私の芸術運動184探求者
10年前の旅先でのことを前回の記事「告白」で書きました、たぶんあの転がる岩は生涯忘れる事はないと思います。
あの岩を止めてくださったあの木があの衝撃で傷を負って枯れていたら?と考え始めたらきりがありません、もう私には感謝するしか無いのです。
あれからもたくさんの旅をして、たくさんの景色を見てきました、そして沢山の絵を描いてきましたが、なぜ忘れられない風景というものがあるのでしょうか?
何気なく目に飛び込んできたもので、しかもその時に特別何か深く感銘を受けたわけでも無い風景が後になって私を呼ぶわけです。
本当にいい絵というのもそういうものだと私は思うのです。色んな絵を見てきました、それこそ色んなところを旅するが如く色んな風景を絵を通して見てきました、行ったこともない、知りもしなかった風景がなぜか私の心を掴んで離さないのは何ででしょう?
私は忘れられない目で見た風景と、忘れられない絵で見た風景になにか?共通のものがあるのだろうか?と。
私の芸術運動ではそういう"もの"をインスピレーションといったん呼ぶ事にしますが、そのインスピレーションの湧き出る所に何があるのか?を私は知りたいのです。
今のところ私はそのインスピレーションをこう例えています
「ごくごく普通のたわいも無いありふれたもの」と。
だけどこれだけじゃ説明がつくはずも無い、わからないものを"何か"と呼んでいるに過ぎません、しかし私はこの何か?にとてつもないエネルギーを感じていますし、それはとても大切な事に思います。芸術をしていない人にも大きく関わる事だと思うし、かと言って重要視されているわけでもなく、うまくそれを言い当てる言葉も無いわけです。
しかし私はそれを知っています、私はそれを感得しては絵に描いています、それを見分ける感性がある、だから私は画家になろうと思うのは自然な事でした。これは特殊能力とか、超能力とかそういうものじゃなくて、自然界で生きている生命なら誰しもが持っていて当たり前だった感覚の断片でしょう。
それが社会の成長、物質主義が進むにつれて見事に忘れられつつあるもの、なぜ満たされないのか?の答えに近いものがあると思います。
人類は進歩してゆく生物?万博のテーマにもあった進歩と調和、ゴールの無い無限の渇望、何を目指して生きているのか?という漠然とした不安と虚無、私達は何を犠牲にしてここまで来たのか?
33歳のフリーターの私が考えるには荷が重すぎるテーマですし、身の丈にあってませんからこれくらいにしておきます。笑
1探求者として私は私にできる事をする。