って目を伏せる啓吾を、晶子はしばらく黙って見ていた。
「それに、今のカミさんと娘に出会えなくなるのも問題ですし。」
すると雲に隠れた夕日が再び現れて、高層マンションを赤く染めた。二人は同時に窓の外に顔を向けた。
「香澄の人生も捨てたものではないと思うんですけどね。北野さん、自分の親と疎遠になってまで香澄に寄り添っているなんて、僕にはできないことですよ。それに香澄をもっと知ろうとこんな風に昔の恋人を探し出して会いに来る友達もいるし。」
マンションの上を一筋の細い飛行機雲が現れ、ゆっくりと伸びていた。
「こんな景色をぼんやり眺めて過ごす人生でも悪くないのに。」
赤みを帯びた飛行機雲が、細い線からほんのりと暗さを増した空に淡く溶けるように広がっていった。
あなたにお詫びしなくてはいけません。
不思議な縁であなたと出会い、私は思っても見ない人生を歩むことができました。
華やかな世界を知り、夢のような暮らしを味わいました。
でも私は満たされていませんでした。
病に侵され朽ちていくだけの体になった今、その思いはなおさら強くなっています。
これまでの雅な暮らしも春の花や秋の紅葉も、故郷の冬の枯野にも及びません。
卑しき身のくせにとあなたは不愉快に思うでしょう。
実は、私にとって幼き頃に出会い、心を通わせたあの方が全てでした。
今も目を閉じると、あの冬枯れの野原が浮かんできます。
幼き日々、後に戦に赴き二度と帰らなかったあの方と一緒に、無邪気に駆けて回った枯野が瞼の裏に広がってくるのです。
そう、今まであなたに送った恋の歌は、すべてあの方を思って詠んだものなのです。
この論文を発表した英国国立アジア文化研究所のグラハム・トーマス博士は、東北院霞野について次のように語った。
「現存している東方院霞野の足跡はごくわずかです。正直申しまして、これまでの彼女のことは、無名のまま消えた多くの平安京関係者と大差ありません。しかし今回発見されたアーサー・ウェーリーの『枯野記』の英訳は、原書の一部と思われますが、霞野の人柄がうかがえる文学史的にも貴重な内容になっています。この『枯野記』は、霞野の愛人であり庇護者である公家に宛てた一種の遺書と思われます。紫式部はじめ日本古典文学の最重要人物である藤原彰子に取り立てられ、有力貴族に見初められ愛人になり、宮廷の歌会に参加するまでになりながら、若い頃に死別した初恋の相手への忘れ得ぬ愛情が描かれています。彼女の感性はどこか現代に生きる我々に近いのではないでしょうか?率直に言って私はこのような人物が平安時代に実在したことに驚いています。」
今の私は天国も地獄も信じる気持ちにはなれません。
あれは知り得ぬ死というものが持つ、恐れによって生まれた夢幻の類いでしょう。
今の私にとってもはや死は恐怖ではないのです。
命の果てた先の暗闇は、
悲しみも寂しさも全てのわだかまりも消え去った、
安らぎの世界に思えます。
私はもう十分生きたのです。
今は静かに、その闇に沈み無に還るのを待っているのです。